理解など出来ぬ
SNSなどで、動物の幸せについて考えるとか、動物倫理だとかの記事をよく見かける。動物が幸せかどうかを人間が一生懸命考えるのである。私も動物哲学者として考えたりもするのだが、結果としていつも自分の都合のいいように解釈して終わる。おそらく昔からそのようなことを考えていた人などたくさんいただろう。にもかかわらず未だ結論が出ないという事は、「さっぱり分からない」が結論なんだと思う。それはもちろんのことで、分かろうとする、分かるはずだと思う人間の方が傲慢なだけなのだ。だいたい隣の人間の気持ちも分からないのに、動物の気持ちなど分かるはずが無いのである。人間から動物を見て色々と考察することを「動物観」という。結局そうするしかないのだから仕方がない。けれども、私たちは、動物について考えてしまう。考えずにはいられないのである。「確証はない」という事を前提とした考察を積み重ねていきたいのだ。
デコポンは幸せか?そんなことはいちいち考えない。なぜならば常にそうなることを願った飼育をしているわけで、それは土台の部分なのだ。だから考えることと言ったら、ボロ(馬糞)の出は良いか?痩せてないか、太ってないか、体温は問題ないか、そんなことばかりである。
まぁSNSで言われている多くの物は、家畜の飼育方法とか犬猫の殺処分とか社会問題化されているものです。人間が蒔いた種は、人間が刈り取らねばならぬ。確かに問題視されている動物たちは、人間の都合だけで死んでいく訳だから、それに反対する人間がいてもいいわけである。
話を戻すと、おそらく「幸せ」な動物などほんの一握りだろう。ここでいう幸せとは、「満足した生活を送れること」とする。うちの子達は隙あらば逃げようとするし、広い場所で遊ばせても、壁やフェンスの向こう側へ行こうとする。お部屋に戻そうとすると逃げ回り、時には嚙みついたりもする。街に出ると「うちの子知りませんか」っていう張り紙もよく見る。逃げたまま戻ってこないのだろう。
動物たちは満足などしていない。絶対にしていない。常に自由になるチャンスをじっと窺っているのだ。私が動物たちへの言葉としてよく言う言葉がある「動物は信頼しても、信用するな」。
これは名言だと自画自賛して終了とする。




