文字霊屋とラブレター
文字霊屋と呼ばれる枝野悟は、文字を届けることを生業としている。
文字霊屋は依頼人から言葉を受け取り、そこに魂を込める。
ある日、悟は野上徹という人物から文字を届けてほしいという依頼をされるが・・・
「文字霊とラブレター」
野上徹から文字霊を届けて欲しいと依頼が届いたのは、桜の芽が出始めた二月の終わり頃だった。
「好きな人に手紙を出したい。時間がない」
その手紙を送ってきた野上徹は、26歳だという。四月から県外へ異動になるという彼は、自ら言霊屋を見つけ連絡してきた。
実際のところ、こうした依頼は少なくない。
文字霊の力を借りて、好きな人を振り向かせたい。
そんなことを言われるたびに、悟はげんなりする。そんな簡単に人の想いをコントロールなどしてはならないと思う。
悟はため息を吐き、返事を書いた。
「言霊は希望にも呪いにもなりうる。申し訳ないが、想い人を自分のものにしたいなんていうエゴで文字霊を授けることはできない」
悟が生業としている文字霊の仕事は、依頼された「言葉」を届けることだ。文字の宅急便なんて言われている。よく言霊というのを聞くが、文字霊はその文章版。大きな違いは、人以外にも伝わるか、人にしか伝えられないか、である。
後者である文字霊屋は、依頼人から文字霊にして欲しい言葉を受け取り、特殊な和紙の便箋に筆で綴ることで、言葉に魂を込める。便箋には依頼人の名前を添えることで、文字霊が本人のみに有効になる。文字の宅急便などと呼ばれているのは、依頼主に直接会って文字霊を届ける必要があるからだ。
ところで、文字霊にどういう効果があるかというとそこは言霊と大きな違いはない。読まれることによって書かれた内容が本当になる。条件は、名前の書かれた依頼人が、文字霊と同じ言葉を使って文章を書き、それが誰かに読まれること。
例えば、「僕のことが好きになる」と書かれた文字霊を持った状態で手紙を書くと、読み手は本当に好きになってしまう。
時には、それが本人の意思と関係なく。
便箋を直接手渡しするのは、間違って別の誰かによって文字霊が伝わることを防ぐためだ。
悟は、恋愛や政治に関する依頼が来ると、基本的には断るようにしている。
しかし、野上は食い下がらなかった。傍からすれば怪しいのにもほどがあるにもかかわらず、である。
1週間後の三月、例年より少し早めに桜が咲き始める頃に野上から返事がきた。
「四月に僕が県外の支社へ異動になる前に、地元にいる彼女へ手紙を届け、想いを伝えたいんです。このままでは、一生離れ離れになってしまう」
手紙には、日付と集合場所の住所が書かれていた。
強引だ、と悟は思った。いつもだったら平気で無視している。
とはいえ最近は依頼も少なく、悟自身もその文面に何かを感じ取ったため、野上という人物のもとに会いに行くことを決めた。
三月も残り一週間に差し掛かる頃、悟は野上に指定された住所に向かった。
手紙に書かれていた喫茶店の近くに入ると、背広を着た長身の男と目が合った。
「あの、枝野さんですか、文字霊屋の。僕は野上徹と言います」
ぎこちなさそうに文字霊屋と言うところを見ると、まだ半信半疑なのだろう。
野上徹はとても疲れた顔をしていた。かっちりとした体型で最初こそ気づかなかったものの、よく見るとシャツはシワだらけだ。仕事の合間にやってきたという感じが伝わってくる。
聞けば、野上が手紙を届けたいのは、大学時代、演劇部がきっかけで付き合ったという中村菜摘という人物だった。
役に入り込み、登場人物に感情移入しながらも、自身の存在を周囲にアピールするような演技をするところに惹かれたのだと、野上は話す。今でこそ演劇はしていないというが、もう付き合って4年になる。
「四月から異動になって、県外へ行くんです。このままじゃ遠距離ですし、彼女の事情でまだ結婚はできないから。それに、最近は異動の準備やら年度末の仕事やらでなかなか会いに行く時間が取れなくて。このままじゃ、菜摘に忘れられてしまうような気がして不安なんです」
「遠距離だろうと何だろうと、別れるのであればそういう運命なのではないでしょうか。忘れられるのは悲しい事かもしれませんが、結果としてそれが二人にとって幸せな場合がほとんどです。恋人として合わなかった二人を、文字の力で無理矢理繋ぎ止めるのは、あまり良くないことだとも思います」
彼自身、忙しいというのは本当らしく、悟と話している時も携帯電話が何度か振動し、メールや電話が来ている様子であった。
うつむきがちな野上が、話を切り替える。
「一つ、聞いてもいいですか。文字霊とやらは実在するのでしょうか。その、あまりにも実感がなくて」
「信じられないかもしれませんが、僕が文字霊屋です。僕たちは、文字霊を作り、依頼人に届けている。だからこそ、慎重に文字や言葉を扱います。文字霊は、必ず読み手の心に響き、影響を与えますから。本当はここでお見せしたいくらいですが、それはあなたにとって悪影響になる場合もある。だからこそ、僕が納得できたときしか文字霊を授けることはできません」
釈然としない表情で話を聞いていた。
が、悟の説明で何か心に決めたことがあるらしく、しばらくの沈黙の後、遠慮がちに打ち明けてきた。
「実は、申し上げにくいのですが、ある事情がありまして」
悟は、便箋に野上が依頼した文字を綴り、野上徹の名前を書いた。三枚折にして野上に手渡す。
「これが文字霊です。一見するとただの余白の多い手紙に見えますが、きちんと効力を持っています。取り扱いにはお気をつけて」
「ありがとうございます。菜摘へ四月までに渡せるといいのですが、ここ最近は中々時間が取れなくて。今日は一旦仕事に戻ります」
四月に向けた異動準備やら引き継ぎやらでかなり忙しいという。
「そうのんきなことを言っている暇もないんじゃないですか。菜摘さんはあなたをきっと待っています。ご武運を」
別れの挨拶もそこそこに、野上は仕事に早足で戻っていく。ここに来るときには気づかなかったが、満開の桜が少しずつ散り始めていた。
結局、菜摘に文字霊の手紙を渡す機会は訪れなかった。
徹は年度末の決算時期も重なり毎晩深夜まで働きづめで、ようやく休みが取れたのは三月も残り3日であった。
昼まで寝ていようと思っていたところ、菜摘の携帯電話から着信があった。
珍しいなと思って電話に出ると、かけてきたのは菜摘の父親だった。
事情を聞き、大急ぎで菜摘がいるところへ向かう。
何度も通った道を通り、はやる気持ちを抑えて病院の個室へ向かうと、そこには泣き崩れる菜摘の母親と、それをなだめる父親の姿があった。
「菜摘は、若年性アルツハイマー病を患っています」
喫茶店で枝野悟という人物に事情を話した。
文字霊屋、なんていう怪しい職業があるのかすら定かでなかったが、時間がないことはなんとなく感じていた。 だからこそ、初対面の、しかも怪しいこの男に藁にもすがる思いで連絡をした。
菜摘は、社会人一年目の途中から突如発病した。みるみるうちに物忘れがひどくなり、徹との記憶もおぼろげになっていった。長いセリフをいともたやすく覚えてしまう演劇部の彼女からは想像ができなかった。
当初は認知機能が低下するだけだと思っていたが、病気が進行し呼吸や飲み込む力を司る脳細胞にまで影響を及ぼすことを後から知った。
最初こそ見舞いに行くと起き上がって話してくれていた。それが段々と起き上がれない日が増えていき、体に繋がれている管の数も増え、徹との想い出話も忘れてしまっているようだった。
そして今日、病院に駆けつけた頃には、菜摘はもう亡くなっていた。
自分と同じ26歳、早すぎる死だった。
文字霊となった「僕のことをこれからも覚えていて欲しい」という言葉を、彼女が読むことはなかった。
徹は、文字霊を持って書いた手紙を、菜摘の棺に入れて火葬してもらった。後に枝野と連絡を取ることもなく、結局文字霊が実在するのかもわからなかった。
彼女の葬儀が終わった翌朝、徹は菜摘と大学の帰りによく寄り道をした桜の名所がある寺に訪れた。大学の帰り、授業の合間、休日のデート。事あるごとに一緒に行った思い出の場所。
三月も、もう終わる。明日からは異動先の新居へ引っ越すため、今日を機にここに訪れることはしばらくないだろう。
日が昇ってすぐの寺は、人が誰もいなくて閑散としていた。
門をくぐってすぐ目の前に桜並木がある。菜摘がよく、役の演技をしながら、ふざけ調子に一緒に歩いた道。今年は暖冬だったせいか、4月を目前にしてすでに多くの木々が葉桜となっていた。
朝日が木々に降り注ぎ、桜が連なる境内の一本道に柔らかな影が落ちている。
誰もいない、静かな時間。悟は境内をまっすぐ歩く。
すると突然、ひゅうっと風が背中を通り抜けた。地面に落ちていた桜の花びらがつられて一斉に舞い上がる。風は徹の目の前で渦を巻き、桜が円を描いて宙をかける。
頭上に降り注ぐ、葉桜の花吹雪。春一番に近いような、北風とは強さも温かみも全く違う風だった。それは一瞬のものではなく、季節違いの木枯らしのように徹の目の前で桜が風に揺られて回る。
まるで、自分の存在を周囲に知らしめるように。
そう思った瞬間、はっとして辺りを見渡した。境内には徹の姿だけがある。
二人で通った道。歩きながら、目の前で踊ってみせる菜摘の姿が脳裏に浮かぶ。
そして、枝野の言葉がよみがえる。
「文字霊は必ず読み手の心に響き、影響を与えますから」
静かに。そして、荘厳に。自然と出た「ありがとう」という声と同時に、大粒の涙が溢れ出てくる。