家族
数十年前までは、犬は外で飼われていた。小さな犬小屋に鎖で繋がれ、食べ物と言えば人間の残り物が殆どで、何日も同じ水が入っていた。いつの頃からか、多くの犬は室内で飼われるようになり、残飯から専用のフードに変わった。更に、おやつなどの嗜好品や服など、身の回りのありとあらゆる物が開発提供された。
現在は、暖かい部屋の中で飼い主たちと一緒に生活することが当たり前となった。社会性を身に付けるために、ドックスクールなんてのもあるし、ドックスポーツも盛んにおこなわれている。かく言う筆者もその内の一人である。
猫もそうだ、猫は散歩は不要とされ、トイレは自然に覚えるため飼育しやすいとされる。そのせいか分からないが、飼育頭数がついに犬を上回ったそうだ。書店に行けば、その手の書籍がずらりと並び、その勢いはいまだ衰えずである。
その位置は犬猫共に「家族」となり、異種ながらも人間の家族として迎え入れられるようになったのである。犬猫からしてもまんまと人間に取り入り生存戦略としては「してやったり」といったところか。
しかし、初めはかわいいと向かい入れられた彼らだが、ノウノウと生きてはいられない。なにかしらの芸を覚えなければならないからだ。「オスワリ」「オテ」「マテ」などが代表例。ここで得意になってすぐに出来てしまうと、飼い主は喜び、さらに多くの課題を持ってくる。余りできないと飼い主は諦め、課題は無くなるが、散歩の数も減る。その辺の塩梅も理解しなければならない。
猫はそういう課題はあまり聞かないから、犬からしたら羨ましくて仕方がないだろう。
そんな彼らの生活が安泰かというと、全てがそうとは限らない。余りに嫌われてしまったり、飼い主の都合で、「捨てられてしまう」のだ。次の飼い主が決まればまだよいが、大人だったり、病気があったりすると、なかなか貰い手はいない。そうなった場合、彼らは虹色の橋を渡っていく。その頭数は犬より猫の方が圧倒的に多いそうだ。人間に取り入った全ての動物の生殺与奪の権は人間にあり、従うしかないのである。
「動物にも尊厳を」とか「生きる権利を」とか「共生を」とか言ったスローガンは、ある人間側がある人間側に言っているにすぎず、それぞれの言葉の後ろには「私たちの管理下で」という言葉が隠れている。当の動物たちはそもそもハナからそんな概念などなく、人間が勝手に言っているだけに過ぎない。
「家族」という言葉も、家族=大切とか家族=絆、を連想させるので、ビジネス的なキラーワードとして使用しているにすぎないが、これはあまりにも見事に「ガッチリ」ハマりすぎた言葉となった。
今後も犬猫の飼育頭数は増えていくだろう。それ以外の動物たちも次々と新規参入を果たしている。ウサギやモルモットなどの小型哺乳類。爬虫類や両生類。昆虫たちだ。
しかし、犬猫たちと違って、参入歴が浅い彼らは、人間と上手くコミュニケーション取れない場合が多い。しかし人間に嫌われた時の対応は犬猫と一緒。歴が浅いからと言って執行猶予は無いのである。特に小型哺乳類は多産が多いので、ショップでお安く手に入れることが出来る。無料や安い物は得てして雑に扱われやすい。逆に高いものは大事に扱われやすい。小型哺乳類たちよ!たとえ雑に扱われたとしても命が欲しくば我慢せよ。なぜならば、人間てのは安い物にはすぐに飽きてしまい、安いからその価値を認めず、エキゾチックと分類される病弱な君たちのために、高額な医療費が果たしてお財布から出てくるのか?など、いろいろ厳しい生涯が待っているパターンが多いからだ。
でも人間はニヤリと言うよ「かわいい家族が増えましたね」って。




