【シンソウ】
†retrogression†カ イ キ†
『オンナを埋めて、非常階段から戻る途中で足を滑らせて……』
彼を“ショウゲキ”が襲った。
――転落した際、脳震盪を起こし気を失い。
「一時的な記憶障害を引き起こした……か……」
容疑者の言葉を思い出し、男は呟いた。
ここは容疑者――
……矢崎 零時のマンションだ。
記憶障害を引き起こし、一旦は気を失った容疑者は、意識が戻った後、行き着けのバーに足を運んでいる。
だが、バーを出てから数日の形跡は謎が多い。
容疑者の常軌を逸した行動は、理解の範疇を越えている。
用意された二人分の食事。
この一週間のうちに買い足された女性ものの衣類。
浮上したのは女性の影。
交際が噂されていた女優の北沢エリカに接触を試みたのは、丁度三日前……木曜日のことだ。
都内の雑踏で待ち合わせた。
勿論、彼女は約束通り一人で現れた。
そのまま適当な喫茶店に入り、色々と事情を聴こうとしたが。
――彼女は尋ねられるより先に言い放った。
『レージの事でしょう?別れたわよ。そうね……一ヶ月くらい前かしら?』
――私には釣り合わないじゃない?つまらない男は。
一ヶ月前……
それは丁度、今現在空前の人気を誇るアイドルグループ“ネメシス”が王座に君臨した頃だ。
「地位とか名誉とかじゃない、本当の“彼”を北沢さんが見付けてあげていたら、或いは……」
――そんな有り得ない“過程”を逡巡してから、首を横に振った。
とにかく。
北沢エリカの証言、行動の全ては裏が取れている。
問題の争点となっている、ここ一週間、容疑者とエリカとの接触は一切なかった。
他の関係者に尋ねてみても、首を捻るばかりだ。
何より、容疑者が第三者を部屋に招き入れたことも、外部で誰かに接触することもなかった。
それは、この一週間張り込んでいた彼らが一番良く判っている。
だが、容疑者はずっと呟き続けているのだ。
“カスミ”と――……
その名を壊れたオーディオ機器のように繰り返す。
しかし、容疑者と木下 霞の間には、加害者と被害者そして、アイドル歌手とそのファンという以外の接点は未だ見付かってはいない。
――ハァ……
相棒が珍しく深い溜息を吐く。
何事かと振り返り、その背中に声を掛けた。
「どうかした?」
「いや」
素っ気なくそう応えると、黙々とまた何かを捜し始める。
鑑識の調べは疾うの昔についていた。
精神科医による診断も下され、書類送検の段取りも着々と進んでいる。
この一週間、容疑者は違法の薬物を大量に摂取した形跡があった。
それはまさに“溺れるように”という表現が相応しいだろう。
甘い香りに誘われるように渇く喉を潤すように、容疑者は本能のまま貪ったのだ。
『あれだけ一気に飲めば、誰だって中毒症状を起こすさ』
容疑者の担当医が呆れたように、そう言っていた。
『ガイ者は熱狂的なファンだったそうじゃないか』
そう、木下 霞は熱狂的なファンだった。
その情熱は、最早常識を逸脱したものがある。
彼女の部屋には、容疑者の……
――否、かつて栄華を極めた人気シンガー レージの写真がところ狭しと貼られていた。
中にはプライベートだと思われる写真もあり。
ストーカーだと訴えられても文句は言えない、際どい写真も数点見付かっている。
彼と浮名を馳せた女性の写真も中にはあった。
が、それらの写真全てには真っ赤な口紅でバツ印が描かれている。
中に、一枚だけ顔が見えない程ぐちゃぐちゃに塗り潰された写真があったのだが……それはまた別の話だ。
とにかく、彼女の情報収集は徹底していた。
デビュー当時から今までの約二年間にも及ぶスクラップ帳が、戸棚にぎっしりと詰まっており。
どんな些細な記事も、丁寧に保存されていた。
『ファンレター、大量に見付かったんだろう?』
誰から聞いたのか――……
担当医が確認してきた。
確かに、容疑者の自宅からは、未開封のままのファンレターの束が発見されていた。
差出人の名は“カスミ”
つまり、担当医の見解はこうだ。
――中毒症状によって幻覚に魅入られた容疑者。
何らかの形で自分が殺した相手の名を知り、その現実を否定する為に幻覚を造り出した。
『幾らでも彼女の名を知るチャンスはあったんだよ。それが例えば無意識の状態だったとしてもね』
説得力は充分にある。
だが憶測の域を出ない上に、物的証拠が中々見付からない。
もし万が一、容疑者の言う“カスミ”という女性が本当に居たとしたら。
木下 霞のことではなく、もう一人別にいるのだとしたら、事件は厄介な方向へと大きく転換する。
――容疑者と、かつて男女の関係にあった女性が謎の死を遂げた。
司法解剖の結果、他殺と判明。
死亡推定時刻は一昨日……金曜日の深夜0時から1時の間とされた。
その前後の矢崎 零時のアリバイを立証出来るものは当然なく、共犯者がいるのだとすれば、見逃すわけにはいかない。
動機は充分ある。
女性は矢崎を一ヶ月程前、一方的に手酷く振っている。
しかし、精神に異常を来たしている容疑者に、これ以上真偽を問うことは難しいとされた。
女性に繋がる物的証拠は、まだ何も見付かってはいない。
捜査は暗礁に乗り上げていた。
手を拱く寸暇も惜しむように、原点である容疑者宅へと足を運んだのだった。
「おい、来てみろ」
相棒に呼ばれるままに近寄り、顎で示す手元を覗き込む。
そこにあったのは容疑者……
――否、一人の不器用な男が綴ったラブレター。
「――……captivか」
――captiv……“虜”
それが、その曲の名だ。
作曲年月日は、彼が逮捕された丁度その日。
偶然か
必然か
「胸クソわりぃ……」
誰にともなく、男はポツリと呟いた。




