sg2
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控え室のドアがノックされた。
チョンボは少しだけ慌てて、音のした方向に背を向けた。
「チョンボ様。そろそろ準備のほどをよろしくお願いします」
出番を告げにやって来たジャージ姿の若手だった。
若手はみな、背中に「ゼニニッポンプロレス」と入った小豆色のジャージの着用と、丸坊主が義務づけられている。ちなみに、ジャージの下には、“あの方”の似顔絵がプリントされたティーシャツ。これも規則で決まっている。
「あっ、ちょっと」
立ち去ろうする若手に、上半身を捻って声をかけた。
「メイクを呼んでくれないかな、えっと・・・」
左胸に縫い付けられた白い布にフエルトペンで書いてある名前を読もうとして眼を細めた。
「オオオニダです」
恥をかかせまいとして、若手が即答した。
この国の人民の識字率は低く、パワーエリートであるレスラーもまた例外ではない。名札はほとんど意味をなしていないのが現状なのだ。中等師範学校卒のインテリレスラーであるチョンボ・ヅルダはその限りではなかったが。
もちろん、若手はまさか文字が見えていないなどとは思いもよらない。
「・・・そう。オオオニダ君、頼んだよ」
「はい」
頬を紅潮させてこたえた。なにしろ、あのチョンボ様が自分の名前を呼んで下さったのだから。
「わかりました。任せてください」
目を輝かせ胸を張る若手に、チョンボは軽く微笑みかけた。
「バタン」とドアが閉められたのを確認して、チョンボは再び股間に視線を落とした。
「ドライヤーはどこだっけ?」
思い出せない。
ここはレッド・ベスト内、チョンボ・ヅルダ専用第二控え室。第一専用控え室があまりに広く、立派で整いすぎている―バス・トイレはおろか、専用のトレーニング施設まで完備している―ために、「これから試合に臨もうという者が、直前に集中するのには適していない」と、チョンボ自らがリクエストを出し、とある寒村にあった体育館の一室をモデルに、付属の茶室を改装させたのがこの部屋であった。第一が本来の用途で用いられたのは十七年前にただの一度しかなく、以降は専ら第二への豪華な廊下となっている。
いつもなら、チョンボはこの部屋に入る度に自分の器の小ささを思い知るのだ。
(“あの方”は気合を高めるのに、いちいち場所なんか選ばないのに、俺ときたら、この年になってもまだ・・・)
レッド・ベスト建設に際して、希望を訊ねられた“あの方”は、しばらく考えた後、こうこたえたという。
「大っきなトイレがいいな」
若き日のワールド・ツアーを思い起こしてのことかもしれない。最初の自伝にも、次のような一節がある。
世界中をまわっていて、なにが大変って、そりゃトイレに決まっているよ。バスも、船も、飛行機も、みんなとっても狭いんだもん。向こうが用意してくれた宿も小さかったし、お金がなくて大きなホテルには泊まれなかったし。とにかく、どこへ行っても、トイレは窮屈だったな。
こうして、世界でもっとも広々とした専用トイレがつくられたわけだが、初めてそこに足を踏み入れた時の“あの方”の反応は意外なものだった。極めて温厚なことで知られる“あの方”が、めずらしく声を荒げたという。曰く、
「こんなトイレ、お城(皇帝の居城)にだってないんじゃないの。だって世界一なんでしょ。いけないよ、そんなの。臣下の身としては、陛下に対してあまりにも恐れ多いし、失礼極まりないよ」
先の大戦の敗戦により、皇帝はすでに旧憲法に謳われているようなこの国の支配者にして最高権力者ではなくなっていた。戦後の新しい憲法によって定められた地位は“人民の象徴”であった。しかし、それでも、戦前の教育を施された“あの方”にしてみれば、“人間宣言”以前と同様、この世でもっとも尊ぶべき存在であることに変わりはなかった。
そんな“あの方”の言葉を伝え聞いた皇帝は、次のような内容の手紙をしたためたという。曰く。
貴君が気に病むことなどなにも有りません。
貴君の巨躯を維持するためには常人よりも多くの食物を咀嚼せねばならないことは、朕にも容易に推察出来ます。貴君は世界最強を謳われる勇者です。その肉体を維持し、世界一の膂力を発揮するのにはどれ程のカロリーを必要とするのでしょう。朕は動植物をこよなく愛する者ですが、常人にはとても計り知れぬキロカロリーなのでしょう。口から入る食物が非常に大量であれば、排出されるものの総量もまた、甚だしく夥しいのは理というものでしょう。この国にとどまらず、世界で最も広いトイットは、正に貴君にこそ相応しいと認識しております。そのすばらしい巨体を不必要に窮屈にすることなく、おおらかな気持ちで、心行くまで用を足して頂ければ、幸いです。
今後もこれまでと変わらぬ御活躍をお祈りしています。
皇帝もまた、“あの方”の熱烈な信奉者の一人であったのだ。
感情表現の乏しさでも有名な“あの方”であったが、このお言葉に接してしばらくは、ただ咽び泣いていたという。
では、また次回の日曜日(多分)。
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