食べるという事
猫にご飯をあげるとき、普段は私なんかに寄り付きもしないのだが、その時ばかりはすり寄ってくる。ご飯を夢中に食べている。同じく犬にご飯をあげるときも、準備の段階からソワソワ始まる。器を置くや否や飛びついて急いで食べる。その姿を見ていると、「食べる」ことの大切さってのがいやって程ほど伝わってくる。もちろん食べなきゃ死ぬわけだから大切なのだが、毎日かかさず確実にご飯をもらえている環境でも、犬や猫など、飼育動物全体は全く油断しないのだ。いつ食べられなくなるかもしれないという本能が残っているのだと思う。だから、おいしくとか、楽しくとか、そんなことは全く関係なくて、そこに食べ物があったらいつ何時でも食べておかねばならぬ物なのだ。しかし、がむしゃらに食すその姿は、野性的な美しさがあり、自然界の法則に準じて営まれる循環の中で完結している。故にそこには必然的に感謝や喜びが意図せぬ形ですでに存在しているのではないか。野生環境下での無駄に狩らない、無駄に争わないという合理主事を貫く姿勢が法則内の秩序なのだ。
いっぽう私たち人類はどうかと言うと、「いただきます」「ご馳走さま」と口では言うが、本当に毎度の食事に感謝しているのだろうか?定住生活環境を獲得してから食い扶持を「ストック」出来るようになった人類は「油断」していると思う。時は現代に移り我々は更に油断するどころか、無駄にするようにもなった。なぜならば経済主義が動物や植物をどんどんお金に変えていったからだ。お金が増えたらそれで終わりではない。さらにお金を増やそうとする。その成功を横で見ていた者たちも一斉にそれを始める。動物、植物は絶滅せぬ様管理される。お金を増やすためにどんどん動植物は出荷される。いったん出荷されたものは売れようが余ろうが知ったことではない。お金の為ならば、何ヘクタールの自然が破壊されようが、生後3か月の子牛が殺されようがどうでもよいのである。自然界の法則から完全に逸脱していると言わざるを得ない。そんな世の中にもかかわらず、食事に感謝しているとはどの口が言うのか。感謝できるようなシステムで生きていない者がその言葉を言ったところでいったい何になるのか?「いただきます」「ごちそうさま」の本当の意味を知ったところでなんだというのか。そういうのを偽善という。
もはや、それらは食前食後の単なる挨拶に過ぎない。
正直になるべきだ。自分が今日好きなもので腹を満たせた事のみに満足し、材料となった動植物は考えない事だ。なぜならば、お金さえあれば動植物の死骸はいつでも手に入る。お金を稼げた自分だけに感謝すればよいのだ。
朝昼晩と3食の食事をきっちり摂り、小腹がすいたら何か食べ、寝る前にも少々。こんなに好きな時に好きな物を好きなだけ食べられる世の中で、前出の猫や犬のように夢中で食べることなんてできるわけが無いのだ。
でも私は、猫や犬のように食事に夢中になりたいと思っている。外食とか高級料理で嬉しいとか、そういった夢中ではない。食事そのものを待ち、出てきた料理を大きく喜び、そして食す。食のカタルシスとでもいうべきか。そうなる為にはどうするのが良いか。
そもそも1日3回食べるって誰が言い出したのか?エジソンか?食べる回数なんて会ったこともない他人に決められるもんではないでしょ。間食なしで、腹が空いたときに食べる。この方法を実践してから、これだけでだいぶ喜べるし、よくわからん世間の常識も打ち破ることが出来る。動植物の死骸を喜んで食せるのである。
しかし一方で皆がこれを実践してしまうと、例えば、昼ご飯食べない習慣になってしまうと、ランチに関わる経済的部分がすべて消える。こうなると困るのである。むしろもっとお金が回るよう人類を洗脳して1日5食の習慣にしたいくらいなのだから。
そう考えてみると、「常識」と言われる世間のよく分からない決まりって、大よそ経済と結びついているのだろうな。
それをいくつ見抜き、脱却できるか。挑戦していきたい。




