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黄金の翼

作者: BlaCkLapTor

「資本主義ってのは野蛮だ、もともと正しいことなんて通らない仕組みだろ」


女のようにこぎれいな顔から、一種の学問的問いが長い息とともに吐きだされた。聞きなれない話をするじゃないか。なんだって。唐突すぎて、言葉が空中に浮かんでいる。


どうしてそんなに、小難しいことを俺に聞くんだ。座学の成績がギリギリの、タケシ君にさぁ。ノリト君の頭は俺の数倍も、複雑にできているらしい。アメリカの大学院へ留学しただけのことはあるな。聞いたことがない学校名というのが惜しいが、それっぽい雰囲気は身につけたらしい。


「でも金というのは、世界の本性をあぶりだすには、ちょうどいいツールだ。自然界に善も悪もない」


さらに意外な考えが横殴りに飛んできて、軽い電流が指先に走る。自販機にコインを入れる手がこわばって、しばらく時間が止まったと思った。小さめのスポンジみたいな脳に、哲学めいた意見がしみこむには時間がかかる。


「どういう意味だ、そりゃ。金が悪いみたいに聞こえるけれど。だけどな、金なんかこの世に存在しなくても、世の中に正義が通るとは思わんよ。だって力なら、ほら、腕力ってのがあるじゃないか」


乾いたのどに、唾液を飲み下しながら返答した。つまらないことを呼び寄せる話題だったことには違いない。ほらみろ、不意を突かれたせいでコカ・コーラの予定が、水になってしまったじゃないか。がたんと騒がしい音がして、味気もそっけもない液体がお出ましになった。


「人間にはやっても悪いことと良いことがあるなんて、いったい誰が決めたんだろう。ギリシャのプラトンにでも、お伺いしてみたいよ」


つい先ほど企業献金を受け取ってきた男の、考えることにしては上出来だ。この調子なら、うまくやれるだろう。日本にはとあることわざがある。


「赤信号も、みんなで渡れば青になるってか。お前の業界では、普通のことってわけか」


俺は面倒くさいのを隠さずに、周囲をぐるりと見渡した。白日のもとで危険などあろうはずもないことは、分かり切っている。買い物をして帰る女、忙しそうに歩く営業マン、駅前のレストランに入っていく学生カップルといったところだ。


金に支配されている生き物とやらが、うようよしている。プラトンは人間の魂について論じていたらしい。たしかに唾を飛ばして話し合ったり、頭をひねって推察したりでもしなければ、その人間がどんなやつかは分からないだろう。世の中にはノリトより悪い奴だっているだろう。


隣でうさんくさいことばかり吹聴している男が、見知らぬ他人になった心地がしている。企業の入った駅前のビルの中で、シンプルな名刺入れを控えめに取り出していた。企業の課長へ堂々とした様子で、対等に話せるような同年の友達を俺は知らない。昔のノリトは気弱だったのに。人間は腹の底にある本性を隠して、化けられるらしい。


こいつは顔見知りの中でも一番のおぼっちゃんだった。仕事上の実直な印象と違い、私生活は派手である。仕事以外の時に出くわす時には、遠目からでもこいつがすぐに分かる。つま先が細長い靴を履いて、バーバリーというブランド一色に身を固めているからだ。


だが高校時代までのノリとの性格は、けしてお高く留まってなどいなかった。洒落ものといえば洒落ものという風情で堂々としているが、いたずらで怒鳴ると縮みあがるような奴だった。


数日前に一緒に呑んだときは、変わってないなと思った。しかし今日の一件で、それは間違いだとすぐに理解した。なんの変哲もない水を飲んだというのに、胸のあたりで重い胃液が逆流している気がする。ノリトが今の職についたと聞いてから、腑に落ちないことだらけだ。


金持ちで友好的な相手なのだから、持ち上げて取り巻いていればいい。だがそれはやりたくない。カバン持ち扱いするために、呼ばれたのだろうか。不満がぬらりと鎌首をもたげる。表向きはダーツで遊ぼうということだったのに違った。


企業献金を受け取りに行くお供なんて、きいていないぞ。気弱だったこいつに威張られるのは、パラレルワールドに迷い込んだ気分になる。


大人のノリトの言うことは違和感だらけだ。町の花壇に水をやる仕組みを考えて、ボランティアの賞までとった子供だったのに。昔は俺らが鼻をつまんで避けるような優等生だった。


悪い環境が人を斜めに育てるのだろうか。中学時代の性格と真逆の方へ、どんどん人が変わっていくのを目の当たりにしている。


赤信号を渡るのが慣習の世界に入るのならば、郷に入れば郷に従えというところか。一般論を挙げるなら若者の方が、企業の色に染まりやすいという。若輩者が業界の風潮に逆らってやっていこうということは、並みの人間ではとてもできない。


ペットボトルの半分ほどを飲みくだして、薄いプラスチックのふたを力を入れて締めた。さっき行われた行為はノリトにとって、俺に口に封をしてもらわねば困ることだろう。なんの義理もない俺を信用しすぎだと思うがね。


世の中は水面下で、信じられないことがたくさん起きているものだ。声高に主張しなければ、よいことも悪いことも、第三者が知るということはない。


「タカシ、事務所まででいいから」


気安く呼ばれて、一瞬なつかしさを覚えた。ビルに入る前までは、俺のことは田中君に変わっていたのに。留学へ行ってから、知り合いの誰のうわさにもあがらず、まるで音沙汰がなかった。


唐突に表れた同窓会で再び飲み交わしてから、六か月ほどになる。悪さを一緒にやった仲ということで、呼び捨てに戻ったか。冗談じゃない、ただの傍観者を、勝手に同士にするな。なぜ飛ぶ鳥を落とす勢いの若手議員が、庶民の俺にすり寄ってきたのかも分からない。


短く刈り上げた頭を、荒っぽくかいた。フケが溜まってかゆいとか、そういうわけではない。態度が切り替わったのがあからさまで、狭い場所におしこめられたように居心地が悪くなったからだ。


「俺が自衛隊員だからって、ボディガードに使おうなんざ安易すぎないか。いくらなんでも、万能なもんか。そもそも繁華街の事務所まで、人通りの多い道ばかりじゃないか。何から護衛しろっていうんだ。お前はそんなに他人から、恨みを買った覚えでもあるのか」


口元を思い切りしかめてやったのに、ノリトはごめんと言わなかった。他人の顔色を窺おうとしないなんて、目の前にいるのはよく似た別人なのか。ケロッとした様子で、肩をたたいてきた。


「でも滅多にみれない世界が分かったろ」


「そうかよ。つまらねえモン見せやがって。こっちは貴重な休日なんだ。そうだな・・・実際に会ってくれなくてもさぁ、女の子とメールで話してる方が楽しく過ごせたって分かるだろう。ここへ来たことを、後悔してるよ」


言い切ってやったが、ノリトは「そんなこと」と鼻で笑った。


十年越しの付き合いといっても、俺にはもうついていけないと思う。あいつのスーツはオーダーメイド、俺の黒いTシャツはユニクロという点もそのひとつだ。


大金の小切手を持って歩くのが不用心だから、体つきの大きな知り合いを誘ったというわけではなさそうだ。金があるのなら、警備員や秘書でも連れて歩けばいい。


まぁまぁ、と浮かれた笑顔を浮かべながら、背筋を伸ばして歩き出した。嫌なら断ればよかったのに、世間というものに興味を持ったのが悪かったか。規則正しい歩幅に合わせて、高級スーツに似合いな革靴の、小気味よい音が響く。一方で一足二千円の安いスニーカーは足元で何の音も立てなかった。今やこいつの隣にいると、自分の存在感というものが疑わしくなる。日本は資本主義社会だ。金のないものは金持ちの影で、縮まって息をひそめるように生きている。


うらびれた商店街を通るときに、曲がり角で老人に出くわした。鼻先をつきあわせて驚いたじいさんは、持っていた杖を取り落としてしまった。俺の目線は自然と、転がっている杖に吸い込まれる。腰がまがった老人は、しゃがみこもうとしたが出来なかった。膝に両手を置いて一呼吸している。


ふと隣をみるとノリトが居ない。前方を眺めて、俺は少しあきれた。何事もなかったかのように、軽快なテンポで歩み去っていたからだ。駆け足で追いつくと、鼻歌を歌っているのが聞こえた。


「それでも議員かよ。有権者に愛想くらい使えよ」


半分本気で、半分冗談で、失礼な態度を責めてやった。急に立ち止まって振り返られたので、右肩がかるくぶつかる。はにかむように「ごめん、ごめん」と謝るだろう。それがいつものノリトの口癖だからだ。


しかし驚いたことに、この空気はどうだろう。笑っているかと思ったら、真顔をしているじゃないか。


「あんなの、どうなるっていうんだ。どう利益になるっていうんだよ。一人たかが一票だろう。たった一票というのが正しい」


俺は二の句が継げなくなった。胸に北風が通った心地になって、正直なところぞっとした。色に表さないように苦心する。思わず口ごもってしまう。そうなのだ。こいつはもう議員先生、なのだろう。


事務所につくと、ノリトはまだ俺を帰してくれなかった。秘書に支持を出してパイプ椅子を持ってこさせる。座れというから座ってみたが、嫌な予感がしてきた。俺はただの一般庶民なのに、たかが一票という存在に一体何の用があるというのだ。


「今日もらった金というものは、俺がもっと出世するための軍資金さ」


そう切り出したノリトはいつの間にか、俺の知っている幼馴染ではなくなった。ほんの束の間付き合わなかったうちに、危なっかしい若手議員に変貌していた。

「別に企業献金が、すべて違法ってわけじゃない。上限を越えるほどには、もらっていないから。誤解しないでくれよ」


商店街の一角に、ノリトの事務所はある。和風の軒が連なる街並みに、色を合わせるわけでもない灰色のかまえだ。事務所の中はクリーム色のつやのある床の上に、安い机が雑な感じで斜めにおかれている。クリーム色といえば、白い色にうっすらと汚れがついたような色だ。


うさんくさい笑顔から除く歯のように、安っぽく黄ばんだ色だと思う。首をひねって背後を振り向くと、事務所内の誰一人として笑っていなかった。笑っていると気安く思われるようで、俺もヘラヘラする気にはならなかった。


ばたばたと選挙の準備をしているのは、ざっと十四人か。たすきの数を数えている者、原稿らしき紙を真剣に眺めている者、こちらを興味深そうに見ている者などだ。みな職業名は議員秘書というものらしいが、老若男女がいて年齢はバラバラである。政治家の事務所というのは、もっと人が少ないものだと思っていた。普段の選挙で演説している要員がいるが、あれはほぼ事務所の職員なのか。


いすに座って部屋を見回していると、中年の男が俺にお茶を出した。軽く会釈をすると、男は挨拶をして奥の方へひっこんだ。来客に備えて、給湯室もあるのだろうな。男は薄っぺらいジャンパーを着ていた。俺に言わせれば、なんということもない普通のおっさんだ。


議員の事務所なんざ、はじめて来る。すこしカジュアルな空気が普通の会社と違う様子だろうか。そうかといって自由な雰囲気でもないために店とも違う印象だ。


一通り内部が分かったので、俺は机に向き直った。お茶はきれいな緑色の熱い一杯だったが、香りが一切におってこない。知らない場所に入り、気おされていた自分に気が付いた。慣れない空気の束縛から解放されるためにどうしたらよい。堂々としているところを、見せつけてやろう。一気にお茶をあおると、世間話をしてみせた。


「これから18歳になる子供は、選挙について義務教育で詳しく勉強できるからいいなと思うよ。俺たちの世代となると、選挙の仕組みなんて、まともに教えてもらってないから。選挙法や議員の仕事については、ぼんやりとしか分からないからな」


これに対して、ノリトはすぐには答えなかった。眉一つ動かさず、ただ胸の前で腕を組んでいる。沈黙の間をつなぐように、開け放された窓の外でスズメがうるさく鳴いているのが聞こえた。俺は眉をしかめて、下唇を突き出してやることにした。どうにも今日は不愉快である。思い出の中の人物像と違うので、期待を裏切られているせいもあるだろう。


仮にもお前の幼馴染だという気概を、まっすぐに伸ばした背筋にこめてやる。先ほどの通行人のように、俺は相手に見下される筋合いはない。六月後半というのに空は少しも曇っていない。開け放した玄関から室内へ、風より速い速度の白い太陽光が床を射っていた。例年より早く、梅雨は過ぎ去っている。


ようやく気が付いたが、ノリトは休日を過ごしているわけではなかった。気の置けない友人として接しているわけでもなかった。何が原因であるというわけでもないのに、不服そうな顔で本題を切り出してきた。生徒会長が作った声音で、新入生代表の原稿を読むような態度だ。こいつは腹の底を隠していると、ピンとくるというものである。


「・・・そんなことか。それは置いておいてだな、お前は要人が乗る飛行機の、キャビンアテンダントみたいなものをやってる。そうだろ」


俺の職業について知られていても、さして驚かなかった。友人なら大抵は知っている。なぜ俺の仕事などが、関係してくるのか分からない。話が見えてこず、突飛な話題である。


「なんだそりゃ。民間のアテンダントとは、また、違うけど。でも、だからって何だ」


ますます疑念が沸き上がったので、舌打ちを漏らす。誰も笑うような話の流れではなかったが、土田の薄い唇は曲線を描いた。直線の針金を使って、温度のない芸術作品がつくられたかのようだ。弓の背と同じ形の弧を、口元に繊細に描いている。目が笑っていないので、作り笑いだった。絵にかいたような光景だが、これは値段の張りそうな絵画に思える。


「七月七日に、俺の父親が乗るスケジュールがあるだろう。あいつの会話を聞いておいて、いくつかのことを俺に教えてほしい」


まさか休日にまで、自分の仕事にかかわることを聞くとは思わなかった。ましてやまだ知らない情報まで、聞かされるはめになるとは分からないものである。


「いやだ。業務上知ったことを、ぺらぺらと話すなんて。そんなことはできない」


そんなことを頼むために、ここへ呼んだのかよ。できるわけがないだろう。「断るのか」と凄みを利かせたあいつに対して、俺は両腕を組んであきれた。親子なんだから知りたいことは直接聞けとも言ってやった。それが道理だろう。他人が頭をつっこむ必要はない。だがノリトは首を振った。いや、十分距離が広がっているのだから、もう名前を呼ぶのはよそう。目の前にいる男は、土田議員だと思うべきだ。


ノリトはなまっちろい肌で、やせぎすの体形だ。腕力こそ俺にはかなわないだろう。だがその白い肌が青く染まってくると、陰鬱な影そのものに感じられた。幽霊のような執着が、小柄な体を大きくゆがめて見せている。


気迫負けした俺は、口の中で舌をもごもごさせた。舌の準備体操だと、言い訳をしたのちに言葉を重ねる。


「お前にそこまでする、義理がない」


心外だと呟いて、土田は首を振った。


「報酬は残念ながら払えない。選挙期間じゃなくても、贈り物はできないね」


「そんなものは要らない。でも何故そうしたいのか、理由を聞かなきゃやれないぜ」


冗談ではない。そんな言い方をされたら、俺がごねて金をせびっているみたいじゃないか。屈辱が胸にしみこむ間は、反論できなかった。言わなくても分かるだろうと付け加えられて、引き続き簡潔に説明された。


「今度の議会で追求するネタが欲しい」


「同業の、自分のおやじをか」


「いけないか」


二人とも声を荒げている様子なのに、事務所内の誰も気に留める様子はなかった。徹底した無言の裏に、聞き耳を立てていることが分かるのみである。理由を説明してもらえないならば、勝手に推理するしか道はない。俺はノリトに関する薄い記憶を真剣に探った。


学年で一番のおぼっちゃんで、高校は金のかかる私立へ行ったにも関わらず、こいつは俺たちと遊び続けていた。夜の街を出歩いていた理由は、なんだったか。そう言われれば話題に上がっている父親が、家庭に不在だったという事情があったからだろうか。うろ覚えの内容には確信がもてず、本人に確認するまでには及ばなかった。


「意味が分からない」


「分かりやすく私怨と言ってもいい。父さんは再婚している。しかも大きな病気にかかっている。ガンだよ、ガン。これは秘密だが、とても議員を務めあげられる体調ではなくなってきている。そんなことは、どうでもいいんだ。探偵によればだよ。財産は再婚相手にゆずると、遺書を弁護士と一緒に書いているようなんだ。俺と母さんを捨てた上に、正当な相続まで取り上げるなんて、非人道的だと思わないか」


近くで作業をしている秘書らには、はっきりと聞こえたに違いない。同情するかのような顔つきを表した若い男性もいたが、眉をひそめた女性もいる。それは土田に対しての気持ちなのか、こんな話を聞かされて、泥沼にはまりかけている俺に対してなのかは分からない。いずれにしても、知りたくないことを無理やり教えられた気分はぬぐえなかった。


「断る」


食道まで胃液がせりあがってきた気がする。そう言われると、土田の家は両親が別居家庭だったかもしれない。だが当人が表立って家庭内の悩みを打ち明けてきたことはない。いまさらな感じも受けたし、悩みを打ち明けられるほどの仲ではなかったことに気付かされたことへの不快感かもしれない。


この時点で俺はまだ誤算をしていた。この頼みをきっぱりと、断れると思っていたことが間違いだった。みなが知らなかっただけでこれが土田の元からの性格だったのか、何かがあいつを変えてしまったのかは分からない。その何かとは金だろうかとも思えたが、それは違うと勘が告げていた。


土田は引き続き声を潜めて、机をいら立ったように人差し指で何度もたたいた。俺を脅かしにかかっているかのようだ。考えるのを遮って、決定的なひとことが場の空気を鋭角に切り裂いた。


「・・・お前は公務員、なら本来は議員である僕の部下に当たる立場だ。断るということは、身の程が分かっていないメクラだってことだ」


理論的には当たらずとも遠からずだ。だが土田に振りかざされるとは思わなかった。いまや俺たちの間柄は、完全に異質なものに変容しているようだ。


「なんなんだそれは。部下だって、冗談じゃない。今の発言を、謝れよ。俺は幼馴染のよしみで、今日つきあってやったんだぞ」


手を大げさにふり、そっけなく突っぱるしぐさを強調する。我ながらまるで外人のように、強い否定のボディランゲージだ。これ以上はかかわるな、という結論が額のあたりにはっきりと結晶化していく。


「分かった、改めて来るから、ちょっと待っていてくれ」


土田は給湯室の奥へ姿を消して、何十分も戻ってこなかった。勝手に帰ろうとして、俺は腰を上げた。ひいたパイプ椅子が、床とこすれて摩擦を起こす。ラバーシートを引いたような床の材質になっているので、滑りが悪く抵抗がある。軽い苛立ちを覚えながら振り向くと、紺色の制服を着た男が2人やってくるではないか。


紺色の制服、というが、あまりに突飛すぎて、一瞬なんの制服か分からなかった。ポケットだらけの紺色のベストに突っ込んであるのは黒い無線だ。そして紺色の帽子についている金色のマークは警察官のものだった。


何事かと思えば、2人の警官は素早くこちらへ向かってきた。何かを聞かれるのだろうと思った。しかし俺にかけられた言葉は、質問形式ではなかった。正確には質問形式ですら、なかったという方が適切だ。


「お前だな。ここに不法侵入して、居座っているらしいな」


「はぁ」


心外な内容である。これが土田議員の仕返しだということに気付くまで、数十秒の時間がかかった。さきほどの頼みを断った腹いせなのだ。俺は土田が控えているであろう、給湯室の奥へ向かった。待っていてくれ、というのは警察が来るまで待て、という罠だったのだ。悔しさと侮辱された、という屈辱が胸中に沸き起こる。土田の顔を観ずには、帰れなくなった。


「俺がなにしたっていうんだ、偽の通報をして・・・・許されると思うのかよ」


大声を出しながら土田を探す。当の本人は平然と、奥の部屋で悠々と座っていた。細かい彫刻が施してある、重い椅子と机が置いてある。腹が立つから、何か言えよ、と憤慨してくってかかるしかない。


俺の様子を見て、警察がわきを固めてしまった。どうやら嘘の通報に、信ぴょう性を与えてしまったらしい。事務所の奥へ来るべきではなかったか、という考えが一瞬だけ頭をかすめた。それ以上に、自分の正当性を主張したくなった。このような扱いをされて、怒らない人間がいるものか。いや、いないだろうからだ。


土田議員は事態を見守る警官へちょっと待ってください、と折り目正しく告げた。立ちあがると俺に顔を寄せて、ささやいた。


「お前にできるんなら、弁護士でも雇えよ。うそを信じて、のこのこ来やがった警察をみろよ。行政なんか役に立たないぞ。例えば申請主義っていうのは、そもそも救済制度を知らなきゃいけない。たとえ知っていたとしても、その手続きができる専門家がいなきゃ話にならない」


いまわしい声が幽かに、耳から脳天へ突き抜けていった。短気な性質の俺は、腹の底からポップコーンのように飛び出てきた単語を自制できなかった。


「馬鹿野郎」


警官の目つきがさっと変わった。ベスト風の制服からして、刑事であるはずがない。呼ばれてやってきたのは、せいぜい生活安全課だろう。まてまて、外に出ろ、と制服の権威を振りかざしてすごまれたが、この程度に怒鳴ったところで自衛官である俺には通じない。反射的に、堂々とその場へ仁王立ちする。


土田は顔色一つ変えずに、ゆっくりと唇をなめた。さらに囁いてくる。


「馬鹿はお前だ。俺は本当の自分に気が付いたのさ。法律は庶民のためにあるんじゃない。強い者のためにある。強い者が他のやつらの動きを封じるためにあるんだ。資本主義におけるヒエラルキーの頂点はなんだと思う。金のあるやつだ。ならば俺は強くなりたい。喰う立場でいたいんだ。喰われる立場には、なりたくないぜ」


とんでもない発想だ。土田ノリトとの縁も、これまでだと悟る。俺は強引に警官の腕をふりほどいた。令状もないのに、身体拘束をされるいわれはない。空を割くようにきびすを返すと、周囲のすべての人間を無視して歩き始めた。


「ずいぶんと偉くなったもんだ。頼まれなくても、コッチから出て行ってやる」


捨て台詞のひとつくらいは、許されるだろう。

その数日後に俺は職場で、7月のスケジュールを知らされた。確かに7日には、土田議員の父親が、政府要人用の飛行機へ乗るようだ。国際会議のために、公式訪問する移動としてだ。ほかにも幾人かの与党議員や海外からの来客の名前があった。


当日の俺は機内で仕事をこなしながら、土田の父親を目の当たりにした。A党の山田議員である。姓が違うことから今もなお、土田が父親と違う家庭にいることを確認できた。土田とはノリトの母親の苗字なのだ。


薄いグレーのスーツを着た山田議員は、小太りで背が低かった。鼻の形に、土田ノリトの面影が見て取れる。近くへ寄ると後ろへ撫でつけた銀髪から、清潔なヘアクリームの香りがした。以外にもホテルに置いてあるような古典的なにおいではなく、俺の持っているヘアワックスをもう少しだけ高級にした感じだ。壮年の男として、なんとも若々しい選択の身だしなみだ。


食事を下げる時に議員が俺の同僚の吉川と交わした会話が、自然と耳に飛び込んできた。「おいしかったよ」と伝える山田議員の声は、低くかすれていた。「それはどうも」と返した吉川に対して、あろうことかこう言った。


「若者の笑顔はいい。君の笑顔はお金に変えられないね」


金の単語に反射的に反応して、思わず動きが固まってしまう。その隙をついて、俺のからだは俺自身をうらぎった。吐息が吐き出されるよりも早く、素直な疑問が舌の上から零れ落ちてくる。


「うそばっかり。金にならないものは価値がないのではないですか」


言ってしまってから、しまった、余計な一言だと思った。山田議員の動作まで止まったからである。独り言を聞かれてしまったのは明白だった。


もちろん大声で言ったわけではない。隙間風程度の音量でしかなかったが、この部屋のあるじの心には、しっかりと入り込んでしまったらしい。


俺は舌打ちをすることはこらえたが、本音が声になって出てきてしまった。声に出したつもりはなくても、結果としてそうではなくなった。強い思いというものは知らないうちに、しぐさかつぶやきに出てしまうものだ。いったん相手の耳に入ってしまえば、言ってしまったことは取り下げ出来ないものである。


山田議員は隣で身じろぎして振り返った。丸い顔の輪郭と、いかり肩の残像が目の端に残る。ふくらはぎがだるく、どこかへ視線の焦点を合わせるのすらおっくうだ。


聞かなかったことにされるものと思ったが、予想は裏切られた。はらはらした顔をしている吉川の隣で、俺は山田議員につかまることになった。


「どういう意味だろうか。もう少し聞かせてほしい」


引き続いて間髪入れずに、叱責が降ってくるのを予測した。仮にも土田ノリトの父親だ。子供があのようならば、育てた親も同じ考えに違いない。


こうなればしょうがないか。卑近なたとえで話してしまうならば、土田のことに言及せざるを得なくなってしまうだろう。息子の悪口を言われて、気分を害さない父親がいるだろうか。いや、いないだろう。具体名を出さない方が賢明というものだ。座学のように、一般論を話すべきだと思った。俺は唇をなめて間を保った。自分の立場を、胸の中で再確認する。保護する要人に失礼にならないように、相手の首元を見つめながら話した。


「・・・資本主義というものが、俺は好きじゃありません」


答えておいて、風呂敷を広げすぎたなとほぞを噛む。みぞおちのあたりがキュッと落ち込む錯覚が襲ってきた。馬鹿馬鹿しいと、笑われるだろうな。ええい、こうなったら、ままだ。恥をかくならかけばいい。職場で何かを辛抱することは、どのみち給与へ含まれているのだから。


「なぜだ。君のような若者に、そういうことを言われるのでは、いけないと思うね」


山田議員はゆっくりとした動作で手招きした。俺に正面の席に座れといっている。存分に目で追えるスピードのしぐさに思いが込められているように感じる。表面張力のギリギリまで水をたたえたコップを持っていても、この速度ならばこぼさないだろう。丁寧な動作だった。


吉田が断るな、と目線で伝えてきた、俺は面接室へ入る就活生のように、てきぱきとした動作で座るべきだと思った。だがすぐにその考えをうちはらい、喫茶店で座るように自然な動作でソファへ座った。慇懃無礼すぎる、という失礼もあるというものだ。それ以上に山田議員が腹の底では、何を考えているか探りたいと思った。


親しみをこめるかのように丁寧な動作は、いかにも父親を絵に描いたようなしぐさだだった。それが俺にそうさせたと言ってもいい。


目じりを下げて二の句を待つ山田議員に対して、冷静で客観的な単語を探そうとした。しかし結果的には、普段の短絡的な考え方が素直に外へ出てしまうのが俺だ。


「拳銃が禁止されているとしても、カネや社会的地位っていう武器を握り合って、情け容赦のない争いをしている国だからです。資本主義の中身は、道具が違うだけで、起きている出来事は暴力と同じではないですか」


視界の端にいる、吉田がしかめっつらをしている。自分でもおおざっぱな言い回しだと思った。まるでいやみか、捨て台詞である。これはまずいと思って窓に視線をそらし、後方へ流れていく海の風景を追った。雲より高い高さから眺める海は、動きのある小さな絵画のようである。


山田議員の喉が鳥のさえずりのごとく、クックと鳴った。なんと眉尻を下げて笑っているではないか。好々爺を十歳くらい若くしたら、こんな感じになるのか。同じ絵画であっても、この人のそばに飾ってあると穏やかなものへ変わる気がする。


「極端すぎるよ。君は普通の若者とは、違うことを言うのだね。そう言われたら、そうかもしれない。でもわたしはこう思うよ。この世からオカネがなくなったって、争いがなくなるとは思わない。銃もオカネも同じ道具ならば、道具自体に罪はない。使う者の性格の問題だ。私ならば道具を、自分の身を守り、大事なひとを守るために使う」


心の中で、人たらしが、とつぶやいてやる。うわっつらの世間話で終わってしまっては、一方通行のテレビを観ているのと変わらないではないか。この若いじいさんの上辺の薄皮を、ひっぺがしてやる。せっかく呼び止められたのだからな。


山田議員は同窓会で会う、恩師のような微笑みを浮かべている。沈黙があったが、決して重くなく、ヘリウムガスのように軽く透明だった。俺は知らないうちに、思ったことをスラスラと話しだしていた。この人は人がいろいろと話したくなる何かを持っているようだ。そんな空気を作り出す、清浄機みたいな男だなと思う。


「誰だってそう思っているはずです。でも現実はうまくいかない。その簡単な望みすら、叶えるのはとても難しいのではないですか。法律がある社会と、ない社会を比べても、犯罪の発生率はそんなに変わらないという研究を知っています。僕たちは幻の法治国家に、住んでいるのですか。きれいごとが書いてある法律ってのは、実はなんの役にもたたないお題目です。そうでしょう。スタートラインがそこら辺の庶民である俺では、金持ちになれません。何も守れないかもしれない。悔しい限りです」


おいおい、我ながらまるで愚痴じゃないか。いやみを言っているわけではないのに。土田に受けたいやがらせの憂さ晴らしを、あいつの父親に向かってしてような流れになってしまった。


自分が情けなくなってきて、居心地が急激に悪くなった。クーラーでも入れたかのように、背中がぞくぞくした。まごうことなく、クーラーは俺そのものである。一方で空気清浄機の山田議員は、柔和な表情を少しも変えなかった。だが真剣な目をしていた。


「そういう調査も、あるね」


口の前で手を組むと、この人のまなざしが強調される。海面の反射光のように、光は揺れ動いていた。正面から視線を受け止める。失礼かな、と思ったが、相手が覗き込むようにして目線を、俺の正面で止めたのだから仕方がない。苦痛を与えない刺激なのに、不思議な粘着力があった。すぐに顔を伏せようと思ったが、見えない手でつかまれて出来ない。


「エスパー、かよ」と思ったが、それ以上に俺自身の好奇心がそうさせているのだろう。この人の考えをもう少し知りたい。


「君は間違っていないよ・・・法律だって貨幣という仕組みだって本当は、全体の利益のため存在しているものだ。目先の利益を越えたものを目指すためにあるんだ。足の引っ張り合いや、不正は全体の損益だ。短気は損気とは、まさにこのことだね。でも気づく人がリーダーになるときもあれば、気付かない人が無茶をやるときもある」


聞き終わった瞬間に、魔力が解けていった。山田議員は人の話を聞く力のある人だ、と直感が告げている。もう少し疑問をぶつけても、邪険にはされないだろう。


「俺ら庶民は、政治が社会に吹かせる風に翻弄される凧です」


山田議員は目尻を下げながら、ネコっ毛の銀髪を左手で撫でつけた。まるで照れているかのようにみえる。しわをいくつか刻んだ鷲鼻から、ふぅぅ、と満足げな鼻息が吐き出されていく。俺は両手のこぶしを膝の上で、ぎゅっと握りしめた。


「君は何かをすべきだ。君なりの何かを。間違った考えの人が上の立場だからと言って、それを受けれてついていったら、もっとひどい目にあうよ。資本主義社会というものは、開発する場所がなくなったらおしまいの仕組みだ。例えば発展途上国の市場は、もう開発されきっている。こうなれば、どのみち頭うちだからね。もう長くは続かないのだよ。若者が新しい風にならなきゃ、いけないのだよ」

俺たちが「次の時代」をつくる、か。一種の心地よさが体の末端を、微細な電流となって流れていく。ここで話が終わってしまうのは、面白くない。


俺は素直に「あなたの息子が、あなたをガンだと言っていたが本当なのか」と尋ねた。知らないうちにこの人が亡くなるのを、惜しいと思ったからだろうか。


ノリトのことか、と山田議員は目を丸くした。俺はノリトの同級生であることを伝えた。あいつとのトラブルについては黙っていよう。どんなに出来が悪くても、子供をかばわない親はいない。口にしたところで、機嫌を損ねるだけだろう。


「あの子は母親似でね」と息子のことをつぶやいたとき、初老の男らしい影が眉の下に落ちたのが分かった。山田議員は息子のことを気に病んでいるのだ。父から子に対しては、すれ違いがあるのだと分かった。


「それは本当のことだが、たいしたことじゃない。今はガンも治る時代だからね。遺書を書いている、なんていうのはあいつの思い込みだよ。幸いにも初期段階で見つかったからな、治る、治る。わたしはまだまだ、くたばらんよ」


低くゆっくりとした声は、周囲をなだめるかのようだ。俺は真偽を確かめるために、失礼を承知で山田議員を観察した。一見して元気に見えたが、よく見ると薄くファンデーションを塗っている。顔色が悪い時に、よく上官がやっていることである。となれば答えは一つだ。本当は顔色が良くないことを隠している。ならば山田議員は、自分の体調について嘘をついていることになるだろう。


俺は極力気付かなかったふりをした。ガンは治るといっても、部分によっては致命的になることがあるのだ。仮に治る部位だったとしても、むやみやたらに病名を話すわけにいかないのは分かる。しかし先ほど話した内容が、あまりに悟りを開きすぎていやしないか。この世の者とは思えない。俺を呼び止めたことといい、まるで何かを周囲に託そうとしているかのようだ。


「それでもある程度のショックは受けたね。しかし病気というものは、がむしゃらだったわたしに、落ち着きをもたらしてくれたよ。神様がわたしに、考える機会をくれたように感じる」


まるで先が長くないかのような台詞だ。思わず眉根を寄せてしまう。なぜこのように考えられるのだろう。メメントモリ、死を想え、という西洋のことわざを思い出した。人間に死ぬことが用意されているのは、利己的に生きるだけでなく利他的になるためなのだろうか。


その3か月後に、俺は山田議員が亡くなったことを知った。ああ、やはりかと思った。人間はいずれ誰でも仏になる。呼び止められたときに、すでに仏と話していたのだと感じる。


同僚の吉川にそう漏らしたら、意味が分からないと言われた。山田議員は元からそういう人で、息子に似た妻にそりが合わなかったのではないかというのが吉川の読みだった。なるほどと思ったが、俺は人間とは変われるものだという可能性を信じたかった。


ニュースが放送された時までに、俺は自らとあることを始めていた。政治家が公表しているスケジュールや、公表した実績をまとめたホームページの運営だ。公約が実行されたかどうかを追跡するものである。そのために休日は、議会の傍聴などに費やされることになった。同志は多く集まってきたので、いろんな職業人の立場の意見を載せている。製造業、ガテン、介護職、公認会計士、など列挙すればいとまがない。


なぜ一人でやらないかという理由は、ホームページへアクセスした人のためだ。多様な立場の意見を聞き、偏らない意見を読み手が作れるようにである。そう導くためにマスコミよりも偏見を排して、正確かつ地味な内容を載せている。


今はNPOだが活動が認められたら、役所がその機能を引き継ぐかもしれない。民間の活動で公的に必要なものは行政が行うようになるからだ。その逆も多くある。行政の手が届かないところは、民間が行うものである。


山田議員が亡くなってから、さらに6か月が過ぎた。宣伝のためにラジオへ投書したところ、投書が紹介され、アクセスはぐんと伸びた。俺たちは喜んだ。ホームページがいよいよ軌道に乗り始めたからだ。


今日も市議会の傍聴を終える。どのように文章化したら分かりやすいかを、その夜に同志たちと一杯傾けながら話し合っていた。私情が挟まってもいけないし、読みにくくてもいけないだろう。


今までまじめではなかった俺が、なぜこのようなことをしているのだろうか。それは山田議員が、会話の最後に「病気ではない」と俺に言ったからだろう。もし「ガンだ」と認めていたら、さほど印象に残らなかったに違いない。あの人はまだ、死にたくなかったに違いない。自分だけが不幸だと考える人間は、自己中心的になる。しかしあの人はそうじゃなかった。他人に苦労があることを知っている。そんな性格の山田議員から聞いた言葉だから、俺も提案に乗る気になったのだ。


「すまん、ちょっとトイレ」


何気なく立ち上がった時だった。ズボンの尻のポケットで、スマホが震えた。頭をかきつつ覗き込むと、同級生の佐藤からラインのメッセージだった。「土田が捕まったって、ほんとか」という一文が目に飛び込んできた。


土田はあまり活動を表に公表しない。支持団体に甘んじていて、宣伝行為には消極的な議員だった。これは初耳である。店の外に出て、佐藤に電話をかけた。詳しく聞くと土田ノリトが、事務所の秘書を殴ったという内容だった。傷害罪で元秘書ともめているということである。


活動の延長として調べようと思った。数日後に開かれる記者会見を、見に行くことにする。会見は公民館の会議室を借りて行われる。やってきた報道陣の数は、予想通り少なかった。記者の数は、すなわち注目度だ。情報を多数に伝えてしまうのは、いくら弁護のためでもイメージダウンだろう。まだ新聞やテレビに報道されていないのだから、自分で大事おおごとにしない方が身のためというものである。


一方通行の弁護が行われた。実際に傷害行為があったかを、争点にして裁判に臨むという。元秘書の言うことは事実無根で証拠がない、という内容だった。


俺は終了後、裏口で土田を待った。議会中は逮捕されないだろう。正直にいって、この仕組みは歯がゆいと思う。自らノリトをいさめるつもりで、あいつを待った。ブルーの絨毯がひかれた会議室は、歩いても足音が鳴らない。俺の靴の裏は固いというのに。幽霊は足がないから、足音が鳴らないと不意に思った。自分の発想に苦笑いする。なぜこんなことを想うのだろう。俺は誰の幽霊だというのか。


会議室の出口に立っていると、土田は通りかかる前にこちらへ気が付いた。雰囲気が変わった、と思った。やたら性急に焦っているようすが、手の振り方に現れていた。心の余裕がないのが見て取れる。


こちらをぎろりとにらんで、ノリトは飾らない態度をむき出しにした。高校時代の面影はあっても、宿る魂は別物なのだろうか。


「俺は必ず再起する、これはれっきとした人権侵害だ」


川の流れに反抗して泳ぐ魚のような目をしている。人間味のかけた表情を浮かべているのはなぜだろうか。胸中に酸っぱい思いがこみ上げてきてハッとする。おびえた生き物を観たときに沸き上がる、哀れみというものだ。



「お前が言ったことについて、俺なりに考えたよ。法律は骨抜き、お飾り、っていうやつさ。人権という言葉は、免罪符じゃない。ノリト、よく聞け」


体をずらして、あいつの正面に向き直ってやった。俺の方が背が高いから、ノリトが上目づかいでにらむ形になった。真剣な思いが伝わるように、はっきりと発音した。


「ことがこれ以上大きくなる前に、辞職するべきなんじゃないのか。人権を守る、という点において、被害者に法律はすでに無力だ。お前に殴られた者の気持ちを考えろ。これは勝ち負けの話じゃない」


俺の話を聞き、傍らにいた弁護士が真顔になった。中年の男で、一見すると善良そうにみえる。だがクライアントを弁護することは、成功すればするほどその人を堕すということだろうな。あごを上げてノリトが言い返す。


「俺は何もしていない、何もだ」


のれんに腕押しするかのような、意味のない上辺だけの話をしに来たわけではない。腹を割って話さないと、ノリトが変わってしまった理由が分からない。俺は諭すように低く続けた。


「悪びれないでいるお前が心配でならない。たしかに身を捨ててるやつにとって、ペナルティは抑止にならないよな。地位も金もあるはずのお前をそこまで、めったやたらに急き立てているモンは何なんだ」


しばらくの間、冷たい沈黙が周囲を支配した。やがて虫歯の匂いがする吐息が、唾とともに俺の顔面にかかった。


「俺は負け組になりたくないんだッ」


くしゃくしゃになった土田の顔が、まるで泣いているように見えた。俺の身体の筋肉から、緊張が翼の生えた鳥のように飛び去って行った。手足の力を抜いて、ぼそりと結論が飛び出した。


「・・・資本主義っていうやつに、一番負けてたのは、ほかの誰でもない。お前だったんだな」


自分で言いながら、一連の出来事へ合点がいった。ノリトはやはり、気弱なノリトのままだったのだ。


ゆっくりときびすを返すと、会議室を後にした。廊下に出ると再び革靴の底が、カツンカツンと単調なリズムを刻み始めた。すると後ろから弱虫の声が、走って追いかけてくるではないか。


翼生よくおタケシ、間違っているのは、お前だ」


細かい小石が、背中に当たった気がした。振り返るには値しない刺激だ。


公民館の外へ出ると、夕方が全てを支配していた。誰もかれも忙しそうに歩み去り、自分の時を生きている。だが一つだけ共通していることがあった。朱色がかった金色の光が、行き交う人々の輪郭を輝かせている。笑っている者もいれば、沈んだ顔の者もいた。大きく息を吐き出すと、俺は黄昏の下を歩き始めた。

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