御守
「会長、ひどい顔ですよ?」
場所は女子トイレ。会長のクラスを訪れた咲は目的の姿がないのを知ると、その階にある洗面所へと向かった。休み時間とはいえ、生徒の姿はまばらだ。
水滴のはねた鏡には会長の顔がうつっている。
寝不足のためにできたくま、そしてやつれた頬。一日でいきなり老けこんでしまったようだった。
白髪まで生えていないものだろうかと頭髪の分け目を調べながら、会長は大きくため息をつく。
「一睡もできなかったの。寝たら悪夢を見るような気がして。それにずっと頭のなかに霧がかかっているみたいに思考がはっきりしないの。誰かがうちの頭を占領して遊んでいるみたいに」
「――結衣ちゃんから話は聞いています。昨日はひどいことがあったみたいですね」
「まったく。こっくりさんの呪いだわ、完全に」
「それ以上言わない方がいいですよ。自分自身に暗示をかけることになりますから」
「事実なんだから関係ないじゃない。うちはもうお終いかもしれないわ」
会長は蛇口をひねると、勢いよく流れだした水を両手ですくって顔にかけた。冬の水は切るように冷たい、というよりも痛みに近い。
すぐにハンカチでしずくをぬぐう。
「あたしお守り貰って来ましたよ」
咲は会長の手に二つのお守りを握らせた。
見ると、合格祈願と恋愛成就と書いてある。
「これ、あげますから。お賽銭もいっぱい入れて来ましたし、きっとご利益ありますよ」
「ずいぶん気前がいいじゃない」
「そのための神崎ですから。お守りは神崎からのプレゼントだと思ってください」
「ていのいいお財布役ね」
会長は軽く笑った。
「そうですよ。お守りなんて荷物持ちにもなりませんし、今は副会長のほうにもお守りを渡しているところだと思います」
「それはいいんだけど」
会長はピンク色で恋愛成就と刺繍のされたお守りを見やった。
「これはどういうことなのかしら。余計じゃない?」
「なるほど。あたしの協力などなくても上手くいくから問題ない、と」
「そういうことじゃないわよ。けど――」
「まあ、お守りは多ければ多いほどいいですから。悪い霊もきっとどこかに退散していきますよ」
咲は少し笑ってから、真剣な眼つきになった。
「神社の神主さんに教えてもらったおまじないなんですけど、手のひらに『守』という字を書いて呑みこむ、というのを3回繰り返してから深呼吸をするといいらしいです。なんでも言霊によって守護霊を強化できるんだとか」
「ありがとう。試してみるわ」
「それから、もうひとつ大事なことがあります」
咲は会長の瞳を覗きこむ。
「今日は必ずはやく寝てください。おまじないをやってからです。10時を過ぎると霊的な力が強くなって、悪夢を見てしまいますから。絶対ですよ」
「べつにそんなの――」
「いいですか、絶対です。約束破ったら部活やめますからね」
「わかったわよ」
会長は諦めたようにいった。
「咲ちゃんにやめられたらたまらないわ。それに、今日くらいは早寝しないと生活に支障が出るしね」
「それならいいです」
にこりと笑う咲。会長は鏡を見ながら前髪をととのえると、二つのお守りをポケットにしまった。
「それじゃ、うちは教室に戻るわね。ありがと咲ちゃん」
「おまじないと、早寝。絶対にですよ」
「わかったってば」
苦笑しながらトイレを出る。
なんだかんだいいながら咲もしっかり神主のいうことを信じているではないか。科学があてにならないのなら、頼りになるのは神社の御利益とか、そういう昔ながらのものなのかもしれないな、と会長は思った。
翌朝、会長は珍しく目覚まし時計が朝を告げる前に起床した。
部屋のカーテンを開けるとまだそとはほの暗い。冬の日の出は遅いものだが、こうやってまだ朝日の上らぬ景色をながめるのはとても久しぶりな気がした。
いつもは遅刻ギリギリになるまで眠っているから、ゆっくりその日の天気を観賞している暇もないのだ。かすかな光に目を凝らしてみると、どうやら今日は晴天らしかった。
顔を洗い、鏡を見る。
マジックで落書きしたみたいに眼の下を彩っていたくまはきれいさっぱり消えていた。
それに頭もスッキリする。台風一過の青空のように、透きとおってどこまでも見渡せそうだ。会長はうんと背伸びをすると、鏡に向かって笑いかけた。
悪くない笑顔だ。
部屋に戻ると、枕もとに置いてあったふたつのお守りを鞄につける。咲が持ってきたこれがよく利いたのかもしれない。
そんなことを考えていると地平線の彼方から太陽が出勤をはじめた。灯台のような陽射しが地上を明るく照らす。会長は目を細めて夜明けをながめていたが、ふと自分がこっくりさんの呪いなど忘れてしまっていることに気がついた。
夜はあれほど怖かったこっくりさんが、今はなんだか馬鹿らしく思える。
温かな陽の光を浴びているからかもしれないし、夜の闇が恐怖を増幅させたのかもしれなかった。どちらにせよ、今はとにかく気分がいい。
「太陽は偉大ね」
とつぶやき、会長は朝日に向かって一礼した。
最近は眠くて仕方のなかった学校の授業も、今日は短いくらいに感じられた。退屈なことには変わりなかったけれど、不思議なことに睡魔は襲って来ない。
それどころか先生も一生懸命授業をやってるんだなあ、と変に関心をしてしまったくらいだ。
終業のチャイムが鳴り、部室のある旧校舎のほうへ歩いていると副会長に遭遇した。ふたりとも部室に行く途中なわけだから、さして珍しいわけではなかったが副会長は目を丸くした。
「今日はパン買っていかないのか?」
「うちだって常に空腹ってわけじゃないのよ。咲ちゃんにお守りのお礼もしなくちゃいけないし、ちょっと早く行こうかと思って」
「みなみも効果があったのか」
副会長は、今度は感心したような声を出した。鞄につけたふたつのお守りを手に取り、しげしげと眺める。
それから、慌ててなにかに気づいたように鞄を肩にかけ直した。
「なんかこっくりさんとは関係のなさそうなお守りだったけどね」
会長が事情を察して話題をそらす。副会長は平静を装ってうなずく。
「合格祈願なんて、まったく関連性がないな」
「ほんとよね、咲ちゃんのセンスを疑うわ」
「誠くんは財布係だったらしいな」
「咲ちゃんは意外と将来、男をパシリに使う女王様になるかもね」
「そうだな」
気まずい沈黙が流れる。
恋愛成就のお守りがふたりの歩調に合わせてゆらゆら揺れている。無言のままに渡り廊下をぬけ階段を上り、廊下を進むと部室のドアを開ける。
そこにはすでに咲と神崎、それから結衣の姿があった。
「咲ちゃん、お守りありがとね。おかげでよく眠れたわ」
「そうですか。それは良かった」
「迷信には迷信を。ってやつかしらね」
「――会長。すこしお願いがあるのですが」
咲は席から立ち上がると、そう提案した。会長は小首をかしげる。
「なにかしら?」
「あたしが今からすべてのなぞ解きをしますから、その代わりにもう呪いや迷信の類を盲信するのはやめてください」
「……おもしろいじゃない。話して御覧なさいよ」
会長の許可を得て、咲はニヤリと笑みを浮かべる。副会長と会長が席に着くのを待ってから咲は推理を披露しはじめた。
「さて――」