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陛下はテラスに続く窓際に立っている。
その視線の先には、ガラス越しに一つの人影がある。
「君は、名乗る名前はあるかな?」
陛下が紡いだそれは、親しみさえ感じられる問いではあったが、ぞっとするほど低い声だった。
人影は陛下の陰になって、良く見えない。だが、ガラス越しでも声は聞こえているのだろう。
影が僅かに動けば、陛下はガチャリと窓を開ける。
黒装束に身を包んだ影は、ゆっくりと部屋に足を踏み入れた。
その瞬間、ロッタはぎょっとした様子で立ち上がろうとした。だが、足が震えたため一人掛けのソファからずり落ちてしまった。
「夜遅くに失礼します。わたくし アサギ・シノザキという者です」
足がもつれワタワタとする中、ロッタの耳に馴染んだ声が部屋に響く。
あろうことか、陛下に曲者認定されているのは真っ黒なコートにこれまた真っ黒な異国の服を着た幼馴染だったのだ。
─── 陛下お願い、この人を斬らないでっ。
そんなことを叫びたいが、あまりに驚愕しているため喉に石が詰まったかのように声が出ない。
「名は覚えた。だが、無粋にもほどがあるね、君。どういう了見で盗み聞きなんてしていたのかい?」
陛下の声は、相変わらず尖っている。控え目に言って、殺気バンバンだ。
けれど、アサギは陛下の問いを無視して己のマントを脱ぎながらロッタの元まで移動する。
次いで膝を付くと、ロッタの肩に掛かっているガウンを取り去さり、自分のコートですっぽりと覆った。
「…… 他の男の服を着るなんて、何やってんだよ。随分、俺を煽ってくれるじゃん」
「…… アホなこと言わないで。アサギこそ、何やってんの!?首飛ばされるじゃん」
小声で会話をしているが、ロッタは涙目だった。
対してアサギはとても落ち着いている。首など飛ばないという絶対的な自信がおありのようだ。
その自信はどこから?とロッタは聞きたくなる。
でも、その前にアサギはすくっと立ち上がり、胸に手を当て陛下に一礼した。
「さて、陛下。これからこの者に代わり、わたくしがお望みのモノをお届けしましょう。東洋島国で唯一、王宮での商談を許されている商人アサギでございます」
気取った言い方をしているが、東洋商人がここに乱入した目的は商談なんかではないということは一目瞭然で。
「なるほど……ね」
陛下は、望まぬ来訪者に向かって呆れたように肩をすくめた。
本来なら即刻不敬罪で投獄からの極刑である。
だが陛下とて一人の男であり、人を愛してしまえば危険を顧みない行動を取ってしまうことを知っている。
つまり陛下は男として、アサギの行動を評価したのだ。
「ではアサギ、その首を飛ばされることが無いものを用意できるということで良いか?」
「もちろんでございます」
アサギは狼狽えるどころか、挑むように笑みを浮かべた。
待つこと3秒。陛下は、一つ笑い声を上げてソファに腰かける。
そしてすぐに商談が始まると思いきや───
「ところで、アサギ。そなたが商人であることは間違いないようだが、その服装は噂に聞く”ニンジャ”の制服であるか?」
と、目をキラキラさせながら真顔で問うてきた。
その陛下の最初の質問があまりに斜め上過ぎて、ロッタとアサギは互いの顔を見合わせた。
口に出すことはできないが、同時にこう思った。「えっ、嘘?! そっちなのかぁ」と。




