道場
その日は珍しく、彼に朝の訪れを告げたのは目覚まし時計だった。
ジリリリリと頭に響く金属音。眠い頭で必死に腕を伸ばして時刻を確認すると時計の針は午前八時丁度を示していた。
平日であれば遅刻が確定してしまう時間なのだが、いまは夏休みということもあって目覚ましのセットはこの時間になっている。
部屋着に着替えて階下へ降りるとリビングには既に朝食が用意されており、ほかほかと湯気が上がる茶碗には艶々とした白い光沢の米粒が山盛りで、薄紅色の焼き鮭は皿の中央に二切れ並び、漆塗りされた茶碗には朝の顔のお味噌汁が匂いと共に彼の空腹を刺激する。
しかし、これを用意してくれたであろう人物の姿がそこにはなかった。
「エイン、居ないの?」
欠伸交じりに呟くも返事はなく、刺激された食欲に抗えずに彼は席について"いただきます"と朝食を始めた。
"━ごちそうさま"と両手を合わせて食器をさげようとすると"お粗末様でした"と共に挨拶をかけるエイン。
彼の手を制して食器を下げ始めるエインに気負いつつも彼は質問を投げかけた。
「おはよう、どこに行ってたの?」
「屋外に出ていました。本日からの特訓の為に準備しておきたいことがありましたので」
「ああ、そっか。具体的にはどんなことをするのか聞いても良い?」
「綾也様は一度悪魔によって自身の肉体に魔力を巡らせていますので、既に魔術師としての基本は修めたと言っても過言ではありません。故に本日からは身体の方を慣らさせて頂きます」
既に魔術師としての基本ができていることに驚愕する綾也だが、いまいち要領が掴めない。
「つまり、身体を動かすってこと?」
「そうなります」
綾也は体育会系ではない。万年帰宅部であった彼が体力に自信などあるはずもないのだが、彼の意気込みはそれすらも無視できる程まで高ぶっていた。
「いつ始める?」
「今からです」
食器を片付け終えたエインは綾也へ"こちらです"と手を差し出す。その手を引かれて外に出た彼が発した一言は"えっ"であった。
前日まで雑草で荒れ果てていた庭には、この襤褸屋敷と比べるのが悲しくなるほどの見事な木造建築の道場がドーンと建っているのだから驚くなという方が無茶な話である。
「これ、どうしたの?」
「建てました」
恐る恐る訪ねる綾也にサラッと返すエインは中へと案内する。
道場の中は質素ながらも広い造りで、新築の匂いと畳の匂いで充満している。
「私の魔法で造った建物ですので耐久性は高いはずです。綾也様はここで特訓をしていただきます」
本当に"魔法"ってなんでもありなんだなと感心しつつ場内を見回す綾也。
神棚には猪の木彫りが飾られており、掛け軸には見たこともない文字が連なっている。全てが木で作られているようで窓や襖も肌色をむき出しにさせていた。
未だ挙動不審の綾也に対してゴホンと咳払いを一つしてエインは切り出す。
「それでは綾也様、そろそろ始めてもよろしいでしょうか?」
「あ、うん」
「まずは思い出して頂きます。先日の感覚は覚えていらっしゃいますか?」
そう言われて綾也は困ってしまう。マンドラゴラに腹や手足を貫かれた痛みは未だに覚えているというのに、その後のことは夢を見ているようで力を入れるなどをした覚えもなく、頭に流れ込んでくる言葉をそのままに勝手に身体が行動したような感覚だった。
それがエインのいう感覚とはどうにも違った気もする為"よく覚えていない"と謝ってしまう。
「謝る必要はありません。綾也様は覚えていらっしゃらなくとも身体が覚えていますので、簡単ではありますが口頭で説明させていただきます。
魔力というのは身体に流れる血液のようなものだと考えてください。力を入れればそこに血が集まることと同様に魔力も集まります。既に綾也様の魔力塊の堰は切れておりますので、身体全身を魔力が巡っている状態です。しかしこの状態では今までの身体能力と然程違いはありません。何故なら魔力を消費していないからです。消費するには魔力を操作して実行する工程が必要になってきます。先日の場合ですと悪魔の暗示によってその工程は綾也様ではなく悪魔が踏んでいたことになります。ですので今回は操作と実行を覚えていただく特訓をさせていただきます」
"…ふむ"とエインの説明を自分の頭の中で整理する。
「つまりは魔力を使う準備はできてるから使い方を覚えようってことだよね?」
「そうなります」
「うん、理解できた」
「それでは実際にやってみましょう」
そう言ってエインは綾也から距離を取り、道場の神棚まで行くと振り返る。
「魔力操作は力を込める感覚で身体に流れる魔力を集めるように意識を集中させてください。魔力を消費して実行するには誘因となる意志を明確に。溜めた魔力を爆発させるイメージです」
身体に流れる魔力を感知することこそできないが、力を足に込めるように構えをとる。
右足は熱が籠ったように熱い。恐らく魔力は右足に集められている、あとはトリガーとなる意志。
"跳べ"
そう強く念じて地面を蹴った。
ドンッと道場には爆発音と共に綾也の驚愕の声が響き渡る。20mは離れていたであろうエインとの距離が急速に詰まる。
いや、早すぎる!!空気抵抗でのけ反る上半身、突き出す両手も勢いを弱められない。
"止まれない━"と思った時には既に、衝突を避けられないほど接近してしまっていた。
しかし、衝撃を覚悟して目を堅く閉じた綾也はボフンッと柔らかい感触に包まれた。
目を開くと、エインは微笑みながらパチパチと拍手をしている。
「流石は綾也様です。一度目で成功なさるとは」
唐突な衝撃に備えたため、随分と不格好な綾也は宙にふわふわと浮いたまま呆けた顔を晒しながらゆっくりと地面に降りていき腰が付く。
「成功……なの?」
「はい、操作と実行は見事にできていました」
後ろを振り向くと、先ほどまで自分が立っていた場所からは煙が燻っているように上がっている。
この距離をたった一蹴りで━━。
不思議と身体には血が熱を帯びて駆け巡る。この力をモノにしたい、もっと使ってみたい。
興奮を隠しきれない綾也にエインは近寄ると、彼の右足に手を当てた。
視線をそこに向けると右足は青黒く染まっており、足の裏の皮は剥ぎ落ちて血をドクドクと大量に流していた。
見るだけでも痛々しい右足には感覚が無く痛みを感じない。先ほどまでの興奮は血の気が引くとともに恐怖へと変わる。
エインのかざした手は暖かい光を放ちながらみるみる内に綾也の足を治癒させていく。
ものの数秒で重傷であった右足は完治して感覚を取り戻す。
「さて、次は魔力制御を試して頂きます。先ほどの操作と実行の魔力量を調整する作業です。制御は感覚で覚えていただく他ありませんので何度でも試して頂きます。相応の覚悟はしてください」
すくっと立ち上がりながら告げられた言葉にはどこか棘がある。何をするにも過保護であるエインは綾也に対して気遣う面があったが今回はなにか違う。
エインのこんな態度は綾也にとっても初めてであった。
「怒ってる?」
「怒る?いえ、例え綾也様が私を召喚した際に望まれた平和な日常から自ら外れようとされていたとしても私はちっとも怒ってなどいません」
明らかに綾也の行動に対して怒りを露わにしているが、特訓のコーチを申し出てくれたことや道場の件からもまだ主として認めてはもらえているようだ。
「そんなことよりも、綾也様は強さを望まれました。私が教えるからにはこれからの特訓で一人前の魔術師としての力を付けて頂きます。しかし、知っておいてください"力とは強さではない"ということを」
エインの言葉の真意は今の綾也には到底理解できない。
それでも、その答えも自分自身が"変わる"という道の上にあるような気がして、彼は力強く立ち上がり特訓を再開した。




