表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

毒の魚

作者: 沢まやこ

 ハッと目を覚ますと天井があった。薄暗い影に覆われた天井が。瞳は丸みを帯びたまま揺れ続ける。まるで月を映す海のように。ぼやけた意識が徐々に鮮明なものになっていき、脳は記憶を掘り出していった。濁流のような勢いで、先程までの記憶が溢れ出す。

締め切られたカーテン。隙間から溢れる朝の気配。鼻腔を侵す饐えた匂い。生ぬるい空気。ねばつく肌。終焉の幕を落とすように、瞼はゆっくりと降りていった。急速に頭が重くなり、世界が色を失っていく。夢の尾ひれはまだ頭の中で揺れていた。頭の中にゆらゆらと虹色を落としていく。まるで水に絵の具を溶かすように、夢の気配は濃くなっては薄れた。あまりに鮮明な夢だった。僕がこの僕であることを忘れるほど、この世界を忘れてしまうほど。

僕は… …


 気が付くと僕は廊下にいたのだ。その様子からここは中学校の三階廊下なのだと分

かる。身に付けている夏服は垢抜けないデザインで、しっかりと僕の身に馴染んでい

た。少し硬い生地で出来た白いカッターシャツも、飾り気のない茶色いベルトも、た

だ履いただけの黒いスラックスも。服に散りばめられた薄い汚れも。僕の身に自然に

寄り添っている。視界を埋める廊下は人影がなくクッキリと明るい。強い光に当てら

れた大型の備品は背後に影を作り、照り返しの中に濃い黒を置いていた。光は隅々ま

で広がり、所々で影と重なり合い。濃色2つの交わりは一つの模様になっている。光

の元へ目を向けると突き刺すような痛みに襲われた。ジワッとした痛みが眼球に張り

付く。いつの間にかきつく合わさった瞼には、暴力的な白い発光が焼きついたように

残っていた。ゆっくり目を開けると、鮮明な視界に濃い青天があった。その中に浮か

ぶ窓の反射が『お前は外と隔てられているのだ』と小さく知らせる。小さな穴から侵

水するように、青色は瞳に染み込んでいった。ジワリと涙が膜を作り、目が優しい潤

いに包まれる。ふっと立ち上る運動場の記憶。大きな太陽と焦がすように照りつける

日の光。サラサラに乾いた土。手の皺に入り込んだ茶色い砂。鼻腔に届く土の湿った

香り。きっと窓の外は夏だ。目を細めながら夏の気配に身を浸す。窓の端では木の葉

が風に揺られ、光の当たる箇所を気まぐれに変えていた。濃い緑となったり、淡い緑

となったり、あでやかな色味を宙に散らし続けていた。


 ゆっくりと視線を前に向ける。それにしても妙だった。校舎はあまりにも静かだっ

た。何に妨げられることなく伸びる廊下は、ただ光を反射するだけだ。床の木目をク

ッキリ強調し、マス目の黒い筋を光の中に浮かび上がらせている。突き当たりにある

理科室はたくさんの用具を備えながら、じっと押し黙っていた。白い壁に埋め込まれ

た扉は、教室の萎びた空気に蓋をしていた。天井に取り付けられた黒いスピーカーは

もう何年も使われていないかのように、その機能を停止していた。スピーカーの奥か

ら覗いている「廊下は走らない」と書かれた看板は、僕に奇妙な感覚を与えた。まる

で昼間に深夜番組の再放送を見るかのような、そんな感覚を。下の階に耳を澄ませて

も、教室を覗いてみても、そこに人の気配は感じられない。それどころか車のエンジ

ン音も、ヘリコプターの音も、蝉の声も、工場の作業音も何一つとして僕の耳には届

かなかった。まるで世界は呼吸を止めてしまったかのようだ。湧き出た不気味さは、

昼中の太陽が殺してくれたようだ。代わりに現れた奇妙な空気が、一つの大きな膜に

なり、僕を呑み込んでいた。ふと少し先にある洗面所に目を留めた。干からびたシン

クの鈍い光。なんとなくそれが気にかかる。弱くも強くもない力で心の片端を掴まれ

引っ張られた気がした。懐かしい思い出に触れるように、僕は水道の蛇口に触れた。

真ん中についていた青い丸が、張り付いたように目の中に残っていた。ひんやりとし

た感触は、温まった手の平に心地よい。手裏剣を溶かしたような形のそれにグッと体

重を掛けると、奥に潜んでいた水がボタボタッと雪崩落ちた。乾いたシンクに出来た

小さい透明な盛り上がり。蛇口の先端には、まだ水の雫が揺れていた。それがゆらゆ

らと不安定に大きくなり、一つの大きな玉になったかと思うと、蛇口から千切れ落ち

てしまう。ボチョンという音と共にシンクには新たな水たまりができた。少しの規則

性もなく点在するそれは、水の残骸のようでもあった。一連の光景を眺めていると、

新たな感覚が僕の中で生まれた。湿り気を帯びた冷たい手で、頭の中にペタリと触れ

られたかのような。そんな感覚だ。その冷たい手は自然に何の感情もなく僕に触れる。

だから僕はただ、その感覚を覚えるだけだ。スッと何かが冷めるように、僕の心は小

さく変化した。僕は蛇口から手を離す。湿った手の平は名残惜しそうにペタッという

音を立てた。冷たいような感覚が手のひらを襲い、すぐにそれは鈍痛となる。頭の奥

で痛いと呟きながら身体の向きを変えた。廊下は相変わらず明るく、人気がない。目

から光が失われていくのが分かった。代わりに頭がエンジンを掛けたように急速に回

転し始める。何故だろう。ただ明るいとしか思わなかった日の光を、虚しいと感じる。

今日の校舎は寂しい気がするのだ。肌に触れる空気は夜の水脈のように澄んでいて、

ふと気づけば鼻孔には静寂しじまの匂いが届いているのだ。


 タンタンと空洞のような階段を降りて。あまりにも静かな水のしたたりを聞いて。

コンクリートの僅かに湿った表面に触れて。錆びた手すりの匂いを鼻腔に含ませて。

校舎の体に、僕はじっくりと触れていった。階段を一つ降りるたびに、身を膨らませ

る静寂。それは無遠慮に僕の肩に乗っかり、重圧をかけた。カラカラに乾いて重い沈

黙が、表皮をすり抜けて心にまで浸透していく。胸の奥に冷たいもの触れた気がして

足を止めた。校舎は息を止めていた。どこもかしこも口を固く閉ざしていた。ただ上

から降り注ぐ太陽の光だけが、明るい音を奏でている。その音は鼓膜を震わせなかっ

たが、耳を澄ませば囁くような演奏が耳の奥で聞こえる気がした。上を見上げれば、

光の中を埃が舞っていた。光の衣を着て、体が煌めいている。この空間に充満するそ

の微小物は、深海を漂う藻屑のようだ。何の力も受けていないかのように、ゆっくり

ゆっくり動く。いつの間にか僕は緩やかな澱みの中にはまっていた。意識は心地良く

薄れている。自分は普段いる場所から、零れ落ちてしまったような気がした。どこか

違う次元に入り込んで、そのまま取り残されているのだ。


 気がつくと一階に着いていた。冷たい沈黙が満ちている廊下に、足を踏み出す。右

手に向かって進むと『1-1』と書かれた札が真っ先に目に入った。機械的なデザイ

ンの数字を見て気付く。僕は1-1の教室に向かっていたのだと。慣習化された行動

のように、それは無意識で行われていた。


 1-1の扉は空いていた。中は薄暗く、普段は整頓されている机が乱雑に散らばっ

ている。空いている扉に手を掛けると、水気を含んだ風が僕の顔を撫でた。窓が開い

ているのだ。吹き込む風に揺られ、白いカーテンが大きくはためいている。躊躇する

ように足を前に出すと、今度は強く吹き付けた風が僕の体にぶつかった。思わず顔を

横に向け、目を細めた。小さくなった視界を確認した瞬間、体が跳ねる。一呼吸置い

て、心拍数が跳ね上がった。端っこの影がかかったような、グラデーションの濃い所

に少女がいたのだ。斜めに置かれ、他から孤立した机に腰を掛け、こちらをじっと見

ている。肩に届かない黒髪が風に流され、チラリチラリと黒い毛束を散らしていた。

少女は一回大きく瞬きをし、軽い動作で机から降りた。セーラー服の裾がチラリと揺

れる。床と合わさっている彼女の足は裸足で、一歩歩くたびにペタリという音がした。

彼女はどんどん僕のほうへ近づいてくる。だんだんと鮮明になってゆく顔のパーツを

繋げると、七瀬ちゃんの顔になった。ややつり気味の丸くて大きな目と、意思の強そ

うな黒い瞳。清潔な印象の鼻。何も塗られていない唇には、笑みが浮かんでいた。彼

女は僕と30cmの隙間を残して足を止めた。クルンとした瞳が僕を見上げている。連

られて目が丸くなるのが分かった。火照るような感情、くすぐったいような感情、泡

立った感情。いろんな感情が水底から湧き出る泡のように溢れた。僕の唇は微かに開

閉を繰り返し、そのまま動かなくなる。何を言えばいいのか、と戸惑っていた。


「もう、遅いよたけちゃん。早く体育館行こうよ! 私、早く泳ぎたいな」

 

 彼女は落ち着いた声でそう言った。先程まであんなに、からまり解れを繰り返して

いた感情が、しぼむように収束する。やや低めの、風のようにサラリとした声

が耳に残った。耳にかけられた彼女の黒髪は艷やかに光っており、分け目からひょっ

こり覗く額は、ツルンとして可愛かった。瞼は少し押し上げられ、黒い睫毛がクルリ

と上を向いている。丸い瞳は大きな光の玉を浮かばせ、細部の構造が確認できるほど

澄んでいた。僕は彼女を目視しながら、頭の中で言葉の意味を反芻していた。ふざけ

た様子のない彼女の姿に、僕は動揺を隠せなかった。まず、体育館と泳ぐのワードは

一致しない。そして、僕は彼女に喋ったことを覚えていない。頭の中には三階から始

まった記憶が、切り取られたようにコロンとあった。それ以外の記憶はない。それよ

り前のことを思い出そうとしても、皺一つ分の手がかりも残されてはいなかった。押

し黙る僕を、彼女は一直線に見続ける。まるで何もかも見透かそうとするかのように。

僕はおそるおそる言葉を口にした。


「え、えと。僕、何にも覚えてなくて… …。記憶が真っ白なんだ。

 それより、泳ぐ… …って? 体育館では泳げないでしょ? 」


 僕の声が空気を震わすたび、彼女の表情は懐疑に染められていった。


「その冗談、わけわかんないよ。もしかして私と泳ぐの嫌だからごまかそうとしてる?

 体育館は水がいっぱいだから泳ごって言ったの、たけちゃんなのに」


 何処か不満げな、ふてくされたような表情をする七瀬ちゃんを傍目に、僕の混乱は

深まった。彼女の表情が心の端を焦がすのだが、波打ち出した感情に揉み消された。

『体育館は水がいっぱい』とは。水が溢れているということは、洪水でも起こったの

だろうか。校舎に人がいないのは、そのせいなのか。もしかして、みんな死んでしま

ったのだろうか?胸の膜に小さな穴が開き、不安が溢れ出た。穴を広げ、不気味な程

の鈍足で頭を浸していく黒い水。再び真っ白な記憶を復元しようとしたが、出来なか

った。その記憶は脳の奥深くに埋められているようで、手を伸ばしても届かない。そ

れでも手を伸ばすと、締め付けられるように頭が痛んだ。同時に心も掻き乱される。

 情けない顔をしているであろう僕を、七瀬ちゃんは不可解そうに見ている。混沌と

した思いに襲われながら、僕は口を開いた。


「水が溢れてるって、洪水でも起こったの?だからこんなに人がいないの?」


 七瀬ちゃんはますます懐疑の表情を深めた。何か言いたげに口を開いたが、ふと素

の表情に戻る。その機械的でもある移り変わりは、僕の脳に深い刻みを入れた。パッ

と冴えた意識が彼女の晒す顔を捉える。その顔はあまりにも無防備だ。満月のような

瞳はあどけなく、小さく開けられた口は幼子のように飾り気がない。思いがけず心が

沸き立った。


「もしかして、世界が滅亡したの忘れた?」


 彼女の言葉は硬い固形物となって、僕の額にぶつかった。まるで何者かに殴られた

かのような錯覚を受ける。先程まであんなに冴えていた意識は、風に揺られた蝋燭の

ように、一瞬消えそうなほど薄弱とした。締まった喉から「え」と情けない声が押し

出されたが、彼女の紡ぐ言葉に乗せられて彼方へと流れた。


「そっか。記憶がないってふざけてたわけじゃなかったんだね。

 たけちゃん実は洪水がショックだったんだよ。だから忘れちゃったんだ。

 それなのに説明することもないけどさ、一応話しとくね。

 つい一ヶ月くらい前かな?

 滝のような雨がザーッと降り出して、何日も何日も止まらなくて。

 川が溢れて、海も溢れて。ほんと凄かったよ。

 それで、何もかも水没したの。つい一週間くらい前にね」


 そこで彼女は口を閉じた。僕を見上げる彼女の瞳。少し上向きになった瞳が瞼を押し

上げ、二重の幅を縮めている。じっと据えて動かない瞳には、気泡のような薄い光が張

り付いていた。彼女は音もなく窓の方へ体を傾ける。右手をしなやかに伸ばしていき、

その動きは指先にまで伝播した。一直線に引き伸ばされた所で腕はピタリと止まり、突

起のような人差し指は真っ直ぐに窓の外を指していた。彼女の肌色がぼやけ、窓際で揺

れるカーテンに焦点が合う。白い生地を波打たせるカーテンは、日の光に当てられ輝い

ていた。カーテンを掻き分けて床に落ちる光は、薄暗さの中で映える。


「今だって、ホラ」


 彼女の手が強い光に当てられ、まばゆく光っている。背後ではカーテンが光を

照り返しながら不穏にはためきだした。バタバタと風を煽る音がする。少女が走ってド

レスの裾を揺らすように、大きく弧を描き、踊るように激しく宙を舞う白い布。その翻

り方で光と影の具合が著しく変化する。教室に光が差し込んだかと思えば、身を翻した

カーテンに包まれてしまう。それを繰り返していた。逆光に当てられた彼女の顔は、不

思議な感じがした。満月のようにまん丸な目と、いたずらな微笑み。それは感情を反映

しているはずなのに、彼女の心は別にある気がした。彼女が指したほうへ、吸い寄せら

れるように身体が動いた。前のめりになりながら、不安定な足音を立て、倒れ掛かるよ

うに窓枠にしがみついた。舞台を隠すかのようなカーテンを前にし、不思議な心境だっ

た。混乱も興奮もせず、頭は冴え渡っている。心臓は力強い鼓動を奏でていた。耳の奥

からそれが聞こえてくる。強く吹き付けた風がカーテンにぶつかり、僕のほうへと向か

ってくる。顔に密着したカーテンは冷たかった。粗い生地が肌を擦り、そのまま横に流

れていく。チカリと寸分の光が目に差込み、視界が開けた。乱暴に注ぎ込まれた光で、

瞳孔が収縮する。世界の色が僕の瞳に映り込む。僕は世界の全容をしっかりと認識した。

世界は滅亡していた。その体を水に浸していた。水面は、まるで生き物のようにキラキ

ラと光っている。時折走っていくすばしっこい反射光は、捉えることのできない複雑な

動きを見せる。近くにあった家々は、人間が住んでいた頃の形を残したまま。けれど今

は退廃的な空気を匂わせ、水に体を浸らせている。木も信号も電柱も車もコンビニも駅

も、何もかもがそのままあった。しかし、そこには誰もいない。空には小鳥がいないし

家には人間がいない。保育所には子供がいないし、庭には犬がいない。小高い丘にある

学校からは全てが見えた。窓から頭を出すと、丘の下に作られた駐車場が見えた。水の

奥で呼吸を止めている、黒いコンクリートと白い線で引かれたマーク。コンクリートに

は水面の反射が反映していた。地下水のように綺麗な水だと思う。僕の鼻腔に水の匂い

が届いた。湿って澄んだ、少し鼻の奥に染みる匂い。ドブ川の水でもない、水道の水で

もない、これは夜明け前の水脈の匂いだった。町は月の夢を見ながら眠り続けているの

だ。何もかもが死に絶え、退廃的な様子であるこの町は、それでも呼吸をしているよう

だった。息を潜めるように静かに。まるで昼中に立つ山奥の廃墟のように。この町から

描きだされるのは薄灰色や荒れ果てた緑だった。けれど、その破滅的な色は確かに美し

かった。


 乗り出していた上半身を少し後ろに引く。心臓は大きく波打っていた。耳に熱い鼓動

を感じながら、両親に友達に再び思いを馳せる。もう死んでしまったのか、何処かに避

難しているのかと思いが巡り、覚えのあるザワつきが蘇る。つっかえながらゴクリと唾

を飲んだ。ふと胸に点のような熱があることに気づく。瞬く間に、それは辺りに伝導し

ていった。瞼が持ち上がる。瞳は神聖な輝きを持ってこの世界を捉えた。胸の奥から何

かがが沸き立つ。

 この荒廃した世界は灰色に包まれていて、虚しい明るさに照らされていて、まるで廃

都市のようだ。けれど僕等を遊園地のように出迎えてくれた。先程まであった恐怖、不

安は綺麗になくなっていた。


 クルリと後ろを振り向くと、彼女もまた目をらんらんと光らせていた。弾けるように

出た笑顔と共に、彼女の手を掴んだ。何に構うことなく全速力で走った。校内に二人の

笑い声が響く。ペタペタペタと無邪気な足音が、廊下を縦横無尽に走っていく。幾度も

幾度も、嗅ぎ覚えのある水の匂いが鼻孔に触れた。体育館の大きな扉が眼前に迫ると、

二人ではしゃぎながら飛びついた。立ち込める水の気配を感じながら、僕たちは大きな

取っ手に手をかける。ギッという音がして、わずかな隙間が空く。そこから濃密な水脈

の香りが溢れ出た。そのあとを優しく追いかける、湿り気を帯びた水の気配。それらを

肌で感じる。

 七瀬ちゃんは「ねえ」と声をかけ、僕を自分のほうへ向かせた。彼女の顔は満面の笑

みに包まれている。人懐こく細まった目。睫毛の間にたくさんの光が溜まっていた。


「私たけちゃんのこと大好きだよ」

 彼女はそう言って、小さく笑い声を漏らした。矢継ぎ早に言葉を繋ぐ。

「水に潜って遊ぶよね?あの一輪車置き場の隅にさ、ゴーグル落ちてるの知ってる?!あんなの汚くて誰も使わないけど、今日は使っちゃおう!だって誰も見てないし」

 『僕も大好き』出かけた言葉は、再び喉奥に降りていった。

「… …うん! せっかく何にもないんだもん、いっぱい遊ぼ! 

それでさ、夕方んなったら外出て、夕日見ようよ。絶対綺麗だから!」

 僕は笑った。唇に自分の歯が当たるのを感じた。

僕は… …


 目が覚めても、唇に歯が触れていた感覚があった。そっと人差し指で唇を撫でる。カリ

カリと半ば引っ掻くように唇に触れながら、七瀬ちゃんが好きだったと零すように思い出

した。巡る思いと共に、のぼせたような感覚が引いていき、現実がそこに立っていた。ス

トンと胸の奥で何かが落ちる。風が吹き抜けていくこの感じは、喪失感というのだった。

僕が座る硬い敷布団。白いシーツに落ちた食べカスが嫌悪感を煽る。締め切ったカーテン

から漏れる朝の気配。だらしなく微温い空気。地を這うような澱みは僕の身体にへばりつ

く。必要の無い物ばかりが散らばった床。窓やタンスのでっぱりにひっかけられた生乾き

の洗濯物。枕横に置かれた食べ残しのカップメン。透明がかった茶色い汁は、端が固形化

している。油分であろう白い膜に覆われ、表面は歪に乾いていた。

 目が虚ろになっていくのが分かった。下のほうから、普段僕を支配している焦りと惰性

と不快感とが湧いてくる。両手を顔に近づけた。指先が額に当たり、ゴツッとした感触を

感じる。肌に密着した手のひらは固く、乾いていた。時間を置いて伝わる微妙な温もりが

生きていることを生々しく伝えていた。午後からあるレジ打ちの仕事を思い出すと、不快

感と嫌悪感でいっぱいになった。小学生が駄々をこねるみたいに、癇癪を起こすみたいに

『行きたくない』と心の底から思う。どれだけ感情を荒ぶらせても、行かなければならな

いことに変わりはない。月に何回も休んだらクビにされてしまう。やっと就けた、自分で

も続けられる仕事なのだ。もう食事にすら困る生活はしたくない。そこまで考えて人の都合ではなく自分の都合で考えていることに気づき、激しい嫌悪を感じた。そっと目を瞑り暗闇に

浸る。膨らんでいく空白の時間。5分程経ってから、顔に付いた手の平を剥がした。枕横

のカップメンを掴み立ち上がる。排水口を塞ぐネットに腐った汁を流しながら『朝ごはん

は何にしようか』と考えた。昨日牛乳を買っていたことを思い出し、コーンフレークを食

べることにした。シンクの横、水切りの籠に積み上げられた食器に手を伸ばす。頭の中は

空白だ。先程の事柄から思考が途切れたまま、繋がってくれない。僕にはもう、考える事

柄などないのだ。大事にしなければならない物は、全て過去に置いてきた。とても後悔し

ている。けれど、それでもまだ、それが何故大切なのか分からなかった。冷蔵庫を開ける

と、粘った音と共に冷気が溢れ出し、僕の肌にまとわりついた。夢の最後の一滴が水面に

落ちる。淡い夢の気配が、僕の頭を撫でた。七瀬ちゃんの笑顔。誰もいない水没都市。遊

ぶ約束。興奮と期待と。得も言われぬ、夏の始まりのような気持ち。瞳に涙が浮かぶ。叫

びだしそうな心を、どう抱きしめてやったらいいのか。僕にはもう分からなかった。


水没都市の写真を見て、書き起こしたものです。この話を考え出したのは

丁度去年の夏でした。初めは「こんな雰囲気の話を描きたいな」くらいの思いだったのですが、つい一週間ほど前プロットを書き上げ、今日小説として完成しました。完成するまでの期間が長かったので「どんな雰囲気で書きたかったんだっけ… …」とキーボードを打つ手が止まることも度々ありました。最初は夢の情景を詳しく、普通の小説と同じように書いていたのですが、途中から書き方を改めました。小説本文と同じくらい、削ったところがたくさんあります笑。前半は、少し淡々とした不思議な雰囲気を。後半はワクワクとした、無邪気にはしゃいでいる様子を。そして最後は男のどうしようもなさを、感じ取って頂けたら幸いです。稚拙な小説を読んでくださり、ありがとうございました。良かったら感想を書いていってください。評価もして頂けると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ