憂鬱
頬づえをつきながらシャープペンシルのせわしなく走るかすかな音を聞く。さほど広くない教室の黒板には、なにも書かれていない。退屈そうな先生がひとり、眠たげな目で教卓の横に座っている。
テストのときにだけ座る窓際の席。
ペンを持つ手は、暇を持て余してくるくると直線的なフォルムのシャーペンを回している。
空白のない答案用紙。
心のすみに生まれたまま去ろうとしない、どんよりした恐怖から目をそむけられたのも、白いページを埋めるわずかな間だけだった。何度読みなおしても変わることのない命令調の問題文。書き直しを重ねて美しくなった自分の名前。
せめて白谷結衣、という漢字がもうすこし面倒な、時間のかかる名前だったらよかったのに。
そうすればペンを動かしている間だけでも自分自身から逃げられる。このうっ屈とした、春の空に似つかない不安から逃れるにはどうしたらいいのだろう。
黄ばんだ壁にかけられた時計を見る。
息をひそめひっそりと秒針を進めていく作業がもどかしい。いらない時間はたくさんあるのに、本当に必要なときはいつだって足りない。
つまらない文字に染められた歴史のテスト。
紙飛行機にして、開け放たれた窓から春の空に放ってやることができたらどんなに楽しいだろう。それができないなら、あのときのようにビリビリに破いて、桜吹雪に乗せて見失うことができたらどんなに清々することだろう。
ふと、閉め切った窓ガラスに手を添えてみたくなった。
ほんのりと冷たい感触。まだ冬の寒さが残ってる。
1年A組の教室から見下ろせるグラウンドのまわりに裸の桜並木がある。つぼみをまとっただけの桜は寒々しげに太陽を見上げているようだった。結衣が息を吐くと、冷たい窓ガラスが白く彩られる。
後ろから聞こえていたペンの音がやんだ。
住田くんだ、と思う。勉強が苦手だった住田くん。先生あての脅迫状を送りつけようとして、間違って瞳の鞄に手紙を入れてしまった事件を、どのくらいの人が覚えているだろう。
あれから住田くんは懸命に図書室に通って勉強を教えてもらったらしい。そこでちゃっかり勉強を教えてくれていた女の子と恋仲になって、いまはなかよく登下校するふたりの姿をよく見かける。
そのニュースは住田くん本人から聞かされた。
はにかみながら付き合うことになったんだと報告してくれた住田くん。結衣は素直にそれを祝福した。ちょっとからかったりもしたけど、誰かが幸せになった光景に出合えるのは妬ましいことじゃない。
ペンを回す。
あまり上手にはできないから一回転させるくらいしか出来ないけど。機械的な動きを見てるとなにかを忘れられそうな気がする。自分まで心が空っぽの機械になったように錯覚できるからかもしれない。
カタリ、とペンが机の上に落下した。
それを拾い上げる気にもなれず、澄みきった空をながめる。
雲ひとつない晴れ空だというのにどこか冷たい雰囲気をまとっている。まだ寒い。
時計に視線をやる。
さっきからまだ数分しか経過してない。いつまでも二の足を踏んでばかりの時計は、未来を示してくれはしない。
「先輩……」
どうして誰も気がつかないんだろう。探偵同好会がなくなってしまったことに。わたしの居場所が消えてしまったことに。
成績なんてどうでもいいやと臨んだ最後の期末テストのわりに点数は悪くなかった。結局、悩んでいるふりをしてるだけなのかもしれないなんて思う。
悩んでるんじゃない。
怖いんだ。
内側から自分の体が透きとおっていくような感覚。
勢いをつけすぎたブランコが地面に向かって落ちていくような感覚が全身をおおう。
放課後を告げるチャイムが鳴って。
みんな部活に行くか、どこかに遊びに行こうかなんて相談をしながら教室から消えていく。
部室があんなことになってから、部室にはおろか旧校舎にも近づかないようにしている。受験が終わった3年生たちは学校にきていないので、きっと誰も立ち寄ってはいないんだろう。
神崎も咲も事件を解決したような気配はないし、仲直りをするようなこともないだろう。
ひょっとしたらずっとこのままなのかもしれない。
探偵同好会さえあれば、どんな事件でも解決できると思っていたけどその探偵同好会がなくなってしまったのではどうしようもない。
賑やかなのにどこか遠い廊下を、昇降口に向かって進む。
部活に出る勇気は出ない。
現実を事実として受け入れてしまいそうで怖かったから。
「あ……」
肩幅の広い背中を見つけて、結衣は小さな声を漏らした。神崎が鞄を揺らしながら歩いている。けれどもその方向は部室ではなく、校門のほうだった。
追いかけようかと一瞬迷う。
「神崎先輩!」
「ん、よお」
にこやかな神崎の表情からは、まるで何事もなかったかのような安心感が感じられる。でも、それは同時になにも気が付いていないことにもなるんだろう。
「悪いね、最近顔出さなくて。会長たち怒ってた?」
「いえ――あの、それが」
「いいづらいなら言わなくてもいいよ。どっちにしろ事件を解決するまでは戻れないだろうし。児玉が犯人だという証拠を見つけるのではないにしろ、真犯人の目星でもつかないかぎりはね。犯人でっち上げちゃったからさ、どうにかして汚名返上しないと」
気恥かしそうに頭のうしろをかく。
部室がどうなっているかなんて知らないようだ。
「一度も来てないんですよね、あれから」
「うん……って、白谷さんも行ってないの?」
怪訝そうに首をひねる神崎。結衣は小さくうなずいた。
「誰も、来てないと思います」
「そっか。会長たちもいないし、児玉も来ないんじゃ仕方ないな。ひとりきりじゃ何もできないし」
「そういうことじゃないんです」
強い口調で否定する。神崎は驚いたように目を見開いた。
「部室が、探偵同好会が消えてしまったんです。無くなっちゃったんです」
「消えた?」
「2月の終わりごろにわたしが部室に行ったら、看板がなくなってて、それで、鍵も閉まってて――まだ会長たち来てないのかなって思って鍵をとりに行って、開けたらなんにも無くなってて」
「なんにも? 家具が消えたってこと?」
「たぶん……あんまり覚えてないんですけど、すごく寂しくなってしまっていて、なんだか思い出が全部消えちゃったみたいで」
不意に、ぽろぽろと涙がこぼれ出てきて。
泣いていることに気づいたらさらに悲しくなって、神崎があわてて差し出したハンカチをもらってもあふれ出る涙をふく気になれなかった。
渇いた地面を大粒のしずくが濡らす。
「大丈夫?」
「……はい……すみません」
「まいったなあ」
神崎はくしゃくしゃと髪をかきむしる。どこか苦しげな表情だ。結衣はとまらない涙をなんとかこらえながら、嗚咽まじりにたずねる。
「なにが……どうなってるん……でしょうか」
「ひょっとしたら、会長たちが怒って荷物をひきあげちゃったのかもしれないなあ。おれと児玉がいつまでも喧嘩してるもんだから愛想を尽かされちゃったのかも。そんなに心の狭い人たちじゃないだろうけど、ありえなくはない話だよなあ」
独り言のようにまくしたてる。
そして、明るい調子で両手を打ち合わせた。
「決めた! おれ絶対に事件を解決する。なるべく早く解決して、会長たちに許してもらう」
「部室の荷物って……会長たちのなんですか?」
「わからない。おれが入部したときにはもうあんな状態だったから。児玉なら知ってるかもしれないけど」
「そう……ですか」
「知らせてくれてありがとう。おれ頑張るから、白谷さんも泣かないで頑張ろう、な」
「はい」
神崎はぽんぽんと結衣の肩を叩いてから、足早に校舎のなかへ戻っていった。
推理の方向性なんて定まっていないんだろうけど、いてもたってもいられないというような剣幕だった。
結衣はもらったハンカチで濡れた目じりをぬぐうと、空を見上げて歩きだした。
よく晴れた空だった。