藪の中
健さんは早々に仕事に行ってしまった。事の真相を語る事なく。なんて冷酷なのだろうか。
(やめとけ、彼女は)
健さんの言葉が頭の中を今も駆け巡る。何故だ、何故なんだ。やっぱり彼女は龍司さんの特殊関係人なのだろうか。あるいは健さんの方か?
嫉妬と猜疑心が僕の中で蠢き続ける。
(あー、せっかく再会できたと言うのに、何だろうこの消化不良のようなむかむかは?)
そう、せっかく再会できたのに。
緩く巻いた髪に碧い瞳。そうだ、彼女は碧眼のビーナスのようだった。あの碧い瞳でじっと見つめられたら、どんな男だってハートを一発で撃ち抜かれるに決まっているじゃないか。
いや、いつまでもそんな事で悩んでいる場合じゃない。龍司さんから頼まれた仕事が僕にはあるのだから。
まるで生煮えの米だ、まだ堅いじゃがいもだ、生焼けの肉だ! これじゃカレーライスになんかなりゃしないじゃないか!
きっと僕は熱があるんだ。そうに決まっている。もっと室温を下げなきゃ。
(切り替えろ翔平、切り替えろ!カレーライスなんか忘れてしまえ!)
焦げ臭い。なんか焦げ臭い。あっ、やってしまった。
ライスを仕込むのは僕の役目だ。カレーやデミグラスソースはまだまだ作れないから、日本人の僕の役割は炊飯なのだ。
それなのに。また圧力鍋のサインを見逃してしまった。もう一度やり直しだ。もし龍司さんに叱られたら、こっちにも考えがある。そう。直接彼女の事を問いただしてやる。
だから焦げ臭いままのライスは皿に盛ってそのままにしておこう。
炊飯と片ずけが一段落すると、僕はお気に入りのテーブルに座った。ノートパソコンを立ち上げる。本当はもっと軽いデバイスを手に入れたいけれど、学生の身ではなかなか簡単にはいかない。それに使い慣れたパソコンに愛着もある。
繋げたのはもちろん「キラリ」のブログだ。どうやらまだ閉鎖はされていない。もっとも今は閉鎖する人もいないと誰もが思っていることだろう。
コメント欄はかなりの数になっている。どのコメントも最後は悲しみに満ちたお別れの言葉で結ばれている。一時は社会現象にまでなった人気ブロガーなのだ。当然の反応だろう。
(おや?)
僕は一つのコメントに目を留めた。
ハンドルネーム「キラリの騎士」はコメント書き込みの常連だ。ほとんどのブログにコメントをしている。
だけど今回は随分と遅い反応だ。過去の書き込みを見る限り、キラリの騎士は一番に書き込みをしていたはずだ。夜中でも早朝でも、コメントは一番乗りだった。
少し違和感を感じながらも、僕はコメントを探し続けた。逮捕された犯人のハンドルネームは「キラリスト」だ。その名は世間への影響を懸念し警察からは公表されていない。
このブログは、コメントを書き込むために自分もアカウントを取得することが必須条件になっている。だがこいつはプロフィールは作成してはいるものの、自分から発信するブログは何も書いてはいない。つまりブログから人物像を想像することは困難ということだ。まあそこは警察の領域だろう。
僕は他のコメントの様子をつぶさに観察していった。そこから何が浮かび上がるか、今はまだわからないが。
(この書き込みはスマホからだ。他のコメントはパソコンからなのに、その日に限りスマホだなんて妙だな)
だが単なる偶然の産物かも知れない。ここから先もまた藪の中だ。