012 『シャーロット・ホームズ』
「こんなものが、ありましたの」
いつもの放課後、いつもの生徒会室、そして若王子市子。
市子が手に持っているのは、灰色の帽子だ。しかも両つばの。所謂、『探偵帽』と呼ばれるものだ。
本来は『鹿追い帽』だとか、『鹿撃ち帽』とか呼ばれるハンティング用のキャップだったらしいけど、かの名探偵、シャーロック・ホームズが着用していたことから、探偵帽と呼ばれるようになった。
実際は、『his ear flapped travelling cap(彼の耳当ての付いた帽子)』、もしくは、『close fitting cloth cap(頭にピッタリな布の帽子)』としか記述されていないので、探偵帽であったかは定かではないのだけれど––––当時の挿絵担当が、その帽子を鹿撃ち帽と解釈して描いたのが浸透したとかなんとか。
だけど、『犯人を追い詰める狩り人』という意味では、ピッタリな帽子だと思う。
まあ、それはさておき。いつも通りの閑話休題。話を戻そう。
「誰かの落としものとかじゃないの? もしくは演劇部とかの衣装とか」
「私もそう思ったのですが、ここを見てくださいな」
市子は帽子のつばの裏側を指差した。そこを見ると文字––––というか、名前が刺繍されていた。
書かれていた名前を見て、私はとても驚いた。驚いた声が出なかったのは、我ながら不思議だったけれど、それは気持ち悪いという感情もあったからだと思う。
だって、書かれていた名前は『雲母坂音羽』––––紛れもない私の名前。
「……何これ」
「音羽ちゃん、こんな帽子持ってないですわよね?」
「持ってないわよ……それに、私は自分の帽子に刺繍で名前を入れたりしないわ」
「同姓同名の方……とかでしょうか?」
「この学園に、雲母坂性は私だけよ」
分からない。これは一体どういうことなのだろうか?
私は、こんな帽子持ってないし、そもそも帽子自体持っていない。仮に誰かからのプレゼントだったとしても、正直趣味じゃないし、プレゼントを貰うような特別な日が近いわけでもない。
「誰よ、こんな悪趣味なことするのは」
市子は少し考えてから、その誰かの名前を口にする。
「あげぽよさんとか、えみちゃんとか」
私は少し考えから、否定する。
「確かによく物をくれる人達ではあるけれど、流石に違うでしょ」
「どうして分かりますの?」
「まず、鳳さんは私の部屋に直接持ってくるだろうし––––って、聞くの忘れていたわ。これ、どこにあったの?」
「家庭科室にありましたわ、何となく見ていましたら、音羽ちゃんの名前がありまして、持ってきましたの」
「それは、床に落ちてたの? それとも、棚とか帽子掛けとかに置いてあったの?」
「備品室で探し物をしている時に、戸棚に置いてあるのを見つけましたわ」
「それって、勝手に持ってきた事にならない?」
「でも音羽ちゃんの名前が書いてありましたので、最初は音羽ちゃんの帽子だと思って持ってきましたの。ですが、音羽ちゃんの趣味とは少し違うなと思いまして……」
「まあ、私帽子被らないし」
「音羽ちゃんは、白いお嬢様ハットとか似合いそうですものね」
「お願い、私をお嬢様にしないで」
「ストローハットとか」
「麦わら帽子って言いなさい」
「ベルジェールハットとか」
「だから、麦わら帽子って言いなさい」
「カンカン帽とか」
「まさか、麦わら帽子のバリエーション全部あげるつもりじゃないでしょうね?」
「ですが、どうしてあげぽよさんとえみちゃんは違うと思いましたの?」
市子にしては唐突な切り返しで、面食らってしまったが––––私は「そうね……」と一呼吸置いてから、先程考えていたことを市子に説明する。
「まず、さっきも言ったけれど鳳さんは私の部屋に置いていくはずよ」
「確かにそうですわね」
「次に理事長の場合だけれど、理事長って基本的に相手が喜んでくれるものを渡すのよ」
私は「ほら」とコーヒーマシーンを指差した。
「音羽ちゃんは、探偵帽を貰っても喜びませんものね」
「そうよ、だからこの二人は違うってわけ」
市子は納得した表情で、再び探偵帽を手に取った。
「この刺繍は、ミシンで入れたものだと思いますわ」
市子の言う通り、帽子のつばに入っている刺繍は、とても綺麗に入っており、裁縫の技術力の高さが伺える。
『雲母坂音羽』という文字を刺繍で入れるのは、文字数や、文字の形からして、とても面倒だと思う。
でもこのくらいなら、手縫いでやれないこともないとは思う。もちろんミシンに比べて、時間と技術を要求されはするが。
まあ、最近はデジタルミシンのように、画面で文字を選択したら自動で刺繍を入れてくれるようなものもあるので、もしかしたらそれの可能性もある。
それに帽子をよく見ると、なんだか縫い目の仕上がり具合が、悪い気もする。もちろん、上手ではあるのだけれど、とてもお店で売っているようなものには思えない。
となると、考えられるのは一つだ。
「これ、手作りの帽子じゃないかしら?」
「帽子って作れますの?」
「作れるわよ、型紙と布とミシンがあれば簡単に出来るわ」
「音羽ちゃんは、裁縫が得意だから出来るかもしれませんが、普通は出来ませんわよ」
「私を裁縫上手にしたのは、誰よ……」
私は、嘆息しながら市子の胸を見る。私が裁縫上手なのは、市子がよく胸のボタンを弾き飛ばすためだ。
最初は鳳さんが縫ってくれていたのだけれど、市子は所構わず弾き飛ばすため、仕方なく私が裁縫セットを常備している。
「でも、この帽子手作りだとすれば、とても良く出来ているように思えますわ」
「そうね」
「それに状態もとてもいいですわ」
「確かに備品室に置きっ放しだったとするなら、かなり綺麗よね。ビニールとかに入っていたのかしら?」
「あ、いえ、普通に置いてありましたわ」
となると、定期的に手入れをされていた可能性がある。この帽子を定期的に手入れする可能性があるのは、やはり持ち主と考えるのが妥当だろう。
だけど、なぜそれを備品室に置きっ放しにしておくのだろうか? いや、置きっ放しにするのではなく、置き忘れた可能性はどうだろうか? あり得なくはない。
「ねえ、その帽子っていつも備品室にあったの?」
「そこまでは分かりませんわ、わたくしも偶々見つけましたので」
「まあ、そうよね。私も備品室には何回か入ったことがあるけれど、そんな帽子見たことないもの」
やはり、置き忘れたと考えるのが良さそうだ。となると、持ち主は誰か一体誰なのだろう? 帽子に私の名前を刺繍してしまうような人は正直……会いたくはないけれど。
私は帽子を手に取り、もう一度見てみた。普通の灰色の探偵帽に見える。耳あての部分がリボンで頭頂部に留められおり、両つば。つばの部分もしっかりとしており、帽子の状態もいい。
帽子を回して、裏側から眺めてみる。すると、不自然な縫い合わせを見つけた。場所的には、後ろのつばの付け根の部分にある。まるで、縫い間違えたのを隠すために、そこにつばを––––
「あっ」
「どうしましたの?」
「これ、私の帽子だわ」
「えっ、ですが、先程違うと言っていましたわよね?」
確かにそう言った。だって、忘れていたのだから。
「この帽子は、中等部の頃に私が家庭科の授業で作った帽子よ。ほら、昔ミシンを使って服を作る授業があったじゃない? 私は帽子を作ったのよ」
「ですが、どうしてそれが家庭科室にありますの?」
「家庭科の先生にあげたのよ。手作り衣服のサンプルとして。ちょうど欲しがってたから。それに、私としては失敗作だったし……」
そう、失敗作。当時の記憶が蘇る。途中までとてもよく出来ていたのだけれど、最後のところで間違えてしまった。
「とても良く出来ているように思えますけど……」
私は、先程の粗い縫い目の部分を市子に見せた。
「これね、本当は探偵帽じゃなくて、耳あて付きのただの帽子だったのよ。でも、ミスをしてしまって、裏側の縫い目が汚くなってしまったの。そのミスを隠すために、裏側にもつばを付けて探偵帽にしたのよ」
綺麗に出来なかった縫目を隠すために、私はその場所につばを付けた。今にして思えば、適当にアップリケでも付けておけば良かった気もするが、当時の私は完璧を求めていたのだろう。
市子は、私の名前が刺繍されたつばの部分を見せてきた。
「つまり、この名前を入れたのも、音羽ちゃん自身ということですの?」
「そうよ、先につばに名前を入れてから縫い合わせたわ」
「ではこれは、家庭科の先生の忘れものということですの?」
「正確には、中等部の先生が高等部の先生に何らかの理由で貸して、それを準備室に忘れてしまった––––って、ところかしら」
市子は「なるほど……」と頷いた。しかし、まだ疑問点があるようだ。
「あの、音羽ちゃん」
「なぁに?」
「わたくしならそうやって忘れてしまう事もあり得ると思うのですが––––音羽ちゃんが自分の作った帽子を忘れてしまうとは、到底思えませんわ」
言われてみれば、そう思う。私は結構記憶力はいい方だと思う。
でもこれはハッキリとしている。
「私だって失敗することはあるし、失敗したことは忘れようとするものよ」
当時の私は、そのことがそれなりに悔しかったのだろう。だから、その元凶でもある帽子を手放したのだろう。見てしまうと、失敗したのを思い出すから。それが、嫌だったから。
「では、その帽子は返してしまいますの?」
「…………」
私は何となく、探偵帽を被ってみた。
「似合うかしら?」
市子は私を見て、ニッコリと笑った。
「シャーロット・ホームズですわね!」
「……市子にしては、上手いこと言うじゃない」
「えっへんですわ!」
『シャーロット』という名前の持つ意味は、いくつかある。『可愛らしい』『小さい』『女の子』。
この帽子を被った私を表す言葉としては、最適であるとも言える。
そして、数日後。
私のクローゼットの中にその帽子が仲間入りしたことは、語るまでもないことだろう。