突然の出会い
僕は必死に走った。僅か半ブロックほどの距離が少しも縮まらないことに焦りを覚えつつ、人の流れに逆らうように走った。
(彼女は少しも走っていないのに、何故追いつけないんだ!)
僕の名は城田翔平、今年で二十一歳になる学生だ。確かに僕はスポーツが得意な方ではない。最後に運動らしい運動をしていたのは中学生の頃だった。今の大学へ入って、研究に没頭してばかりいたことは認める。けれど家でゲームばかりをしていた高校時代を呪ってしまいたい気分になったのは初めてのことだ。
(待ってくれ!)
心の中で何度も繰り返す。彼女はホテルニューグランドの角を曲がった。僕は思わず数えていた。
(1、2、3、4、5、6……)
ようやく僕も同じ角を曲がった……えっ?
だけど彼女の姿はもう消えていた。こんな僅かな時間しかなかったのに。僕は思わず天を仰いだ。
赤いミモレ丈のワンピースを纏った天使は、もときた大空へと帰って行ってしまったというのか。いや、そんな馬鹿なことがあるものか。愚鈍な僕が彼女を見失ってしまっただけのことだ。きっと隣のブロックのスターホテルの手前を左右どちらかに曲がっただけだ。もしかしたらまだ見つけられるかも知れない。僕は自分自身を奮い立たせ、スターホテルの手前の十字路に佇み左右の路地に視線を走らせた。
(いない……)
僕の胸の中に絶望的な気分が広がる。ほんの数分前に見かけた女性を、ただ見失っただけだというのに、このとてつもない喪失感は何なのか。突然の風になびいた真っ赤なスカートの裾、明るい茶色の髪は六月の日差しを跳ね返すように煌めき、憂いを帯びたブルーの瞳は僕の胸を深く貫いた。僕はもう死への恐怖さえも感じなくなったのだろうか。山下公園の方向から来た車のクラクションに気付くまでにかなりの時間がかかってしまったようだ。
「馬鹿野郎! 死にたいのか!」
車道から罵声を浴びせられても、振り返る気にさえなれなかった。
僕はいつの間にかスターホテルの前を過ぎ、色とりどりのステンドグラスがはめ込まれた店の前で立ち止まった。黄色と水色のガラスの向こうにその影を見つけたのだ。間違いない、彼女はこの店の中にいる。
(ル・ジタン……? カフェか、あるいは一昔前のレストランだろうか)
その店の佇まいは昭和と言うよりも、それ以前の時代を思い起こさせる。確かホテルニューグランドは大正十二年に起きた関東大震災の後、昭和二年に建てられた歴史的価値の高いホテルだ。その建築様式はむろん大正ロマンと呼ばれる独特の様式美を色濃く残している。
(そうだ、確か山下公園は大震災の瓦礫で埋め立てられた場所に造られたんだった)
僕は僅かな知識と、この土地に生まれたという程度の意識しか持ち合わせてはいなかった。でも改めてその素晴らしさに気付くことが出来たのは、彼女との出会いのおかげかも知れない。
(入ってみよう)
僕の中の何かが強く求めてくるのは一体なぜだろうか。僕はその答えを知りたかった。
そして僕はル・ジタンの緑青の散る銅製の取っ手に手を掛けた。
(続く)