表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

暖房を切った夜、世界が静かになった

作者: 妙原奇天

 午後十時、〈白樺苑〉の廊下は細い川みたいに冷たかった。

 床は磨かれていて、蛍光灯の白が長く伸びる。壁時計の秒針が一定の速さで進むたび、空気の膜がわずかに揺れる気がした。


 ナースステーションで記録用紙をまとめながら、美和は指先を擦り合わせる。消毒液の匂いが指の水分を奪い、紙の角が爪に触れて少し痛む。

 背後で、椅子が軋んだ。主任の松田が、背もたれを鳴らす。眠そうな目つきで、唇の端だけが笑っている。

「今日も遅いね。要領悪い人って、冬になると余計目につく」

 淡々と、空気に氷を混ぜるみたいに言う。


 言い返す必要は、もうない。

 何度も重ねられ、形を変えた同じ言葉。

 “女は弱いくせに神経質だ”“利用者の前で泣くな、品がない”――

 美和の中で、ひとつずつ氷片になって沈んでいった台詞。触れれば切れるが、音はしない。


 夜勤の巡回が始まる。

 廊下の端で給湯器が低く唸り、遠くの個室から浅い寝息が重なる。

 森田老人の部屋に掛けた毛布の端を整え、湿ったタオルを取り替える。

 向かいが、主任の仮眠室だ。


 ドアはいつも少し開いている。

 生ぬるい空気が廊下へ逃げ、他の部屋との温度差でうっすらと結露が浮かぶ。

 中は明るすぎる白色灯。壁のフックに空調のリモコンが掛けてある。

 液晶には「27」。

 ステーションで節電の話をした日の夜でも、この数字は変わらない。


 美和は一呼吸置いて、仮眠室に入った。

 布団の膨らみがこちらへ背を向け、規則的ないびきが薄く漂ってくる。

 枕元の紙コップ。水面が揺れて、白い照明が切れ目を作る。


 壁際まで歩く。

 リモコンに手を伸ばし、親指で温度を二回押す。

 ピ、ピ。

 液晶は「25」になり、風向きの矢印が天井のほうを指す。

 “ちょうどいい”見た目だ。

 そのまま、窓へ。


 アルミサッシの鍵は横向き。

 少しだけ力を入れると、金属の舌がコツンと軽い音を立てた。固定されるでも、全開でもない、わずかな遊び――外気が糸のように入り込む隙間。

 カーテンの裾が、ほんのわずか、指で触れられたみたいに揺れた。


 美和は数秒、息を止める。

 鼻腔をすべる冷気が、肺の奥を撫でた。

 暖房は“点いている”。表示は“適温”。

 けれど、風は外へ向いている。

 音は変わらない。

 何も不自然ではない。

 ただ、空気だけが、確実に入れ替わる。


 廊下に出ると、主任のいびきはもう聞こえなかった。

 風の通り道が変わると、音は別のところに隠れてしまう。

 美和はそっと扉を戻し、隙間を同じ幅に保った。

 森田老人の部屋に一枚、毛布を重ねる。

「寒くないですか」

 老人は、目を閉じたまま小さく頷いた。


 午前一時半。

 巡回表の欄に記すボールペンの先が、紙の上で乾いた音を立てる。

 ステーションに戻ると、主任が椅子に座ったまま眠っていた。

 首が不自然に斜めで、薄い唇がわずかに開く。

 美和は彼の視線を避け、モニターの記録を確認する。

 温度表示は、各室「22~23」。

 見た目は、整っている。


 午前三時。

 施設の外灯が凍裂のような白に強まる。

 中庭の樹木が影を伸ばし、窓ガラスに網目のような反射が走った。

 仮眠室の前を通ると、空気が変わっていた。

 熱の重さが抜け、乾いた冷気が足首に巻きつく。

 ドアの隙間に指を当てると、微かに風圧がある。

 暖房の稼働音がしているのに、廊下の温度は落ちていく。


 美和は何も言わない。

 森田老人の手を温め、湯たんぽの位置を直す。

 窓の結露がうっすらと白く縁取られ、触れれば崩れそうな霜の気配を孕んでいる。

 扉の向こう、仮眠室の空気は、もう“夜の音”を吸わない。音が消えていく感じ。

 世界から、わずかに音が引き算される――そんな夜がある。


 午前四時半。

 ステーションの壁時計は、長針が「9」に傾いて止まって見えた。

 仮眠室の前に立つ。

 ドアノブに触れると、金属が冷たく、皮膚の熱が吸い取られる。

 静かに押し開ける。

 窓際のカーテンは動かず、直立の布のまま、そこだけ空気の流れが見えない。

 窓ガラスに網目状の白。結露が凍り、薄い葉脈のように広がっている。

 室内の空気は乾いて軽く、息をするたび胸の内側に細い針を立てられる感じがした。


 布団の膨らみは、さっきより低い。

 肩口からのぞく肌に、粉をふいたみたいな白がついている。

 照明を点けない。

 スイッチに触れる指を、彼女はそっと引っ込めた。

 音を立てなければ、世界はこのまま静かでいてくれる。


 朝になって、騒ぎはふいに始まる。

 看護師が、主任を呼ぶ。

 返事はない。

 布団がめくられ、空気が動き、冷気が床に落ちた。

 誰かが叫ぶ。

 短い「えっ」という声が三つ重なり、そのあとで長い沈黙が来る。

 救急車の赤が白い壁を舐め、金属の台車が軋む。

 手袋の音が重なり合って、すぐ離れていった。


 ステーションの端で、美和は記録をまとめる。

 巡回欄には夜中の時刻が並び、異常なし、とある。

 温度の表示は一晩中「22~23」。

 誰かが言う。「タイマーの不調じゃないか」「窓、結露が凍ってたぞ」

 別の誰かが「換気を頼まれてたのかも」と答える。

 薄い紙の上で、言葉は軽く跳ねる。


 警察が来て、短く確かめ、短く帰る。

 冬の事故は、冬らしい顔をして現れる。

 報告書の欄は既に埋まっていて、美和の署名は昨日と同じ筆圧で結ばれる。


 昼前、空は少しだけ晴れ、陽の色が淡くなった。

 職員口から出ると、白い息が消えるのが早い。

 足元で霜が砕け、乾いた音がした。

 美和は両手をコートのポケットに入れ、深く吸い込む。

 冷たい空気の底に、薄い甘さがある。何かが終わった朝の、無臭の甘さ。


 「寒かったね」

 背後で同僚が言う。

 美和は振り返り、ゆっくり頷く。

「ええ。……でも、今日は不思議と静かです」

 同僚は頬を摩って、曖昧に笑った。意味を取らない笑い方。


 道の向こうのバス停では、子どもが肩をすくめ、母親のマフラーに顔を埋めている。

 風は弱い。

 世界は、少し軽くなったように見えた。


 その日の夕方、出勤前の部屋で、美和は窓を開けてみた。

 カーテンが、午前の仮眠室で見せたのと同じ角度で揺れる。

 鍵を半分戻す位置――カチリとも鳴らない、静かな中間。

 その位置を指で覚え、そっと元に戻す。

 何かを外に逃がすための角度は、人それぞれ違う。

 彼女にはもう、迷いがない。


 夜、施設に戻る。

 廊下の温度は昨夜と同じ。

 森田老人はよく眠り、湯たんぽを抱いた手がゆっくり動く。

 仮眠室のドアには、新しい鍵が付けられていた。全閉の印が赤い。

 ステーションの端に立ち、美和はカーテンの裾の折り目を思い出す。

 あのときの揺れ方。

 あのときの呼吸の深さ。

 あのときの静けさ。


 世界は、あの夜から少しだけ変わった。

 音がいくつか減り、言葉がいくつか要らなくなった。

 彼女はそれを「働きやすさ」と呼ぶつもりはない。

 ただ、今日の温度がちょうどいい、とだけ思う。


 ステーションのランプがひとつ消えて、陰が床に落ちた。

 美和は立ったまま、ガラスに映る自分を見た。

 口元がわずかに動く。

 笑ったと言うほど大きくない。

 でも、表情ははっきりと軽くなっていた。


 窓の向こうで、風が細く鳴る。

 カーテンは動かない。

 今夜の世界は、最初から静かだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ