もうひとつの影の物語
短編です。
少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。
以前投稿した「影」の続編的な短編です。
よろしかったらそちらもご覧ください。
私は、駅から吐き出される人々を、通りを挟んだ向かいのカフェからみつめた。
陽は傾き、よい感じに街に長い影を落としている。
少し前までエスプレッソコーヒーを片手に、文庫本を読んで時間を過ごしていた。
ときおり駅から出てくる人に目むけていたが、時間にはまだ余裕があったし、今のうちに読みかけの本を終わらせてしまおうと思ったのだ。
本の内容は無惨なものだった。主人公の行動は稚拙で理解できないし、あまりにも偶然に助っ人が現れて主人公を助けてしまう。それでも最後まで読もうと思ったのは、ただ単に時間つぶしというわけではなく、ヒロインが私の境遇と似かよっていたからだ。
それでも結局というか、やはりというか、そのヒロインは自分がおかれている状況から抜け出そうともがいていたが、どこにもいけないまま終わってしまった。
それを読みをえて私の未来を暗示されているようで、少し憂鬱な気分になった。
どこにも行けない自分。行こうとしない自分。
腕時計に目をやった。もうそろそろだろう。再び駅に目をやった。
残業もなく終わったOLやサラリーマンの群衆が駅から生まれかえったばかりの稚魚のように吐き出されていく。
私はエスプレッソコーヒーを一口のみ、彼等の視線に注意した。
だれも自分の影に気をはらっている人はいない。それもそうだろうな、と私は思う。忙殺される日々のなか、なぜ影に注意をはらわなければいけないのか。意識する方がおかしいのかもしれない。
でも私は知っている。彼等のうちの何人かは影が小さいことを。そのことに気づいているのか、気づいていないのか分からないが、誰も気にとめている様子はない。
影が少し他人より小さいからって、日常生活に支障をきたすことはなにもないからかもしれない。
私がここのカフェで文庫本を読んで時間を潰していたのは、なにも彼等の影に対する無頓着さを見るためではない。彼等がなにを失おうと私の知ったことではないからだ。
しばらく人混みを見ていると目当ての人物が現れた。
ショルダーバックをたすきにかけている男が出てきた。男の視線は前方のやや下の方を向いている。
いっけん、ただ疲れているように見えるかもしれないが、注視すると他人の影を目で点検するように次から次にと移動しているの分かる。
それを見て私は鞄を手にとって立ち上がった。
男の後ろに追いついたときには、少し息が上がっていた。
別に走ってた訳ではないが、慣れないパンプスのうえに早歩きをしたためだ。
なぜこんな靴を選んだのだろう。もう少し出かける時に気をつけていれば良かった。
私は少し後悔した。
呼吸を整えるために少し間をおいて話しかけた。
私の突然の声に男は驚いたようだ。「こんにちは」という私の声に振り返った男の表情は困惑しているのがみてとれた。
戸惑ったように「こんにちは」と彼は言ってから、私の後ろ斜めの、影にちらっと視線をやった。他人の影を見るのが癖になっているのだろう。
「そんなに他人の影って気になるの」私の問いに彼は驚いたようだった。目の端でとらえていた彼の影も一瞬だが、ぴくっと驚いた気がした。
私は男の影に視線をやった。
彼は自分の影を見られて居心地が悪そうにしている。
「なにをいっているのか分からないんだけど」男は言った。低いがしっかりした声だった。
それは私が想像していたものと違った。なぜか分からないが、もっと悲哀に満ちた声をしていると思っていたのだ。私は男に視線を戻した。
「それにしては、ずいぶん驚いていたようだけど」
「そりゃ、知らない人にいきなり影がどうのこうの言われてらたびっくりするよ」
「そうかもしれないわね。でも、あなたは気づいているでしょ。自分の影が他人に比べて小さいことを」そこで一度言葉を切って、彼の目をのぞき込むようにみた。
「それに他の人でも影が小さい人がいる事も気づいてるでしょ。」
男は私の顔をじっと見た。その時風にのって男の体につけた香水が鼻孔をくすぐった。私はなぜが少しだけどきどきした。
「君はなにか知っているの? つまり、僕や他の人の影がどこにいるのかを」
「それは分からないわ。君たちの影がなぜ小さくなってしまったのか。でも、ひとつ言えるのは、あなたは自分の影を探しているということ。他の人たちと違ってね」
「君は……」男は少し言いよどんだが言葉を続けた。「君の影は分裂するのだろうか。そして、お茶を飲んだり、おしゃべりしたり、時には影どうし喧嘩したりするのだろうか」
私は一瞬眩暈のような感じがした。
「いいえ。私の影はお茶を飲んだり、おしゃべりしたり、喧嘩することも、勝手にどっかにいってしまうこともないわ。おとなしく私の影でいるもの」
「じゃ、何でしっているの」わずかな苛立ちが男の声に含まれているがわかった。
「なにも知らないわ。なにもね。じゃ、私忙しいからもういくね。ごめんなさい」
私の突然の打ち切りに男は呆気にとられた表情をした。でも私はきびすを返し歩き出した。
男の視線を背中に感じたが、そのまま歩き続けた。
彼の影はどうやら、彼とコミュニケーションをとっていたらしい。それは私にとって驚きだった。
彼に話しかけたのも、影についてなにか共有出来るのではと考えたからだ。私の影についてもなにか分かるかもしれないと。
彼は失った自分の影を捜し求めていた。他の人と違ってなにかしらの変化があったのかもしれない。そう思って今日話しかけて分かったことは、自分の影とコミュニケーションをとっていたということだ。
彼が語った言葉は私に少なからず衝撃を受けた。
なぜなら私の影は、彼の影とは違って私になんの断りもなくいなくなってしまった。
突然に、しかし必然的に音もなくに。
それは必然だったのだろうなと今の私は思う。
もしかしたら影は何かしらの合図を出していたのかもしれない。ただ、それに私は気づかず、彼は気づきいたのだろう。
だが、彼の影は彼から去っていった。
そこになにかしらの意味を読み取ろうとしたが無駄だった。
私の思考は、ある一定の質量をもった黒いか溜りのようなものが停滞し、せきとめていた。
私は立ち止まり自分の影を見た。今の私にはちゃんと影がある。不意に立ち止まった私を、人々は見えない球が置かれているように避け通り過ぎていく。
男が私の影に視線を走らせたときに、もしかしたら注意して見れば気づいたかもしれない。私の影がいびつなものだということを。
よくみれば繋ぎ目のようなわずかな段差があるのだ。モンタージュ写真のように複数の影を組み合わせて構成された不安定で歪なもの。
それが私の影だった。
彼はこれからどうするのだろう。ちゃんと自分の影を見つけることが出来るのだろうか。
私は彼と比べてどうなのだろう。影があるだけいいのだろうか。いや比べることは無意味なことだろう。
私はこのつぎはぎだらけの影をつけてどこにいくのだろうか? 私はどこにいけるのだろう。
あの本の中のヒロインのように結局どこにもいけないのかもしれない。
それでも私はこの影をつけて歩こうと思う。この影が本当に私の影になることがあるかもしれないから。それにどこかの街で、他人の影になっている、かつて私の影であった影に出会えるかもしれない。
そのとき、私は気づくことが出来るだろうか?
きっと出来るはずだ。たとえ元の私の影に戻ることは無くても。
私は自分の影をみながら、そんな事をおもった。
出来るはずだ……。
End
他にも短編書いてますので、よろしかったら読んでみて下さい。