暖房を切った夜、世界が静かになった
午後十時、〈白樺苑〉の廊下は細い川みたいに冷たかった。
床は磨かれていて、蛍光灯の白が長く伸びる。壁時計の秒針が一定の速さで進むたび、空気の膜がわずかに揺れる気がした。
ナースステーションで記録用紙をまとめながら、美和は指先を擦り合わせる。消毒液の匂いが指の水分を奪い、紙の角が爪に触れて少し痛む。
背後で、椅子が軋んだ。主任の松田が、背もたれを鳴らす。眠そうな目つきで、唇の端だけが笑っている。
「今日も遅いね。要領悪い人って、冬になると余計目につく」
淡々と、空気に氷を混ぜるみたいに言う。
言い返す必要は、もうない。
何度も重ねられ、形を変えた同じ言葉。
“女は弱いくせに神経質だ”“利用者の前で泣くな、品がない”――
美和の中で、ひとつずつ氷片になって沈んでいった台詞。触れれば切れるが、音はしない。
夜勤の巡回が始まる。
廊下の端で給湯器が低く唸り、遠くの個室から浅い寝息が重なる。
森田老人の部屋に掛けた毛布の端を整え、湿ったタオルを取り替える。
向かいが、主任の仮眠室だ。
ドアはいつも少し開いている。
生ぬるい空気が廊下へ逃げ、他の部屋との温度差でうっすらと結露が浮かぶ。
中は明るすぎる白色灯。壁のフックに空調のリモコンが掛けてある。
液晶には「27」。
ステーションで節電の話をした日の夜でも、この数字は変わらない。
美和は一呼吸置いて、仮眠室に入った。
布団の膨らみがこちらへ背を向け、規則的ないびきが薄く漂ってくる。
枕元の紙コップ。水面が揺れて、白い照明が切れ目を作る。
壁際まで歩く。
リモコンに手を伸ばし、親指で温度を二回押す。
ピ、ピ。
液晶は「25」になり、風向きの矢印が天井のほうを指す。
“ちょうどいい”見た目だ。
そのまま、窓へ。
アルミサッシの鍵は横向き。
少しだけ力を入れると、金属の舌がコツンと軽い音を立てた。固定されるでも、全開でもない、わずかな遊び――外気が糸のように入り込む隙間。
カーテンの裾が、ほんのわずか、指で触れられたみたいに揺れた。
美和は数秒、息を止める。
鼻腔をすべる冷気が、肺の奥を撫でた。
暖房は“点いている”。表示は“適温”。
けれど、風は外へ向いている。
音は変わらない。
何も不自然ではない。
ただ、空気だけが、確実に入れ替わる。
廊下に出ると、主任のいびきはもう聞こえなかった。
風の通り道が変わると、音は別のところに隠れてしまう。
美和はそっと扉を戻し、隙間を同じ幅に保った。
森田老人の部屋に一枚、毛布を重ねる。
「寒くないですか」
老人は、目を閉じたまま小さく頷いた。
午前一時半。
巡回表の欄に記すボールペンの先が、紙の上で乾いた音を立てる。
ステーションに戻ると、主任が椅子に座ったまま眠っていた。
首が不自然に斜めで、薄い唇がわずかに開く。
美和は彼の視線を避け、モニターの記録を確認する。
温度表示は、各室「22~23」。
見た目は、整っている。
午前三時。
施設の外灯が凍裂のような白に強まる。
中庭の樹木が影を伸ばし、窓ガラスに網目のような反射が走った。
仮眠室の前を通ると、空気が変わっていた。
熱の重さが抜け、乾いた冷気が足首に巻きつく。
ドアの隙間に指を当てると、微かに風圧がある。
暖房の稼働音がしているのに、廊下の温度は落ちていく。
美和は何も言わない。
森田老人の手を温め、湯たんぽの位置を直す。
窓の結露がうっすらと白く縁取られ、触れれば崩れそうな霜の気配を孕んでいる。
扉の向こう、仮眠室の空気は、もう“夜の音”を吸わない。音が消えていく感じ。
世界から、わずかに音が引き算される――そんな夜がある。
午前四時半。
ステーションの壁時計は、長針が「9」に傾いて止まって見えた。
仮眠室の前に立つ。
ドアノブに触れると、金属が冷たく、皮膚の熱が吸い取られる。
静かに押し開ける。
窓際のカーテンは動かず、直立の布のまま、そこだけ空気の流れが見えない。
窓ガラスに網目状の白。結露が凍り、薄い葉脈のように広がっている。
室内の空気は乾いて軽く、息をするたび胸の内側に細い針を立てられる感じがした。
布団の膨らみは、さっきより低い。
肩口からのぞく肌に、粉をふいたみたいな白がついている。
照明を点けない。
スイッチに触れる指を、彼女はそっと引っ込めた。
音を立てなければ、世界はこのまま静かでいてくれる。
朝になって、騒ぎはふいに始まる。
看護師が、主任を呼ぶ。
返事はない。
布団がめくられ、空気が動き、冷気が床に落ちた。
誰かが叫ぶ。
短い「えっ」という声が三つ重なり、そのあとで長い沈黙が来る。
救急車の赤が白い壁を舐め、金属の台車が軋む。
手袋の音が重なり合って、すぐ離れていった。
ステーションの端で、美和は記録をまとめる。
巡回欄には夜中の時刻が並び、異常なし、とある。
温度の表示は一晩中「22~23」。
誰かが言う。「タイマーの不調じゃないか」「窓、結露が凍ってたぞ」
別の誰かが「換気を頼まれてたのかも」と答える。
薄い紙の上で、言葉は軽く跳ねる。
警察が来て、短く確かめ、短く帰る。
冬の事故は、冬らしい顔をして現れる。
報告書の欄は既に埋まっていて、美和の署名は昨日と同じ筆圧で結ばれる。
昼前、空は少しだけ晴れ、陽の色が淡くなった。
職員口から出ると、白い息が消えるのが早い。
足元で霜が砕け、乾いた音がした。
美和は両手をコートのポケットに入れ、深く吸い込む。
冷たい空気の底に、薄い甘さがある。何かが終わった朝の、無臭の甘さ。
「寒かったね」
背後で同僚が言う。
美和は振り返り、ゆっくり頷く。
「ええ。……でも、今日は不思議と静かです」
同僚は頬を摩って、曖昧に笑った。意味を取らない笑い方。
道の向こうのバス停では、子どもが肩をすくめ、母親のマフラーに顔を埋めている。
風は弱い。
世界は、少し軽くなったように見えた。
その日の夕方、出勤前の部屋で、美和は窓を開けてみた。
カーテンが、午前の仮眠室で見せたのと同じ角度で揺れる。
鍵を半分戻す位置――カチリとも鳴らない、静かな中間。
その位置を指で覚え、そっと元に戻す。
何かを外に逃がすための角度は、人それぞれ違う。
彼女にはもう、迷いがない。
夜、施設に戻る。
廊下の温度は昨夜と同じ。
森田老人はよく眠り、湯たんぽを抱いた手がゆっくり動く。
仮眠室のドアには、新しい鍵が付けられていた。全閉の印が赤い。
ステーションの端に立ち、美和はカーテンの裾の折り目を思い出す。
あのときの揺れ方。
あのときの呼吸の深さ。
あのときの静けさ。
世界は、あの夜から少しだけ変わった。
音がいくつか減り、言葉がいくつか要らなくなった。
彼女はそれを「働きやすさ」と呼ぶつもりはない。
ただ、今日の温度がちょうどいい、とだけ思う。
ステーションのランプがひとつ消えて、陰が床に落ちた。
美和は立ったまま、ガラスに映る自分を見た。
口元がわずかに動く。
笑ったと言うほど大きくない。
でも、表情ははっきりと軽くなっていた。
窓の向こうで、風が細く鳴る。
カーテンは動かない。
今夜の世界は、最初から静かだ。




