真紅の味は如何なものか
幻想は身近に存在する。
闇はじわじわと日常を蝕み、現実を侵食していく。
違うモノに飲まれれば、もう元の場所には戻れない。
彼にとって、ファンタジーは現実と化していた。
「血を吸わせるのじゃ!」
舌足らずな高い声が、狭い部屋に響いた。窓からは月明かりが差し込んでおり、彼女を神々しく照らしている。
彼女の金髪がふわりと舞い、それに伴って甘い香りが周囲に広がる。細い腕は腰に当てられており、薄い胸はこれでもかと張られていた。
身に纏う漆黒のマントの内には、フリルで過剰に装飾されたゴスロリの服。それは幼女の幼さと神秘性をより引き立たせている。
「…………」
一方、声を向けられた少年――楠柊は黙々と読書を続けている。遠くから見ればオブジェかと勘違いするほどに、微動だにしていなかった。
「――血を吸わせるのじゃ!」
言い直しても反応はない。ぺらりとページをめくる音だけが、それに応じている。紙と紙との摩擦音は、本人以外の気を大いに損ねた。
「吸わせるのじゃー!」
割と早く我慢の限界が来た幼女が、柊に飛びつく。両手を上げて、上から被さる形で襲い掛かる。
「やめてよ、ドラーヴ」
柊は単に非難の言葉を送りつつ、最小限の移動で襲撃を躱した。なお、未だに目線はページへと固定されている。
そして、空中での姿勢制御が出来なかった彼女――ドラーヴの先に柊の姿はない。代わりにあったのは、無機質な本棚。
「へぶっ!」
鼻先を棚に強打したことで痛みが生じ、まんまるで大きな目を涙が満たす。涙目でうずくまる彼女は、その姿だけ見れば普通の女の子だ。
「やめればよかったのに……」
呆れながらもドラーヴを案じる柊。思わず零れる溜息の後、ある異変に気付いた。
衝突の衝撃で本棚がグラグラと揺れている。財布の事情で軽くて安い品物を買ったのが仇となったか。もしくは上の方から本を並べていたのが原因か。
重心の偏った本棚は、ついに傾きを大きくした。
「危ないっ!」
柊は読みかけの本を放り捨て、倒れそうな本棚を押さえにかかる。
急いで必死に伸ばした指は本棚の端に引っかかり、なんとか転倒を防いだ。
――のだが。
あくまで支えたのは本棚のみ。他の内容物、つまり本自体はなんの支えも抑えもない。
「にゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁ⁉」
重力に従って落下する本のシャワーをもろに浴び、ちっちゃな吸血鬼は悲鳴を上げる。
柊は枯れ木の如く立ち尽くすしかなかった。
「妾は謝罪として汝の血を要求する!」
涙目で頭をさすりながら、ドラーヴは柊に正座をさせていた。無論、先ほどの不注意に対する咎めである。
元々ドラーヴが暴れなければこんな悲劇は起こらなかったのだが、彼女の辞書に『責任』の文字は無い。
「さあ、汝の真っ白くて美味しそうな首筋を差し出すがよい!」
「いや、それは勘弁してよ……」
散らばった本たちはもう片付けられ、部屋は元通りになっている。しかし、散乱した数多の書籍を整理する作業は重労働だ。もちろん、元凶であるドラーヴは作業をいっさい手伝っていない。
はっきり言って、柊はもう眠かった。意識と無意識の境界線を何度も行き来しつつ、幼女の説教を聞き流している状態だ。そして思わず、天井から伸びている紐を引っ張って電気を消してしまう。
「何故そこまで吸血を嫌がるのじゃ!」
「だって僕、痛いのとか嫌いで……。注射とか無理だし、痛くするのもされるのも遠慮したいな、っていうか……」
「人の頭にたんこぶつくっといて何を言うか!」
「ドラーヴは人じゃなくて吸血鬼じゃん……」
「うっ……」
言葉尻をとらえられ、ドラーヴは困り顔になる。だが負けじとキメ顔に変え、
「儂はれっきとした吸血鬼であるぞ! そのような無礼な言動、定命の者がして許されると――」
「一人称」
「あっ…………」
指摘されて失態に気付き、吸血鬼はその色白な顔を真っ赤に染め上げた。
「妾、儂、朕……どれでもいいけど統一しなよ。いい加減、本の登場人物の口癖を真似するのも限界だと思うよ?」
「わs、こほん、妾は太古より存在する全知全能の吸血鬼! 自称などぶれるわけがなかろう」
「そもそも、吸血鬼って感じがしないんだけど」
「なにを言うか!」
紅潮した頬はさらに赤みを増し、よく熟れたりんごのよう。本人の成熟度合いは青りんごなのが、また皮肉であった。
「妾は伝承通りのヴァンパイア! ドラキュラ! ノスフェラトゥ! カーミラであるぞ!」
「だから吸血鬼の有名小説挙げるのやめなよ……。にわか丸出しだよ?」
「そんなことはない!」
「じゃあ確認テストしようか」
そう言うと、柊は少し唸って考えだした。三〇秒ほどで顔を上げ、幼女に問う。
「昨日の昼食は?」
「ぎょうざじゃの!」
「今年の夏、一番楽しみなことは?」
「最近新しく出来たとされる、流れるプールじゃ!」
「今行ってみたい場所は?」
「日焼けサロンじゃ!」
「朝起きて一番に何する?」
「貴族たる者、鏡で髪型のチェックじゃのう!」
「今一番ほしいものは?」
「十字架のシルバーアクセに決まっておろう!」
問答の結果、少年は頭を抱えた。ここまでドラーヴが吸血鬼らしくないとは思いもしなかったのだ。
古来の物語曰く、吸血鬼には弱点がある。
日光、流水、十字架、銀、大蒜―――。列挙していけば枚挙に暇がない、それらのほぼ全てをドラーヴは気にしていなかった。
かっこよく形容すれば、克服していた。
彼女は水泳を楽しみ、日向ぼっこを愛す。中華料理やイタリアンを好んで食し、鏡面を覗きこんで身だしなみを整える。極め付けとして、自身の演出のために十字架をモチーフとしたアクセサリーを身に着けるのだ。
「……ほんとに吸血鬼?」
「ほんもの、じゃよ……?」
自身なさげにドラーヴの声がだんだん弱くなっていく。指先同士をつんつんと合わせ、空中に目線を泳がせながら自身の個性を必死に探し出している。
「ほら、あれじゃ。妾は入浴を好まないうえ、辛いものも食べれんぞ? 吸血鬼らしいであろ? そうであろ?」
「それはただお風呂が嫌いなだけで、舌がお子様なだけでしょ」
「お子様とはなんじゃ! これでも妾は九〇〇年の時を過ごす吸血鬼であるからして」
「はい、ゼロを二つ増やさないの」
「それでは九歳ではないか――!」
大声を出して、ドラーヴは怒りを露わにした。頬をぷっくり膨らませ、目を細めて口をきゅっと結んでいる。
「ていうか、いい加減自分からお風呂に入りなよ。入れてあげるのも疲れるんだよ?」
「吸血鬼には湯浴みなど要らぬ。妾はいつもきれいであるから、身体を洗う必要性など微塵もないのじゃ」
「汗かかないの?」
「かかぬの」
「前に激辛麻婆豆腐食べたとき、シャツびしょびしょだったよね?」
「あれは汝がいたずらするからであろうが!」
ドラーヴが吸血鬼であることの証明は、今に始まったことではない。過去に数えることが馬鹿馬鹿しくなるほど行われてきた。
吸血鬼=大人。辛い物が食べられる=大人。吸血鬼=辛い物が食べられる。
謎の理論により、ドラーヴはピリ辛料理を食べることで自身が吸血鬼であると証明しようとしたのだ。
(なお、吸血鬼は大蒜を始めとする香りの強いものが苦手とされる)
その結果は惨敗。
理由はと言うと、
「あの辛さはどう考えてもおかしいじゃろ! 汝はあの時唐辛子を何杯いれたのじゃ!」
「二杯」
「やっぱりって、あれ、そうでもないの……。たしかに舌がびりびりしたのじゃが」
「麻辣醤なら一〇杯いれたけど」
「それじゃー!」
再び甲高い大音声で、びしぃと楠を指さす。
「甘い甜麺醤より、山椒から作られた麻辣醤の方が明らかに多かった! あんなもの食べられる訳なかろう!」
「だって、ドラーヴが辛い物出せって言うから……」
「辛い物にも限度があるわ! それに妾は、『ピリ辛料理』を所望したはずじゃ!」
「舌がピリッとしたでしょ?」
「あれはビリビリじゃ~!」
一通り突っ込み終えた後、はあはあ息を漏らしながら吸血鬼は座り込んだ。必死に肩で息をしつつ、きつく柊を睨みつける。
視線を受ける柊は、困惑の表情を浮かべて口を開く。
「まあまあ、落ち着いて」
「もぉー我慢できん! よくよく考えてみれば、今までどれだけひどい目に遭わせられてきたか! 人権侵害じゃ! プライバシーの秘匿を要求する!」
細くて頼りない腕と輝く御髪を振り回し、幼女はただただごねる。因みに、後半の語句の意味はあまり分かっていない。
「血液の提供以外で僕にできることならやるから、ね?」
「むぅー。血が、血がいいのじゃ……」
「逆に聞くけど、どうしてそこまで吸血にこだわるの? 確かドラーヴは血を吸わなくても、生活に支障はないんでしょ?」
「うむ、確かに妾たち高位の吸血種は必ずしも吸血行為を必要としない。血液が無ければ息絶えるというのであれば、それは屍人種であろう」
金髪を指に巻きつけて弄び、ドラーヴは自慢げに言う。
「しかし、吸血とは欲望を満たす行為なのじゃ。営みなのじゃ。汝ら人間も、ただ一つのために行動を起こす訳ではあるまい」
夜風で窓が音を鳴らす。月明かりは分厚い雲によって隠され、夜に届く月光はあっというまに途絶えた。
「栄養を摂るためだけなら薬で足りる。体を清潔にするだけなら濡れたタオルで拭くだけでよい。しかし、そこに美味や安らぎを求めるのが人間という生き物であろ?」
重ねて判を押すように、ドラーヴは淡々と尋ねる。ちいさな吸血鬼はふつうの人間に、生物としての在り方を訊いた。
「生きるだけなら音楽は要らぬ。子孫を残すならば絵画は不要じゃ。意思疎通がしたいなら詩的な表現など排してしまえばよい」
柊は粛々と聞き入っていた。ひょんなことから出会った吸血鬼の疑問を、自らの心に刻みつけるべく。
ある日、自然と日常に紛れ込んだ吸血鬼。見た目はちっちゃな女の子で、性格も相応のモノだった。ふとした時、ドラーヴは普通の人間なのではないかと考えることが、彼にはある。世話を焼いている内に、そうした感情が心の中に芽生えてくる。
「だが、人間は無駄とも呼べる行いを愛す。群体の中には、そうした生きるための課題を忘れて『無駄』に人生を費やすものも少なくない」
再度窓から差し込んだ光が、二人の間を隔てた。
「そうして『無駄』に打ち込んだ者を、人間は偉人と称してもてはやす。それは妾たち吸血鬼の側から見れば――ひどくおかしなことじゃ」
「そして僕――人間側から考えれば、それはごく自然なこと。そして吸血にこだわるドラーヴの姿勢は、おかしなこと」
生物としての違い。種としての違い。その様がはっきりと、この場に現れている。
「じゃから汝は理解できぬかもしれぬが――。妾は、汝の血を吸いたい。楠柊の血液を吸い、味わい、嚥下し、この身に取り入れたい」
まっすぐな目で、透き通った眼で、ドラーヴは語った。
「でもそれは、出来ない。僕には上手く言葉にできないけれど、上手に形にできないけれど、それだけは言えるんだ。君に、ドラーヴに血を吸わせてはいけないと思ってる」
「……………………」
「……………………」
静寂が生まれる。無言が続く。徐々に息が詰まり、首を絞め殺されそうな圧迫感が部屋を埋め尽くす。
「「でも――」」
苦しさに耐え切れず、二人の声は重なった。音は融けあい、空気に揺蕩うことなく容易く消える。
静謐は乱すこと敵わず。ただ無為に時計の針は進み続ける。秒針の音は普段より大きく聞こえ、二人の感情を掻き乱す。
月光は無い。光は射さず、宵が始まった。
「もう、寝ようか」
「そうじゃの」
いくらか時を過ぎて、自然に言葉は生まれる。
柊は部屋の中心にあったテーブルを端に寄せ、空いたスペースに布団を二枚敷く。ドラーヴはマントだけ脱ぎ捨て、手持ち無沙汰でぽつねんとしていた。
「おやすみ」
「おやすみじゃ」
二人は静かに布団へ潜り込む。その後、柊の意識は沼に沈んだ。
寝息が聞こえ始めた頃、ドラーヴはそっと目を開けた。
こっそり被っていた布団から顔を出し、隣の人物の様子を窺う。
「寝ておる……かの……」
小声で呟き、反応を確かめる。
「妾はどっきりとか嫌いじゃぞ。起きているのならそう告げよ」
返事がない、ただのしかばねのようだった。
吸血鬼が考えると結構洒落にならない文言を頭に浮かべつつ、ドラーヴは柊の頬に手を伸ばす。そーっとそーっとちんまりした指を伸ばし、一突き。
「だいじょうぶ、だいじょうぶじゃ」
自身に言い聞かせながら、自分の布団を柊の傍に寄せていく。完全にくっついたところで少年側の毛布を持ち上げ、毛布と布団の間に生まれた隙間へ自らの毛布を手早く差し込み始めた。
これで二人分の寝床を合体させた形になる。
「慎重に、しんちょーにじゃぞ……」
次の目標は己の移動。こっそりこっそり相手側の布団に侵入し、空いた隙間にきっちり入り込む。
だが、ちょっとしたアクシデントが起こった。
ゴスロリの服が、複雑に重なり合う掛け布団の隙間に挟まったのだ。フリルが原因でどこがに引っかかっていることは分かるのだが、それ以上の手掛かりは得られない。
懸命に服を引っ張り、どうにかして窮地を抜け出そうとするドラーヴ。
そんな彼女に神は味方せず、更なる災難を与える。
「~~~~~~~~~~~~~~~~っ!」
柊がこちらに振り向いた。目が開けられていたら、確実に目線が合うレベルの至近距離だった。
(顔が近い顔が近い顔が近い顔が近い顔が近い顔が近い顔が近いっ!)
見る見るうちに幼き娘の顔はゆで上がり、頭の内は真っ白になる。
せめてもの応急措置として、ドラーヴは下に移動した。
そこは、柊の胸元の位置。当然、瞳には彼の首も映る。
匂いがする。生き物の匂い。人の匂い。男の匂い。血の匂い。
熱を感じる。生き物の熱。人の熱。男の熱。血の熱。
「吸血鬼は体温が低いのじゃ。なのに汝は、せっかくあるストーブを点けようともせぬ。これでは妾が凍えて死んでしまうではないか」
自らにしか聞こえないような声で、ドラーヴは理由づけを始める。
「これでは人肌で暖をとるしかないのじゃ。汝のせいじゃからな」
胸元に鼻先を埋める。鼻腔を生の香りが満たし、冷たくなった肌を生き物の温もりが暖める。
彼の首に目がいく。どうしようもない感情が、彼女の心を席巻した。
そっと少年の肩を抱きしめ、吸血鬼は欲求を満たそうと動き出す。
直接肌を重ねてみれば、血の流れが分かる。どくんどくんと脈を打ち、熱が内部を流れている。
ドラーヴの心臓は早鐘を打ち続け、心は速く動けと体を急かす。脳は理性を必死に働かせるが、欲求に対してはあまりに不利すぎる。
唇を首筋につけ、吸い付けば理性は吹きとんだ。体温を吸い上げ、唾液と共に熱が喉を通り抜ける。甘美なる味わいは体中を活性化させ、眠っていた吸血鬼の本能を呼び起こす。
ついには小ぶりな口を大きく開け、尖った牙を肌に当てる。柔らかく色の良い肌は、力を入れれば直ぐに破れるであろう。
これから味わう鮮血に期待を寄せ――。
彼女は口を閉じた。
濃厚な味と痛みが、口腔内に広がった。
幻想は近づいている。
例え日常に紛れ込もうとも、異端は異端。
見た目に騙されてはいけない。
見るモノを自らの価値観のみで捉える者は、いずれ破滅する。
朝である。
窓から陽光が入り、まだ夜の空気が残っている部屋を照らす。小鳥の囀りは耳に心地よく、寒風は外の枝葉が落ちた木を揺らした。
柊はすっきりと目を覚まし、上半身を起こして一度伸びをする。
下を見れば、いつものようにドラーヴが寝息を立てていた。僅かな起伏を持つ胸部が何度も上下し、呼気が繰り返し漏れている。
彼がふと自らの首元をさすると、何故か手のひらが濡れていた。冬なのに汗でもかいたかと思い、柊は寝間着を脱ぐ。
空気は冷たいながらも、天からの朝日は柊を温めている。
(このままぼーっとするのもいいかな)
幸いなことに、今日は休日だった。時間もたっぷりある。有り余る時をふんだんに使っても許されると信じて、彼はゆっくり過ごすことにした。
瞼を閉じ、周囲の音に耳を澄ます。普段は雑音だと感じているそれらも、今は情緒ある音楽だった。
一分経ち、二分経ち、瞳を閉じていればすぐに時間は過ぎ去った。一度はっきりした意識も、暗闇の中では沈みこんでしまう。
結局のところ、彼は二度寝に及んでしまった。平常ならば考えられない、堕落した行動である。力の抜けた体は自然と猫背になり、いくばくかすると倒れ込む。
彼が寝転ぶ先に居たのは、夢の中にいるはずのドラーヴだった。
「にゃう!」
突然の衝撃に、吸血鬼は魔の抜けた声を発した。起き抜けの意識に混乱が重なり、現状がまったく把握できていない。
けれど、自分の上に被さるものが毛布でないことだけは分かった。
寝ぼけ眼をこすり、視界がはっきりしてくると幼い顔が驚愕に染まる。西洋人形のような整った顔立ちに赤みが差し、瞳孔が開かれる。
「あわ、あわ、あわわわわわわわわわわっ!」
誰だって今の状況に置かれたら、驚くものだろう。自分の上にパンツ一枚の男が寝ているのだ。覚醒したばかりの脳には、大分刺激の強い視覚情報である。
ドラーヴは咄嗟に手を跳ね上げ、覆いかぶさっていた裸の男を自分から引きはがした。
「な、な、汝はなにをやっているのじゃ!」
様々な感情を濃縮した声が、柊の耳に突き刺さる。
「ああ、ごめん……。寝ちゃってた……」
再度目をこすり、あくびをする少年。掛け布団をめくると、自身の奇妙な姿に気が付いた。
「あれ、なんで裸なんだろ……」
「『なんで』じゃないわ! 妾が聞きたいぐらいじゃ! さ、さっさと服を着るがよい!」
幼女に言われるがままに、柊は脱ぎ捨てられた寝間着を着直した。着替えの際に手が首に触れ、濡れた感触が手に伝わる。
「濡れてる……。そっか、汗かいちゃったから脱いだのか……」
起床したばかりのふわふわした精神の中、自身の奇行の理由に思い至った。
「な、なんじゃ、ぬれてるとは?」
「いや、首が濡れてるんだ。なんか匂うし、多分汗だと思うんだけど――」
「か、嗅ぐな嗅ぐな! そのようなことしなくてよい! み、みっともないわい……」
柊の手に付着していた液体――要は吸血鬼の唾液――をドラーヴは自分の手で拭い、少年の様子を窺う。疑問符を頭の上に浮かべているものの、彼はそこまでドラーヴを怪しんでいなかった。
ドラーヴとしては一安心、である。
「拭いてくれてありがと。でも、すぐ洗った方がいいよ。僕の体液だし」
「わ、わかっておるわ。汝が見苦しいから、妾が一応その身を取り繕っただけじゃ。感謝するがよい」
「うん、ありがと」
「そ、それでは言われた通りに妾も朝の支度をするかの」
ドラーヴは今、油を挿していない機械仕掛けの人形のようだった。手足が一緒に動いており、さらに動作がカクカクしている。気持ちの動揺から生まれる身体の震えを、彼女は満足に抑えられない。
(ばれてないじゃろうか、ばれてないじゃろうか。いや、ばれることは無いはずじゃ。枯れ木のように鈍感なあの男が、気づくわけあるまい、そうにちがいない。きっとそうじゃ、そうなのじゃそうなのじゃ……)
脳内で幾度となく繰り返すことで、自分で自分を洗脳する吸血鬼。彼女の脳のどこかの回路が焼き切れていることは間違いなかった。
洗面所の前に立ち、鏡を見る。吸血鬼だろうが、鏡面は容赦なく頼りない幼女の姿を映し出す。面に映る反対の風景からは、なんの異変も感じられない。
平凡なワンルーム。布団をたたみ始めた少年。顔を洗いにきた幼女。まどの向こうには向かいの家が見え、いつの間にか点けられたテレビには、ニュースキャスターが登場している。
ただの日常。
しかしドラーヴのとる行動は、それを打ち砕くモノだ。
ちいさくプルンとした口を大きく開ける。「あ~」と声を出しながらべろも突き出してみた。すると鏡に映る口腔内には、特異な点が二つあった。
一つ目は人間と化け物を区別する点。それは、真っ白で尖った犬歯だ。普通の人間は犬歯を尖らせないし、薄くなるよう磨くこともない。歯の、特に牙の美しさというのは、吸血鬼のプライドに直結する事柄だった。
二つ目は、新たに出来たとされる二か所の口内炎。これは普通の人にあってもおかしくない出来事だが、彼女の場合出来かたが違った。
「べえー、いてて……」
その二つの白い粒はちょうど牙の真下――舌の上にあった。端的に言えば、吸血鬼特有の牙で舌を噛んだのである。
「いたいー、いたい~」
半ばやけくそになって、ドラーヴは思いを口に出し続ける。感情を吐き出せば感覚が和らぐと、バラエティ番組で紹介されていたのを思い出したのだ。
(自分の自慢の牙で舌を噛む吸血鬼なぞいるのじゃろうか……。妾はかなり恥ずかしい状態にあるのではないのか?)
今現在のドラーヴの疑問は、かなり危うい。上手く的を射ていただけに、相当危険な自問自答だ。
気を紛らわそうと何度も何度も舌を出し入れするが、痛みは治まらない。当たり前のことにもイライラし始めたドラーヴは、眉をきつく傾ける。
「うぅ~うぅ~」
もはや吸血鬼なのか人狼なのか判別できない声をドラーヴが発し始めたところで、柊が軟膏を持って現れた。
「ドラーヴ、薬塗ってあげるから呻いてないでこっちおいで」
「うぅ、いだい……」
ヴァンパイアは忌々しい鏡にガンを飛ばすと、柊の方へ振り向く。おずおずと舌先を出し、様々な刺激に耐えるべく拳に力を入れた。
「よし、そのままにしててね」
薬を先端に塗布された綿棒が、ドラーヴの舌をつつく。そして丹念に腫れた部分をなぞり、白い軟膏を塗りつけていく。
彼女は痛みも感じていたが、それ以上にくすぐったく、気持ちいいのが問題であった。
柊も丁寧に手当てしているだけあって、綿棒の動きは慎重だ。尚且つ、人は細かい作業を試みると手が震えるものである。口腔内というのは粘膜だらけであり、それ故敏感だ。そこを他人の手で、しかも震える手によって扱われる棒で刺激されてしまえば、圧倒的な刺激を受け手にもたらすことは必定。
したがって。
ドラーヴは莫大な快感を耐えねばならない。
「ひうっ、はぁっ、んんっ……」
華奢な喉は悩ましい声を奏でるが、柊は別に動揺しない。これはあくまで治療であり、世話焼きである。傍から観測すれば異様であるが、彼にとってこの様は平常であった。
「もうちょっと、もうちょっとだから」
綿棒の先端で円を描くようにして薬を塗りたくり、口腔内で他に異常がないかチェックしていく。ドラーヴは口の中を噛みやすいため、本人が認識しないうちにいくつも腫れをつくっていたりするのだ。
「――よし、終わり」
「長かった、長かったのじゃ……」
少年が終了を宣言すると、幼女は床にぺたんと座り込む。実質的な時間は一、二分だが、彼女の体感としては数十倍になっていた。
「二か所同時に出来るなんて珍しいね。昨日の晩御飯食べにくかった?」
軟膏を薬箱にしまった柊が、ドラーヴに問うた。
「い、いや、そんなことはないぞ。むしろ食べやすかったまであるのじゃ」
問われた本人――否、本鬼のドラーヴは動揺しすぎて言葉がおかしくなっている。なにせ、口を噛んだ原因が原因だ。
(こっそり血を吸おうとしたら緊張しすぎて自分の舌を噛んだなど、暴露できるわけないじゃろうが‼)
おまけに対象の首には自身の唾液まで残しているので、証拠は溢れている。ここまでされて考えが及ばないのは、楠柊のにぶさが働いているからだろう。
「骨付きスペアリブが食べやすかったなんて、さすが吸血鬼」
こんな抜けたことを呟いている時点で、頭のネジが何本か抜けていることは明らかである。
「汝は何故そうも……」
「ん、僕がどうしたって?」
「なんでもないのじゃ」
「もしかして昨日のご飯美味しくなかった?」
「汝の作る食事は十分すぎるほどに美味いわ! そうではなく、もっと他のところに目を向けるべきであって………」
ドラーヴは柊から目を逸らし、顔を下に向けた。罪悪感が心を占拠しているだけに、至近距離で目を合わせるのは少々厳しい。柊が魅力的な人物であるからこそ、直接的なコミュニケーションは取りづらくなる。
しかし、この少年はそんな些事をものともしない。
「でもさ、やっぱりドラーヴはご飯がまずかったり、嫌いな物が入ってたりしたら怒るかなーと思って」
「そんなことで一々気分を害していたら、ほんとにちいさな子供ではないか!」
いつものマイペースで、霧のかかった彼女の心を吹き飛ばすのもまた、柊であった。
「はあ、汝が食事の話ばかりするから、腹が減ってきたのじゃ。何か作ってはくれまいか」
「え、いつも朝ごはん食べないじゃん」
「今日は特別、じゃ!」
「食べないと思って薬塗ってあげたのに……。また塗り直しになるけどいいの?」
「い、いいのじゃ。薬を塗るくらい、た、大したことでもなかろう。別に薬が沁みて痛いなーとか、くすぐったくて我慢できないなーとかは一ミリも思っておらんからの!」
「分かった。じゃ、ちょっと待ってて」
柊は狭いキッチンに向かうと、エプロンをつけ始める。その後、冷蔵庫から冷えたコップとトマトジュースを取りだし、吸血鬼に手渡した。
「出来るまでこれ飲んでて」
ドラーヴはペットボトルとコップを両手に持ち、テーブル近くの座布団に腰を下ろした。
「前々から思っとったが、吸血鬼にトマトジュースって完全なイメージじゃろ……」
見た目だけなら血液に見えなくもない液体をグラスに注ぎ、口をつける。
「美味いの……」
悔しいことに、味が確かなのであった。
西洋の煮込み料理の隠し味に使われるそれは、柊が厳選して購入してきた一品である。
ドラーヴは赤い液体を飲み下しながら、朝のニュース番組を特に意識せずに見る。
そんな日常のさなか――。
比較的どうでもいい流行のコーナーに差し掛かったところで、異変は起きた。
吸血鬼の体感を、世界を、急に嗅覚が占領したのだ。
高級なチーズを前にしたときのような、芳醇な香り。
上質な肉を眼前で焼かれたときに感じる、匂いに伴ってせりあがる食欲。
今までに体験したことのない美味の集合体が、鼻腔へ直に伝わってくる。
それはアルコールを口にしたときの酩酊感でもあり、濃厚な味覚を味わった際の恍惚感でもあった。
「いってて……。包丁で指切っちゃった……」
精神世界に旅立っていたドラーヴを現実に引き戻すのは、柊の声。そしてその目覚めは、至ってはいけない発想を引き起こす。
(いま、あやつは何と言っていた……?)
指を切った。
包丁で。
ならばどうなるのか。
当然、傷口からは液体が溢れるはずで――――――。
知らず知らずのうちに肉体が動く。
いつしか視点は上昇していて、この身は歩き出している。
台所の傍までくれば、感じる香りは一層強くなっていた。
頭がくらくらする。のどが渇く。体の全てが、それを欲しがっている。肥大する欲求は制御できない。
「何故なら、妾は吸血鬼じゃから」
消え入りそうな声で、そっと呟く。
誰も聞いてはいない、独白。
台所に立つ柊の傍まで寄り、ドラーヴはただ彼の腰にしがみついた。
「どうしたのドラーヴ。お腹空きすぎて我慢できなくなった?」
あどけない表情で、少年は笑う。
「ああ、確かに腹が減った。減りすぎて困るのじゃ」
どこか悲しげな表情をして、吸血鬼も笑う。
飢えるとはこういうことを指すのかの――そう言って、ドラーヴは彼の服をぎゅっと握りしめる。
「待ってて、もうすぐだから」
「もうすぐであるか、そうであるか」
震える声で応じながら、柊の手元を覗きこんでしまう。
細く色素の薄いひとさし指に、短く入った赤い線。今も液体が滲み、雫となって滴り落ちようとしている。真紅の色に視線が吸い込まれ、理性は途端に遠のいていく。
ドラーヴの意識の対象に気付いた柊は、恥ずかしそうに照れた。
「料理は結構してるはずなんだけど、今日はちょっとうっかりしてたよ。まさか指切っちゃうなんてね……」
柊は蛇口のレバーを上げ、水で傷口を洗い流そうとする。
「あっ……」
「ドラーヴ?」
赤色がシンクに落ちそうになると、ふいにドラーヴは手を伸ばしてしまう。柊が彼女の様子を訝しむが、血に魅入られた吸血鬼はそんなことなど気にも留めない。
ただひたすらに、赤い雫を指先で掬うことに必死になっていた。
落ちてしまっては勿体ない。あれを啜れば本質を取り戻せる。そして何よりも、味を確かめてみたい――。
「――っ、ドラーヴ、ドラーヴ‼」
異常に気が付いた柊が、小さな肩を揺する。濁った眼は呼びかけるにつれて澄んでいき、数十秒後に彼女は正気を取り戻した。
「あ、あれ、妾は何を――」
肉食獣の威嚇の如く剥き出しにされた牙や、相手を縛りつけるほどの畏怖を与える眼光は、もうすっかり消失していた。
人間にしては長い八重歯と、蒼く輝く双眸があるだけ。
いつも通りの穏やかな姿を見て、柊は深く安堵し、瞳にうっすらと涙を浮かべる。
「だいじょうぶ? だいじょうぶなんだね……?」
「ふぇ、え……」
いつの間にか、吸血鬼の形のいい顎には自然と透明な雫が伝っていた。
何故こんなにも悲しいのか。それすらも分からないままに、涙はフローリングの冷たい床を濡らし続ける。
ポタポタと雫はこぼれ続け、小さな水たまりをつくる。水面が床の木目を歪めて映し出していた。
「とりあえず落ち着こう。一体何が起こったのか僕には皆目見当がつかないけれど、話をゆっくり聞くことぐらいはできるから」
「わたしは、わたしは…………!」
完全な素に戻ったからだろうか、一人称が変化している。小柄な体躯は震え、草食動物のような弱さが滲み出ていた。
いくらなんでもこの様子はおかしい。
柊が深く確信しようと、打つ手はない。ドラーヴ自身が口を開くまで、してやれることは何もない。
「血を、血が欲しくて……それは、いけないことなのにっ……!」
嗚咽を噛み殺し、彼女は拳を握りしめる。己を戒めるため、爪が肉に食い込もうともお構いなしに力を入れ続ける。尖った牙は唇を傷つけ、流れ出た血が口紅のようにてらてらと輝いていた。どうしようもなく、味覚を鉄の味が侵食していく。
しかし、その赤では欲求は満たされない。
吸血鬼としての欲は満たされない。
こんな生臭いモノではダメだ。
私が望む、もっと大切な人の血が――――。
「――――――っ!」
いくら抑え込もうとしても頭の奥底から湧きだす欲求と思考に、嫌悪感がした。
そんな自分が嫌になって――小さな鬼の意識は断絶する。
人間に興味はなかった。
親族はいない。友達を作ったことも無い。先生と呼ばれている職業の人とは最低限のことしか話さないし、役所の人も事務的な対応をするだけだった。
思えば、孤児院でなんども話しかけられた覚えはある。
「どこか具合悪い?」「一緒に遊ぼう!」「これからよろしくね!」「喋れないの?」「なんだ、つまらないやつ」「この――――」
最新の記憶であればあるほど、言葉の内容は悪くなっていった。
口を開かねば良い関係は構築されず、悪い関係は喋らなくても勝手に作られていく。因縁は体がぶつかった程度のことでよい。極論、『そこに居ただけ』でも喧嘩腰で迫られる理由になりうるのだ。
しかし、幾度となく苛められようと嫌がらせをされようと、少年は良識を守り続ける。心身を病むことも無ければ、復讐に走ることも無い。そもそも人に興味がない故に、心が痛むことは無かった。
身の危険を感じ取れば躊躇なく反撃にでるが、それ以外では何もしない。
そんな生活を送った結果――少年の周囲から人気が消えた。相手からの反応が無ければ、人は関わることをやめる。彼を害す者たちはもちろん、彼に手を差し伸べようとする者たちにもその傾向は共通していた。
彼は一人で出来ることをやり続け、淡々と成長する。そうして高校生になり、孤児院を出てアパートにて一人暮らしを始めた頃。
少年はどこからか、視線を感じるようになったのだ。
誰かに見られている。こちらが見えなくても、相手が見ている。そんな感覚が、確かにずっと残っていた。
それ自体に危険はない。何の被害も無い。一般人なら不安と恐怖が胸に押し寄せるだろうが、彼に心理的恐怖は一切ない。
謎の視線を受けながらも、ごく普通に数日が流れ去っていく。
そしてその日も、少年は日常を過ごしていたはずだった。いつも通り学校へ行き、いつも通り帰宅して、いつも通り自室の鍵穴に鍵を差し込み、いつも通り鍵を捻れば――ガチャリと、鍵のかかった音がする。
「あれ」
思わず驚きを口に出してしまう。
今朝は確かに鍵を閉めたはず――と思いつつ、少年はもう一度鍵を捻る。開錠してドアを開ければ、登校前に消したはずの照明が煌々と輝いていた。
ガタリ、と。
キッチンの方から物音がして、少年は意識をそちらへ向ける。不測の事態にも対応できるよう、身構えて様子を見てみると――。
「ふぇっ⁉」
そこには、冷蔵庫の中身を漁る金髪の幼い子供の姿があった。
昨晩の余り物のから揚げを頬張る、幼女の姿がそこにはあった。
大きく開けられた口からは鋭い牙が確認でき、それでただの子供との見分けがつく。
整いすぎている容姿と真っ白な牙が、その正体を物語っていた。
念のため、少年は問うた。
「君は――なにモノ?」
その日。
楠柊は人間以外のモノと遭った。
「ん、んんっ……」
優しい出汁の香りが、室内に漂っていた。閉じていた目を開けてみれば、年季の入った古い天井が広がっている。
ドラーヴは目を擦り、上半身を起こす。数秒もすれば頭が冴えてきて、自分の身に起こったことが理解できた。
「妾は、気を失って――」
意識が途切れた理由を思いだし、ドラーヴは自然と顔をしかめる。
「目が覚めた?」
そこで、お盆を持った柊がテーブルの傍までやってきた。湯気の立った椀をテーブルに置き、木のスプーンをドラーヴに手渡す。
「お腹空いたかなーと思って」
配膳されたのは、卵で仕立てられた粥。出汁の良い香りは、それから立ち上っているようだった。消化しやすい病人食であるのは、急に倒れたドラーヴを思ってのことだろう。
「………………」
黙って椀の中を見ていれば、自然と食欲がわいてくる。朝食も食べずに倒れてしまったからか、彼女のお腹はきゅるきゅると鳴いていた。
ドラーヴはスプーンでおずおずと粥を掬い、口へ運ぶ。すると、柔らかで素朴な味が心を落ち着かせる。
(美味い。美味いのじゃが、何かが足りぬ。――あれには届かぬ)
美味しくないはずはないのだ。だが、無意識に比べてしまった対象が悪かった。
(満たされないのじゃ。匂いも、味も。渇きは、こんなものでは潤せぬ)
欲求が満たされぬことに苛立ち、そんなことを考える自分自身に腹が立つ。心がざわついていれば、必然的に彼女の表情も曇る。
眉を顰め、目つきは悪くなり、口を閉じた。
そうなってしまえば、その顔を見た柊もまた心配事が増える。
「口に合わなかったかな……? ごめん、ちょっと貸して」
少年はドラーヴの持つ匙で、粥の味見をしようとする。配膳前に一度行っているはずだが、彼女のことになると柊の行動は過剰になる傾向にあった。
「…………………………………」
「ドラーヴ?」
ドラーヴには少年の声が届いていない。思考からくる自己批判が彼女の頭の中を駆け巡っており、他人の声など聞こえる状態にない。
匙を貸してもらおうとしても、本人が手放さないのではどうしようもない。柊は仕方なく、ドラーヴが持ったままの匙で粥を味見した。
「うーん。強いて言えば、塩気が足りないかな……」
当然、先ほども確認したので悪いところなど見つかるはずもない。しかし念のためもう一口食べねばと、柊がスプーンで再び粥を掬おうとしたところ、
「な、な、何をしておるのじゃ」
ドラーヴが現実へと帰ってきた。さすがに二回も腕を上げ下げさせられては、自分の世界から引き戻されてしまったらしい。
そして、正気を得た彼女が見た光景はただ一つ。
端的に表現をすれば、柊に『あーん』をしている自分の姿である。
「何って、味見だよ。ドラーヴの口に合わないみたいだったから」
「別にまずくなどないし、もしそうだったとしても、なな、なぜそうして食べておる!」
「一番お手軽だったから?」
「おかしいじゃろうが!」
ドラーヴは羞恥を誤魔化すべく暴れようとするが、粥を掬ったままのスプーンを持っているため身動きが取れなくなる。無駄に力が入ってしまい、ぷるぷると震える腕の扱いに困り果て、結局はスプーンを柊の口に押し込むしかなかった。
柊は不意を突かれながらも、なんとか咀嚼し嚥下する。その後、少年は笑ってこう言った。
「ありがと、ドラーヴ」
「そ、そんな顔をするでない、ばか者め……」
ドラーヴは目を背け、頬を朱に染めながら柊を非難する。
それほど、彼の笑顔は屈託のないものだった。それはもう、普段の彼を知る者からしたら考え付かないほどに。
「それでどうなのじゃ。味の修正点とやらは見つかったのかの?」
「うん、まあね。やっぱり少し塩気が足りないかも」
柊は食卓に置いてあった塩を取り、ミルを二回ガリガリと回して粥に塩分を足す。匙で粥を混ぜ、少々掬って味見をする。
「これで大丈夫かな」
自分の納得がいく味になったところで、柊は粥を乗せたスプーンをドラーヴの口元まで移動させる。
「汝…………」
ぐいぐいと突き出されるスプーンを前に、ドラーヴは黙りこくるしかない。眼前には柊の無言の笑みがあり、純粋な善意からくる圧力は彼女には耐え難かった。
「はむっ!」
口を大きく開けずに素早くパクついたのは、ささやかな抵抗なのかもしれない。そして一瞬で口に入れたが故に、ドラーヴは舌の上に広がる味わいへの驚きを隠せなかった。
「どうかな?」
「――美味い。先ほども美味かったが、さらに美味じゃの。正直、塩だけでここまで変わるとは思わんかった」
ひったくるように柊からスプーンを奪い、ドラーヴは粥を口にする。
(塩気は確かにそうじゃが、香りも先ほどとは異なるように感じる……。少量の塩だけでここまで味が変化するとは信じられん……)
食せば食すほど、自分の中の欲求が満たされていく感覚がした。空っぽの桶の中に、多量の水が注がれるが如く。
何が違うのか。自らが何を欲していたのかを知らぬまま、ドラーヴは食事を終えてしまう。
「ごちそうさま。美味かったの」
「おそまつさまでした」
空になった食器をシンクまで運び、柊は蛇口を下げた。スポンジを握る彼の背後から、ドラーヴが声を掛ける。
「の、のう柊よ。汝はその、妾と同じ食器を使うことに抵抗はないのかの?」
水の流れる音に混じって、可憐な声が耳に届く。喋るにつれて声量は小さくなり、聞いているだけで羞恥が伝わってくるほどだった。
「どうしたの、いきなりそんなこと」
「いや、ふと気になっただけ――じゃよ」
食器を洗いながら、柊は水の滴り落ちる銀のシンクを眺める。大量に流れ落ちる水滴は、洗剤の泡と共に排水口に流れ込んでいく。
「別に抵抗はないよ」
少年は躊躇いなく、さっぱりと言う。
「鬼と同じものを使うのじゃぞ? 化け物の体液を間違って取り込んでしまう可能性もあるのじゃぞ? その結果、人でなくなるやもしれぬ。それでも――」
「それでも、僕は抵抗なんて抱かないよ」
口元を少し歪めて、彼は笑う。
「人じゃなくなる――ドラーヴと同じ吸血鬼になれるのなら、僕は大歓迎かも」
少年は心の底から笑っていた。それは、とてもヒトには出来ない表情で。ヒトがしてはいけない顔つきだった。
「汝は、どこか壊れておるの」
ドラーヴも言葉の上では非難しつつ、静かに微笑んでいる。
「ドラーヴを見てると、吸血鬼なんて人間と大差ないように思えるしね」
「それはどういった意味じゃ」
ほんのりと不快感を表しつつ、吸血姫はテーブルに突っ伏す。両手を投げだし、力を抜いて視線だけを柊に送っている。
「牙が生えてるだけで、大して普通の人と変わらないじゃないか。血も吸わないし、弱点らしきものもない。日常生活には不便しなさそうでいいんじゃない?」
「それじゃと、わざわざ吸血鬼になる意味が無いじゃろ……」
ドラーヴは手足をバタバタさせて、呆れたように呟く。溜息をついた後、蒼い双眸を細めて非難の視線を送った。
無論、視線を背に受ける柊に彼女の感情は伝わらない。これは、単なるドラーヴの自己満足でしかない。
「あ、でも吸血鬼狩りとかは怖いかも」
「たわけ。今の世にそんな者はおらぬよ。科学技術の発展で、吸血鬼は人類に対しての有利を得られなくなったからの。むしろ人類の発明に吸血鬼がすり寄っておるのじゃ」
「そういう感じなんだ」
「中世までならヴァンパイアハンターも精力的に活動しておったが、そこから先は衰退しかしておらぬ。吸血鬼らも発明の恩恵を受けたいがため、積極的に人を襲うこともないしの。人を襲わねば吸血鬼認定など出来ぬから、異形の狩人などいなくなるわい」
長く喋った後、ドラーヴは大きく欠伸をした。
「眠いの?」
「昔話などしたから、少々な。吸血鬼にも睡眠欲はあるということじゃの」
「変だね。食欲に当たる吸血欲はないのに」
無邪気な柊の発言に、ドラーヴの鼓動が跳ねる。眠気は一瞬で吹き飛び、緊張は全身を強張らせた。
「い、いや。妾は吸血鬼じゃから、れっきとした吸血欲はあるぞ」
「でも、吸わなくてもいいんでしょ。さっきの話ぶりからすれば、現代の吸血鬼は血を吸わなくなったらしいし」
「そうじゃ、吸わなくてもよい。血を啜らずとも生きていける。生命活動には不必要な、意味の無い行為じゃから――」
(なのに――どうして妾は無性にあの赤が欲しくなった――)
言葉に出している内に、嫌悪感がぶり返す。本能と理性がせめぎ合い、脳内をドロドロに溶かしてゆく。
(生きるために吸血は要らぬ。ならばそう、それを行うのは自らの意志であるはずで――)
「――っ!」
ドラーヴは最悪の想像をしてしまう。
それに伴って視界が歪む。手足の感覚がなくなる。それでもなお、肉体から嫌な液体が流れ出していることだけは、明確に認識できた。
「はぁ、はぁ、はぁ」
呼気が乱れる。動悸がする。世界が勝手に回っているように見えて、それがまた気持ち悪い。
使い物にならない目を働かせれば、すぐ傍にはぼんやりと少年の姿が見えた。
柊は必死に小柄な体を揺さぶり、大きく口を開けて何か喋っている。声が聞こえなくとも、ドラーヴにその懸命さは伝わっていた。
「だいじょうぶ、じゃから。すこし、ねむくなっただけ、じゃから……」
どこが大丈夫なんだと、少年は言う。
「すいみんをとれば、こんなもの……へいきじゃよ。だからもうすこし、ねかせてくれ」
目覚めから数十分も経たずして。
吸血鬼は再び意識を失った。
何かを否定する者は、それらを肯定する者からの逆襲を考慮しなければならない。
例えそれが異端であろうとも、その者にとっては常識。
故に慢心は生まれ、最悪の結末を生むこともある。
ひどく暗いセカイだった。意識はただそこに、闇の中に漂い続けている。吸血姫は一人、黒の中を歩んでいた。
ここはどこ? と、彼女は言う。そして、右の方から声が返ってきた。
「君の意識の中だよ」
自分とまったく同じ声。高さも、響きも、口調でさえも寸分違わず同一だった。しかしその声はひどく冷静で、生あるモノと喋っている心地はしなかった。
なんで私はこんな場所にいるの? と彼女は再び問う。すると、左の方から声がした。
「君が本能に耐え切れなくなったからだよ」
先ほどとまったく同じ声。コピーしたかのように正確で、ノイズすら入っていない。でもその声はひどく軽薄で、理性あるモノと接しているとは思えなかった。
ここから出して、と彼女は訴える。
「それはできない。私が施錠をしているから」
「早く出てしまえばいいのに。鍵はかかっていないのだから」
今度は左右同時に、音声が発せられた。内容は全く異なっていたが、タイミングが同じなだけに気色悪さが増している。
どういうこと? 彼女は首を傾げた。
「しょうがない」
「分かりやすく見せてあげよう」
二つの声は呆れたように言葉を紡ぐと、その姿を現した。
姿と言っても、明確な形はない。色のついた二つの霧のかたまりが、何もない真っ黒な空間に浮遊しているのだ。
その光景を目の当たりにして、彼女は声も出せなくなる。それほどまでに――精神光景の衝撃は大きかった。
右側はいわば白の塊。純白で、密集していて、汚れなど欠片も見つからない。あまりの清潔感に気分が悪くなるほど清廉だった。白々しくて、それがまた逆に不快感を引き出す。
左側は黒の網。この漆黒の空間ではっきりと認識できるほど、深い闇を孕んでいた。光を全て吸い込まんばかりに、飲み込まんばかりに、周囲を捻じ曲げてのたうっている。それでもその動きが、とても蠱惑的だった。
霧の境界線では黒と白とがぶつかり合い、せめぎ合ってお互いを食い尽くそうとしている。醜悪で奇怪な現象は、嫌でも彼女の目を引き付けた。
醜くても欲しい。
汚くとも美しい。
穢れていようとなお気高い。
その禁忌は、どこまでも尊かった。
「こんなものはいやかい?」
「こんな感情は拒否するかい?」
「でも見なきゃいけない。あれが君の敵だ」
「でも打ち破らなくちゃいけない。あれが君の障害だ」
左右交互に声がしたかと思えば、彼女の精神はいつの間にか境界に飲み込まれていた。
ドラーヴは言った。吸血鬼狩りなど存在しない。ヒトが鬼を上回った以上、そんなモノの価値はない――と。
だが小さな吸血鬼はこうも宣ったのだ。人は時に無駄を愛す。『無駄』に費やす者を過度に持て囃す――と。
「どうすればいいんだ……⁉」
楠柊は、誰にも見せたことのない不安と焦りの色を浮かべていた。
その焦燥の理由はただ一つ。
傍らで寝ているドラーヴの異変である。
彼女は気を失った後、一時間ほどで目を覚ました。しかし、起き上がることもできずに三度意識を失ってしまったのだ。
「…………」
死んだように眠るドラーヴを見つめ、柊は押し黙る。
息をしているのかも分からない。普段の睡眠とは違う、まったくと言っていいほどに生命の鼓動を感じさせない姿は、柊の精神を圧迫するのに十分過ぎた。
「くっそ……」
いくら深く悩もうが現状は変わらない。常識が通用しないことだけが、唯一理解できていることだ。
そして。
最悪な状況は、止まることなく坂を下り続ける。
突然ガチャリと、玄関の方から音がした。取っ手を引いた音。気の立っていた柊は、そんな雑音を聞き逃さなかった。
もう一度ガチャリと、心をざわつかせる異音がする。柊がそれを訝しみ、玄関まで移動したところで――。
ドアが静かに壊され、二名の男女が室内に侵入してきた。
あまりにも静寂に満ちた昼下がり。暖かな陽光が室内を照らす中、闖入者は現れたのだ。
「この者は――」
最初に口を開いたのは、修道服姿の大男だった。一八〇センチを超しているだろうその巨体は、対する者を威圧している。分厚い胸板、木の幹と見紛うほどの太い腕、がっしりとした肩幅――肉体を構成する一つ一つに、「強さ」が圧縮されていた。
「眷属ではないようですね。恐らく、事情を知らない一般人かと。一時的な保護をしている善人か、あるいは魅了されているのか、判断はしにくいですが」
男と話を始めたのは、銀髪で長身の女だった。切れ長の赤い両目が特徴的で、凛としたイメージを想起させる。一瞥するだけで引き締まっていると分かる肉体は、男と同じく修道服に包まれていた。胸元には十字架型のネックレスが輝いており、銀髪と相まって神々しさを演出している。
「なんですか、あなた方は」
吸血鬼と接している時とはまったく別の顔で、柊は相手を睨みつける。優しさなど微塵も感じられないその表情は、二人の身を強張らせた。
「人の家に勝手に押し入ってきて――警察呼びますよ」
怯えることなく、少年は静かに告げる。彼は警告し終えると、即座にポケットからスマートフォンを取りだした。
「それはさせません」
音を伴わずに女が動く。鍛えられた肉体から繰り出される体術が、機器を持つ手を狙う。俊敏な蹴りが、彼の右手を打ち砕いた。
「――――――っ!」
柊が避けようとする暇もなく、衝撃を体に打ち込まれる。スマートフォンを取り落とし、その回収もままならない。
「やりすぎるなよ、ミラカ」
「分かっています。気絶させて終わりにしますよ」
ミラカと呼ばれた女は、床に落ちた電子機器を拾うとそのまま握り砕いた。ティッシュを丸めるが如き気軽さで、金属の集まりを易々と破壊する。
「………」
常識外の握力にも、楠柊は動じない。ただ黙って脳内をフルに働かせ、今の状況からドラーヴが逃れる術を考えていた。
(周囲の住民の反応がまるでない――どうしてだ)
扉の壊れ方といい、異様なまでの格闘技術といい、埒外の身体能力といい、前方の二人が怪物であることは明らかだ。
そしてこの静謐――積み重なった現状から、少年は『普通』を捨てることを決意した。
「後遺症は残らないように配慮しますから――大人しく眠っていなさい」
冷静に無抵抗を促すミラカを無視し、柊は素早く台所へ移動。
包丁を収納から何本か取り出し、二人に向けて迷いなく投擲した。
「無駄なことを」
飛来する刃物を恐れることなく掴むのは、大男の岩のような掌。鈍く輝く刃が手に食い込んでいるにも関わらず、血の一滴も零れることはない。そのまま彼が力を入れると、鉄は砕けてしまった。
ミラカの方も同様に、包丁を受け止め破壊している。
「こうも躊躇なく殺しにくるとは……お主、本当にまともな人間か……?」
「匂いで分かるでしょう。この子は眷属ではない。ただの人ですよ」
「これを『人』と呼んでいいものか、我には判断が出来ぬが……」
顔色を曇らせ、男が嘆いた。
次々と飛んでくるフライパンなどの調理器具を砕きながら、彼は柊に近づいていく。
「おい、我がやると少年が壊れてしまうぞ」
「私がやりましょう」
無表情の柊に向かって、女は踏み込んだ。
神速の体術。反応することすら許されない速さで、腹部に拳が撃ち込まれた。
「がはっ――!」
体内に残っていた空気を、残らず吐き出させるほどの打撃。柊はふらつきながらも、倒れまいと必死に堪える。
「よく耐えますね。ですが、これで終わりです」
容赦など微塵も無く、二撃目の手刀が少年の首に炸裂する。ドスンと重みのある音がしたかと思えば、柊の視点は床の高さにあった。
伏した少年を気にも留めず、一組の男女は眠るドラーヴの元へと向かう。
「これが原種か……」
「ええ。我々とは違った、遥か上位にして底辺に位置する存在ですよ」
彼らが淡々と話す間も、楠柊の意識は続いている。少年はただ一つの使命感に従って、這いずりながら彼らの歩みを阻もうとした。近くにいたミラカの足首を右手で掴み、動きを妨害しにかかる。
「まだ動きますか」
なんの感動もなく言葉を漏らしながら、ミラカは柊の腕を踏みつけた。まるで地を這う虫を踏むような気軽さで、ヒト一人の腕を折った。
ベキリと、脳内まで響く歪んだ音がした。
「――――っ!」
それでも叫ぶことなく、柊はひたすらにミラカを止めようとする。使い物にはならなくなった右手ではなく、まだ動く左手で彼女の足を押さえたところで――。
グシャリと、果実を潰したようなオトがした。
「君は何のために血を吸うんだい?」
鬼は、一人で闇の中に沈んでいた。負の感情を圧縮したモノが問いかけてくる。
「吸血鬼の矜持のため? 威張るため? 弱者をいたぶって悦に浸るため?」
彼女は黙って首を横に振った。自分の中に確たる感情があったから、本能の呼びかけは否定できた。
「違うよね。そうだよね。君はただ――」
「ただ、一人に認めてもらいたくて」
幼女は――ドラーヴ・カズィクルは、そう零した。切なそうに、哀しそうに、肩を震わせながら。
「だから吸いたかった。だから吸えなかった」
「あの人間らしくないヒト、楠柊に認めてほしかったとでも言うのか、君は」
心の底から湧き出る感情を押さえるように、吸血衝動はくつくつと笑う。
「吸えばいい。ありったけ、思うがままに。何の問題があるんだい? なあに、ちょっとした味見だよ。ワインのテイスティングだと思えばいい――」
それで、ボトルを飲み干してしまってもいいんだ――。
悪魔の囁きを受けて、ドラーヴの目が開く。動揺で瞳が揺れ動き、吐息が否応なく漏れる。
「どうだい、気持ちが高ぶってきただろう。その調子だ。そのまま自分に逆らうな――」
声が段々遠くなって、身体の感覚は消えていく。元より夢の中であったはずなのに、五感が一つずつ消失してしまう。
さあ、目を開けて――。
そして。
うすくぼやけるドラーヴの視界に飛び込んできたのは、浮遊する十字架の先端だった。
「アラン、束縛の結界をお願いします」
「そこまでする必要があるのか、相手は子供だぞ」
ドラーヴが目覚めようとも、二人は意に介さない。ミラカはただ冷静に、拘束の指示を出していた。大男、アランは言われるがままに、空に十字を切る。
「――人とは自由な存在である。我が主に反する者は人でなく、悪魔の類。――故に彼奴らの自由は無く、生きる権利も存在しない――」
男が扱う力は、俗にいう魔術・呪術に近いものだ。科学が発展した今でも、宗教的勢力が残存している理由の一つ。精神を極限まで追い詰め、修行し、研ぎ澄まされた意志の力があってこそ、超常を行使する資格を得る。度重なる鍛錬を重ねたアランの身体からは、うっすらと青い光がにじみ出ていた。
彼の言霊は空間に溶け、指で虚空に描かれた十字が実体化する。二本の交差はそのままドラーヴの身体に貼り付き、即席の拘束具と成った。
「これは絶対に断たねばならない存在ですから、念には念を入れてやりましょう」
ミラカは首にかけていた十字架のネックレスを引きちぎると、自らの頭上に放る。
「我らが主の象徴。聖なる十字は、今こそ魔を滅す武器と化す」
蛍光灯の光を受けて輝く銀のアクセサリーは、呪文と共に巨大化し始めた。
「銀は魔を消すために。杭は心を打つために。原初の吸血鬼を殺すための力は、主の祝福と共にある」
イメージはそのまま形と成り、求める力は結ばれた。人一人分のサイズまで肥大した十字架の下端は、空間を穿ちかねないほど尖っている。
「もう、始めるのか」
大男が、空しそうに零す。
「どうしました」
「いや、ここまであっさり終わってしまうものなのか、と思ってな」
「残念ながら、そう早くは終わりません」
ミラカは右手を挙げ、それを勢いよく振り下ろす。その動きと連動して、十字架が加速して落下した。
落ちていく先、銀の先端は――もちろん、吸血鬼の胸元へ。
柔肌を裂き、肉を容易に破り、耳を穢すような水っぽい音と共に赤が飛散した。
銀色が瞬く間に朱に染まる。部屋の壁にも、床にも、天井にも、もちろんこの場に居る全員にも、鮮やかすぎる血は飛び散った。
杭は見る見るうちに沈み込み、血液はとめどなく溢れだす。凄惨を凝縮した地獄の光景が、二人の手で瞬く間に作られた。
「………………っ」
「おい、これはなんだ…………⁉」
だが、体に付いた化け物の体液を無視してしまうほど、下手人たちは動揺する。
「分かってはいましたが、眼前にすると衝撃的ですね……」
彼らの目の前には子供の身体。まだ生きている、幼女の姿がそこにはあった。拘束の効果により悲鳴は出せない。そこには、ただ痛みと共にかろうじて生きている子供の姿があるだけだ。
「でたらめだ……我らが主の恩恵が、効かぬというのか⁉」
「アラン。貴方はもう少し、原種というものに対しての理解を深めた方が良さそうです」
まだ活動している怪物の体を眺めながら、ミラカは口を開く。
「吸血鬼に限らず、大半の怪異というのは人によって生み出されるものです。村などの閉鎖的な集団での差別がいい例でしょうか。『あなたは違う、あいつは別』そんな意識が、人の力が、ヒトそのものを変えてしまう」
「そして本人の意識もやがて歪んでしまい、怪物が出来上がるのであったか」
「ええ、自らの意識が周囲の思想に同調してしまう――かのヴラド三世のように。『自分は吸血鬼になってしまった』と考えてしまえば、その人はもうおしまいです」
彼らの目に映る吸血鬼の金髪は、すでに赤黒く染まっていた。血は止まることを知らずに広がり続け、ミラカの足を濡らす。
「しかしこれは違う。人々の話の元となった初めの存在です。よって人類からの影響が少なく、弱点を突いた時の効きが薄い」
「ならば、一体どうするのだ」
「やれることは単純で簡単なものです。弱点を重ねて相手が死ぬまで待つ――それしか、私たちにはありません」
冷たく曇った目で、いつか絶命するであろう怪物の肢体を見つめる。
「彼女はいつ死ぬのだ」
「わかりません。ですがこの調子からして、あと数分でしょう」
苦痛に歪む吸血鬼の表情を見て、彼らは何も感じない訳では無い。ミラカは必死に感情を殺すことができたが、アランはそう簡単に心を冷たくすることが出来なかった。
「ミラカよ。せめて、早く殺すことくらいはしてやれないか。我らが主も、それくらいの慈悲なら許してくださるはずだ」
甘えた意識だったのかもしれない。そう思ってもなお、大男はその体躯に見合わぬ繊細さを見せた。
「いいでしょう。予備の十字架もいくつかあることですし」
ミラカは提案に頷き、十字架のアクセサリーを取りだす。
「せめて安らかに。異形のモノよ……」
彼女が装飾品を放る。
銀が煌めいて、周囲の風景を反射した。
ピシャリと、音がした。
全身に暖かい液体が降りかかる。生温くぬめっとしたその感触を、少年は不思議と不快には思わなかった。
断絶し、朦朧とした意識が段々と回復していく。目を開けても、ぼやけた景色が見えるだけ。やらなくてはならないこと、自分が前にやろうとしていたことを漠然と思いだし、彼は身を捩った。
激痛が走る。試しに両腕を動かそうとしても、焼かれるような痛みが肉体を苛んだ。痛みを無視して無理に動作を試みるも、まったく言うことをきかない。
(止めなきゃいけないんだ。速く、絶対に、何をしてでも!)
幸いまだ足は動く。ならば動かさない道理はない。
這うように体を移動させると、数秒後に彼は何かにぶつかった。
「――――」
既に聴覚もほぼイかれている。何を話しているのか、詳細は分からない。上方から高い音がすることから、自身の目の前にあるモノが女性の足だということだけは分かる。
邪魔する。妨害する。阻む。阻止する。
彼の頭の中を、ただ一色がひたすらに塗りつぶす。
思考回路は必要ない。一つのことだけが出来ればよいのだから、考える頭は、ヒトとしての理性は、着々と消えていく。
腕は使えない。両腕はグシャグシャに崩れている。皮は破れ、肉は見え、骨は飛び出ていた。足も使えない。両足をいくら使おうと、視界が鮮明でない今ではそれほどの効果は無い。
ならばどうするのか。
少年の中では、もう答えは出ていた。
(吸血鬼のような牙が無くとも――せめて、あいつらの体を喰いちぎってみせる!)
少年は最後の抵抗として噛みつきを選択し――彼の歯が、ミラカの足に喰いこんだ。 一時の爆発的な感情が少年の身体能力を上げ、僅かながら皮膚を傷つけたのだ。
それは、あってはならない現象。
包丁の刃をものともしない彼らの肌を貫いて、鮮血が傷口から滲みだす。
赤色は少年の口内に流れ込み、舌にその味を伝えた。
鉄の匂いがした。独特の舌触りがあった。静かに嚥下し、体内に取り込んでしまえば――得も言われぬ充実感と、もっと欲しいという欲望が湧いてきた。
つまり少年は、楠柊という人間は――。
血液を美味だと、認識してしまった。
新たな吸血鬼の誕生。
それにより状況が一変する。ミラカとアランの表情が焦りを帯びる。楠柊の肉体が修復される。ドラーヴからは血液が流れ続けている。
少年の視界はあっという間にクリアになった。両腕にはもはや傷一つない。吸血鬼特有の回復力が、彼に負傷を許さなかった。
立ち上がった柊は周囲の状態を一瞥すると、ただ一言吐き捨てる。
「そこをどけ」
ミラカとアランが素早くアクションを起こす。新たな危機に対して対策を打とうとする。ミラカは滞空させていた十字架を操りつつ後方へ下がり、アランが呪文を唱えながら前へ出る。
「我が主の加護をもって、貴公に命ず。十字の威光にひれ伏し――」
「………」
眼前に邪魔なモノなどないというように、アランを無視して少年は動く。視線の先と意識の中にはただ一つ、杭で穿たれた吸血姫だけ。
聖職者たちが行使する神秘には目もくれず、彼は歩を進め続ける。
編まれる奇跡は尊く、魔を滅すべく柊に迫る。銀の十字架は神々しく輝き、尖った先端は少年の肉体を今にも貫こうとしていた。
「神の光は永遠であり、光に照らされる我らの救いも永劫である。ならば汝も、それらを畏れて享受するがいい!」
言霊は呪力を宿して肉体へと還り、アランの身体能力は跳ね上がる。聖性を帯びた彼の拳は、柊の肩に沈み込んだ。
「…………」
打撃は深く沈み込み、骨を軽々と砕き、歪んだ音を奏でる。柊の身体がじゅわりと融け、拳を受けた箇所に紋章が浮かび上がる。
それはいくつかの丸と線で構成された図式。セフィロトの樹と呼ばれる、宗教的象徴だった。生命を模る樹木の文様は、吸血鬼という異形を葬るには最適にして最良。その真価を発揮するため紋章は光り輝き、血みどろの室内を照らす。
「一撃で終わらせてやる。ヒトモドキよ、せめて苦しまずに逝け」
光が図形の中心に収束し、一筋の線が消えたところで圧力から解放された。
吸血鬼に炸裂するのは閃光の爆発。白の絵の具でベタ塗りしたように作られた純白が、少年の細身の体を包み込む。吐き気を催すほどに清らかな色が、魔に対して絶大な効果をもたらすことは想像に難くない。
花火をいくつも点火したような光の奔流が止み、少年の姿が露わになる。
しかし、結果は男の予想に反するものだった。少年の身体には傷跡が多少見られるものの、重症、致命傷の類ではない。そしてその微量の傷も、瞬きする間に回復していた。
楠柊がイメージする吸血鬼は、ドラーヴ・カズィクルのみ。数えるのも馬鹿馬鹿しいほどの吸血鬼との接触と自身の思いによって、彼の体は想像の吸血鬼へと変貌を遂げている。
柊が元々持っていた空想の知識ではなく、ドラーヴという実在する吸血鬼側へと。
故に単一の弱点を突くだけでは彼に効果はなく。複数の要素を重ねなければその命に刃が届くことは無い。
ミラカから繰り出される十字架の刺突すらも無視して、彼はドラーヴに突き刺さった銀の杭を掴み、抜いた。ドラーヴの血が飛び散り、身体に大きく空いた穴がじわじわ塞がり始める。
「そこをどきなさい、少年……いや、化け物め!」
今まで極端な感情を露わさなかったミラカが、ついに畏怖で感情を爆発させた。抱える思いに従って、彼女が操る十字架の射出スピードも上昇する。銀の先端が少年の肩を掠め、太ももに穴を開け、脇腹を吹き飛ばした。
そこまでしても、楠柊は止まらない。やっとたどり着いた吸血姫の体躯を抱きしめ、逃走経路をあからさまに探していた。周囲に敵がいることなど、微塵も気にしていないが如く。
ミラカは窓までの道を阻むように立ち位置を変え、アランは玄関方向へ行かせぬように少年へ迫る。
一方の柊は、挟撃の形に歯噛みした。ドラーヴを抱えながらでは逃走が上手くいかないことに気付いて。柊は仕方なく、一番動きやすい体勢として彼女を背負うことを選ぶ。
背にドラーヴを負ぶって敵を突破しようとする少年の行動を、二人の聖職者が即座に咎める。
木の幹のような巨碗が柊に対して振るわれた。それをすんでのところで回避しても、銀の杭が迷いなく心臓を串刺しにくる。アランの攻撃は柊に向けられているのに比べ、ミラカの術はドラーヴを集中的に狙っていた。
「――――っ!」
柊は全神経を集中させ、ドラーヴの防護に全力を注ぐ。後ろからの攻撃を時には避け、時には自らの体を犠牲にしながら防御を続けた。
血しぶきが舞う。赤色を振りまきながら、楠柊は曲芸じみた動きでこの場を凌ぐ。
切れた筋繊維はすぐさま編まれ、肉が裂けて露出していた真っ白な骨は数秒後には見えなくなった。傷跡は跡形もなく消え去り、少年の顔色は変わることも無い。
命を直接削る攻防を繰り広げながらも、この場に停滞が訪れる。
切っても繋がってしまうという現実。砕いても修復されてしまう現状。周囲にばら撒かれる鮮血だけが、場に刺激を与えていた。
一方、自分を犠牲にすればドラーヴは守れる、という認識を持ってしまった柊も、繰り返しより生じた停滞に嵌っている。アランの攻撃を避け、ミラカがドラーヴへ杭を打ち出せば体を張って防ぐ、というルーチンを思考の中で組み立ててしまったのが彼にとっての失敗だった。
ミラカが瀕死のドラーヴを標的にすることは、絶対ではない。それを少年は気に留めるべきだった。
アランが柊を狙うと同時に、ミラカも方針を変えて柊を狙う。その身で十字架を受け続けていた柊には、杭を避けるという発想が無い。自身の庇う、ドラーヴを狙った攻撃が自らの致命傷になるとはまったく考えていなかった。
(獲った――っ!)
ミラカは十字架を繰りながら心の中で一瞬安堵する。このままいけば、楠柊の胸部に複数の銀の杭が突き刺さることは明白だった。確信できる勝利。死の恐怖から逃れられる喜びが、胸中を埋め尽くす。
だが彼女もまた、停滞の沼に足をとられていた。楠柊を倒して、この戦いを終えられると思っていた。
――しかし、化物は一人とは限らない。
「やらせんぞ、女」
あどけないながらも狂気を孕んだ呟きが、聖職者二人の体を強張らせる。ミラカが急いで声のする方に目を向ければ――いつのまにか、少年に負ぶわれていたドラーヴ・カズィクルがふらりと動き出していた。
目の焦点は明らかに合っていない。足取りもおぼつかない。生気はこれっぽっちも見られないうえ、だらりと両腕が下がっている。
それでもなお、吸血姫の動きは俊敏だった。刹那、ミラカに密着する形でドラーヴは肉薄している。
「柊は妾の眷属じゃ。聖職者もどきに、簡単に殺させるわけなかろう」
ミラカは急いで十字架を引き戻すが、間に合わない。
さくりと軽い音がしたかと思えば、ドラーヴの右手はシスターの脇腹を貫通していた。
「がはっ……⁉」
蒼く輝いていたはずの吸血鬼の双眸は、今や真っ赤に燃えている。瞳の奥には、抑えがたい欲望を湛えていた。本能に従った怪異は、ただのヒトの腹など貫手で簡単に突き破る。
「ミラカ!」
その光景を見てアランが激昂し、柊への攻撃を取り止めて床を蹴った。弾丸の如く飛び出し、小さな吸血鬼を殺すべく腕を振り上げる。
今、ドラーヴは自由に動けない。本調子ではないうえ、右手はミラカの体内を貫通していてどうしても行動がワンテンポ遅れてしまう。
ドラーヴは振り向き、ぼやけた視界に迫る大男を捉えて睨みつける。抵抗できない彼女の精一杯の反抗だった。
迫る拳。怒りによって速さを増したアランの鉄拳が、ドラーヴに向けて振り下ろされようとしていた。絶対に息の根を止めるという気概が、彼の動作一つ一つに込められている。
「我が同胞に手を出すな、化け物ぉ!」
「僕の前で彼女に拳を振るうな、化け物」
その拳を止めに入るのは、吸血姫の眷属。どうあがいても力では勝てないはずの相手に、楠柊は立ちふさがった。
振るわれる右拳を、柊は右の掌で止めようとする。無論少年の手は砕け、見るも無残な姿となった。柊は躊躇なく続けざまに左拳をアランの打撃へ宛がう。左の手もまたひしゃげるが、その頃には右腕が再生していた。
痛覚など、少年はとっくのとうに捨てている。刺激は彼の行動を左右せず、屈強な意志だけが彼の体を動かしている。
さらにぶつけられる柊の右拳。そこまでしてようやく、アランの渾身の一撃が停止する。そして、柊の拳がアランの拳を押し返し始めた。
「なんだと……⁉」
アランは不意を突かれて隙を作りだしてしまう。力では勝っていたはずの少年に、打撃勝負で負けるとは考えていなかったのだ。
「僕はドラーヴ・カズィクルの眷属ですから、あの子の力は僕の力です。あの子が人を貫くほどの力を発揮したのならば、即ち僕も――」
柊は、回復した左手を貫手の形に整えた。指はまっすぐに伸び、爪は艶やかに輝き、腕には力が蓄えられていく。両目は朱く怪しく煌めき、大男を残酷に見つめていた。
そして、押しとどめられた力が一気に解放される。
「こうして、あなたの脇腹ぐらいなら貫くことが出来る」
言うや否や、ズブリと少年の細腕が筋肉質の肉体に沈み込んだ。まるで先ほどのドラーヴのように肉薄して敵の肉体を貫いている。血があふれ出し、柊の腕を伝って床に零れ落ちた。
「くそっ……」
さすがの大男も苦痛を表情に出さざるを得ない。しかしそれでも、この男はただでは終わらなかった。
「よく密着してくれたな、吸血鬼……! 我の覚悟を思い知れ!」
アランは空いていた左腕で柊の左腕を掴むと、力を入れて握りつぶした。従って、細腕が傾き、へし折れ、痙攣し始める。不気味な柊の腕の動きと共に、グチャリと水音がした。その腕が突き刺さっていたアランの腹の中身が、どうなっているかは想像するまでもないだろう。
「我は貴様ら吸血鬼に負けはせぬ! 仲間をここまで傷つけたのだ、ただで死ねるとは思うなよ……!」
アランは決死の覚悟で柊の左腕を掴む。それは、柊がアランに近づく状況を強いられるということだった。聖職者は競り合っていた柊の右拳を払うと、自由になった右腕で少年の心臓を狙う。
「僕は死ねない。彼女を一人に出来ない。ましてや、彼女を付け狙う化け物を放置して息絶えられる訳がない」
自分の心に刻み込むように、相手の意志にぶつけるように、彼は言う。言葉を発しながら左半身に力を込め、そのまま身を捩る。
依然として、アランはがっしりと柊の左腕を掴んでいる。
ならば、起こる事象は一つだけ。
聞くに堪えない異音を奏でながら、吸血鬼は自らの左腕を引きちぎった。そして拘束を逃れた瞬間にアランの貫手を回避し、柊は背後のミラカ目がけ、足に引っ掛けるように回し蹴りを繰り出す。ドラーヴの安全確保のため、ミラカは奇しくも仲間の方へと吹き飛ばされた。
「大丈夫?」
「妾は無傷じゃ……。すまぬの、余計な手間をかけた……」
ドラーヴはふらついて、柊の背中にもたれかかる。
一方、蹴り飛ばされたミラカは呻きながらも立ち上がり、二人の吸血鬼を睨みつけた。
それに応じて、柊とドラーヴも似たような目つきを聖職者たちに向ける。
緊迫感に包まれた空間の中で、誰も動くことが出来ない。時が経つほどにドラーヴの胸の穴が塞がり、柊の左腕が生えていく。
プレッシャーが肥大していく室内で、アランがついに重い調子で口を開いた。
「――ミラカ、撤退するぞ」
「なっ、それでは私たちの悲願が」
「この状況では、確実に勝てるとは限らない。ならば速さで我に勝るお前が、増援を呼ぶべきだ」
敵の会話を、吸血鬼たちは訝しげに聞いている。罠ではないか、フェイントの一種ではないかと、柊はひたすら感覚を尖らせていた。
そして――状況が動き出す。
ミラカは数秒逡巡し、グッと言いたいことを、やりたい行動を飲み込んだ。下唇を強く噛むと、懐から小瓶を取りだして柊たちに投げつける。
「ご武運を。また、会いましょう」
そう端的に言葉を投げ、ミラカはその場から立ち去った。
「ドラーヴ、下がって」
柊は後ろの幼女を下がらせると、透明な瓶を拳で打ち砕いて内容物を飛散させる。透明な雫は柊とアランの両方に降りかかり、互いの肌をシュワリと融かした。それは僅かな侵食であり、物理法則に関係しない結果だった。
現象を目の当たりにして、ドラーヴが唖然としたように零す。
「聖水、じゃと……」
元人間であり、原種の吸血鬼を元として怪異と成った柊に、そんなものだけでは効かない。単体では、効力はあっても皮一枚融かす程度だ。いくら融かされ続けても、持ち前の回復力で補える。しかし問題はそこではなく――。
「あなたは――いえ、今はそんなこと、関係ないですね」
楠柊は、人間は言うべきことを言わずに戦闘体勢を整える。一瞬目を伏せ、再びアランを目視すれば既に心は決まっていた。
「ドラーヴ、追いかけるけどいい?」
「承知した。妾も付いて行こう」
「そのようなこと、我がさせると思ったか?」
二人の眼前に立ちふさがるは巌の如き大男。彼は勇気と信念を伴って、敵に宣言する。
「二人では逃げれぬかもしれん。お主たちが勝つかもしれん。しかし我が壁になれば、彼女はきっと逃げおおせるであろう」
最早、死を覚悟した構えを彼は選ぶ。勝つことでなく、時を稼ぐことを選択する。
「さあ来い。でなければそこの小娘が死ぬぞ?」
「――――――っ!」
単純な言葉が少年の心を燃え上がらせ、火ぶたは切って落とされた。
柊が拳を振るう。アランが受け止める。返しに拳が撃ち込まれる。華奢な体が砕かれる。再生する。もう一度少年が打撃を繰り出す。
一連の流れが超高速で行われていく。砕かれて治り。裂かれて治り。穿たれて治り。折られて治る。
赤い体液が飛び散り、男たちの身体が染まりつつある。
繰り返し、繰り返し、二人は幾度となく暴力を重ね続けた。
柊の細身の肉体は、そのままであればとっくにミンチと化していたであろう。だが治癒力がそれを許さず、彼の精神が負けることを良しとしない。
反対に、アランの身体が削れていく。巨木のような太い腕は枯れ枝の如く。岩石と見紛う拳は小石ほどの大きさの域までに砕かれている。巌のような肉体には、空想世界のチーズのように、深く大きく穴が空いていた。
打撃音が減る。それは、アランの両腕が完璧に破砕された証拠だった。今や、結果は見るに堪えないモノとなっている。
柊は今も治癒が進んでいるが、アランは両腕を失ったうえに胴体の七割を損失していた。立っているのもやっとという化け物相手に、柊は心に湧き上がった感情を贈る。
「残念です、聖職者。別の道も、在ったかもしれないのに」
全力で右腕を振るい、敵の頭部を破壊するべく体重を移動させる。絶好の位置、これ以上ない攻撃方法で柊は敬意を表した。
そうして。
楠柊は、心臓を十字架で穿たれた。
柊の止めより少し前に、遠くで銀色の髪が動いていた。玄関の外、闇で一色に塗りつぶされた夜の中で、シスターは怒りに任せて術を行使する。
「アラン、今のうちに逃げて!」
もはやモノ言わぬ肢体のため、少女は叫ぶ。
いくつかの小さな十字架が輝き、肥大化して加速した。尖った杭の先は仲間の方へと向けられている。
数瞬も経たぬうちに、馬鹿げたほどアランに空いた穴から十字架が飛び出した。
「ドラーヴ、逃げて!」
飛来する十字架は、そのままであれば完璧にドラーヴを貫くはずだった。柊を避け、後ろにいた吸血姫の胸元を穿つ軌跡を描いていた。
身代わりになれば致命傷になると分かっていてもなお、柊は動く。強引に体を捻じ曲げ、関節がぺキリと音を立てても止まらずに、ドラーヴの楯と成った。
グシャリ、グシャリ、グシャリと。
銀の杭が破砕音を伴いながら少年の肉体に突き刺さっていく。音は止まることなく、連続性を有していた。
「地獄に落ちろ! 化け物め!」
左手で右手を支える形で前に出し、十字架を操るミラカ。彼女の心は憤怒の感情に満ち、それを受けて十字架たちはより柊に食い込み始める。
「だい、じょうぶ……? けがは、ない?」
それでも、ここまで絶好の攻撃でも、楠柊は立っていた。幾本もの十字架は一本たりとも吸血姫まで届いていない。それどころか、彼は振り返ってドラーヴの心配までしていた。
「…………なんで」
そんな光景がミラカの瞳に空しく映る。自分が危害を加えられてもなお、他人の心配をするという化け物の行動が突きつけられる。
彼女の心に浮かぶのは疑問。心の底より湧き出てくるのは懐疑。神は正しい、神のために、という言葉は基礎を失って意識の中に揺蕩い始める。人とは何か、何をすれば人なのか。信者であれば人なのか。それ以外は異形なのか。矛盾が彼女の中に積もって、音を立てて崩れていく。
そしてゆっくりと、十字架の莚は振り向いた。振り向いて、頭をつぶし損ねた死体に一撃を加えた。
液体が吹き出し、肉塊が散らばる。かつて人間の一部分であったはずのモノが、ミラカの元へ転がってくる。これ以上ないほど赤い液体は彼女にとって美しく、果てがないほど魅力的であった。――彼は、同胞であったはずなのに。
「あ、あ、あ、ぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
そうして、一人のシスターは発狂した。慟哭し、拳を握りしめ、耐え難い欲求にひたすら耐えるも、結局は赤黒い塊を懐に抱いてどこかへ走り去った。
「あなたも、やっぱりそうか……」
柊はそう微笑んで、バタリと仰向けに倒れる。時間がいくら経過しようとも、彼の傷は塞がっていなかった。特にひどいのは胸部。聖水をかけられた上、銀の十字架を心臓に打ち込まれてしまった彼の体は再生力を失っていた。
「柊、柊!」
倒れ込んだ柊の元へ、ドラーヴは足をもつれさせながら駆け寄る。
「今これを抜いて治療するから、汝はおとなしくしているのじゃぞ!」
銀の十字架を引き抜こうとする小さな手を、柊はパシリと払った。なんで……とドラーヴが抗議する前に、震える右手で自らに突き刺さる異物を触る。
血塗れの指先が銀に触れた瞬間、彼の指は消失していた。消え失せた指先を見て、ドラーヴは絶句する。もちろん、指先は再生など微塵もしていない。この瞬間も十字架が突き刺さった周辺の肉体は融け続けており、楠柊の生存は絶望的に望めなかった。
それでも服の袖をカバーにし、十字架に触ろうとするドラーヴ。だが、工夫もむなしく杭に触ることは叶わなかった。そんな彼女の頤に柊はそっと手を添える。幸せそうに彼は首を横に振り、彼女の目を覗き込んだ。
「何故じゃ! このまま放置していれば、お主は死んでしまうぞ!」
「……いいよ。このまま続けたら、ドラーヴの手がぼろぼろになっちゃうでしょ?」
「そんなこと妾は構わぬ! だから、汝も、生きることを諦めるな……」
大きな朱い瞳から、透明な雫が滴り落ちた。
「ああでも――あんな中途半端に殺されるのはやだな――」
ぼやけてきた視界の中、少年は悔しそうに愚痴る。自分の無力さと吸血鬼の優しさを感じて、どうしようもない気分に襲われた。自分のために涙を流すドラーヴに向かって、彼は微笑みながらこう言う。
「ねぇドラーヴ、一つだけ頼みがあるんだけど……」
「なんじゃ、柊。妾は汝の生を、ここで終わりにはしとうないぞ……」
「僕が死ぬ前に、血を吸って――殺してくれない?」
あくまでも、少年は幸福に満ちた笑みを浮かべていた。誰もが幸せそうだと確信するような表情で、一つの頼みごとをした。
「なぜじゃ、いままでは、すわせてくれなかったではないか……!」
頬を濡らして、呂律も満足に回らないままにドラーヴは問う。
「僕は、今まで君を吸血鬼だと思えなかった。完全には信じられていなかった。だけど今は違うから――」
「はっ、どういう風の吹き回しじゃ。どうして今になって、妾を吸血鬼じゃと、みとめられる……」
「ドラーヴは言ったよね、『柊は妾の眷属だ』――って。あの時に、僕の心の中で何かがはまったんだよ。この子はどうなっても気高い吸血鬼なんだろうなって、納得できたんだ」
形のいい顎に添えられていた柊の手が震え、床にストンと落ちる。
「ああ……もう、力が入らなくなってきちゃった。――ドラーヴ、そこにいるよね?」
「いるぞ。妾は汝の傍にいる。離れなど、するものか」
「ああ、それなら安心だ。速く、おねがい……」
小さな女の子は言葉の続きを待った。でも、なんの響きも返ってはこなかった。そしてドラーヴ・カズィクルは瞳に宿した涙を手で拭い、少年の体を抱きしめた。
「この、ばかものめ」
少年の首元にそっとキスをして、それから牙を突き立てる。白い皮膚を突き破ると、たちまち赤い液体が溢れだした。吸血鬼はまだほんのりと暖かい血液を啜って、舌の上で転がすように味わい続ける。
「なんじゃ……。思ったよりも、まずいではないか……」
想像よりも塩辛い味を噛みしめて、彼女は静かに俯いた。