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CASE2 神崎

CASE2 神崎


 残り15分。サッカーならば監督が選手交代を考えだす時間帯だ。残り15分。ここからゲームが動く。

 神崎はうでにつけたGショックを一瞥し、黄金の生徒手帳を見やる。まだ誰の手にも触れさせていない手帳。このまま守りきるだけでは、少し甘いかもしれない。

 探偵同好会は、怪盗同好会を捕まえないことにはポイントを得ることができない。現時点でポイントは互角だが、もしも本部にいる会長と先の防衛網が破られ、脱獄されるようなことがあれば勝負はほぼ負けとなる。

 咲を信じていないわけではないが、唯一手帳を盗まれているのも咲だ。今日はあまり調子がよくないとみたほうがいいだろう。

 会長は指示を出すだけで警備にまわれないから実質一対一の勝負になる。守るほうとしてはいい条件ではない。

 基本的に、攻めるほうが守るよりも簡単なのだ。

 それに星が五分のままでは、決着がつかない。会長は引き分けなどという曖昧な結果では満足しないだろう。それは神崎も同じことだ。

 あれだけ馬鹿にされて引き下がっているようでは探偵として失格だ。逆境でこそ真価を発揮するのがエースの役割というもの。元野球部のエースとしては絶対にひとり捕らえなければいけなかった。

「さて――、どうしたものか」

 スパイクの靴ひもを結び直しながら考える。

 これで何度目だかわからないが、念には念を入れておくべきだろう。

 会長の指示を仰ぎたくはない。どうしても独力で手柄をあげたいのだ。

「あ―あ……」

 考えるのはあまり好きじゃない、といったら会長に怒られるかもしれない。結局どのくらい悩んだところであたるときはあたるし、外れるときは外れるものだから。

 神崎は恨めしげにプラスチックケースをながめると、視線をグラウンドに行きかう人々へ向けた。いつまでたっても盛況なのは変わらない。知らない顔が通り過ぎては、知らない顔が入ってくる。

 とくに小学校低学年くらいの子供なんかはなぜだかひとりで走り回っていることが多くて、目につく。保護者はどこへ行ったのだろうか。自分の子供くらいしっかり手綱を握っていてくれればいいのに。

 ふとなにか思い当たることがあって、悩むふりをしてプラスチックケースから離れてみる。

 まるで関係ない方角を向いているように見せかけて注意はしっかり生徒手帳をとらえている。

「――ふーん」

 もういちど腕時計を確認。

 のこり13分。

 もう少し離れる。追いつくか追いつかないかの、ギリギリのところまで。

 案の定、半そで半ズボンのこどもがひとりではしゃぎながら手帳に近づいてきた。神崎は知らないふりで、足をとめる。

 透明な緊張の糸がはりつめている。

 行くか、行かないか。

 それは俊足のランナーが盗塁を狙っているときの感覚に似ていた。一瞬の間合いの盗みあい。焦って飛び出せば逃げられる。

 心臓の鼓動が激しくなっていくのを感じた。

 足の隅々にまで血潮がめぐってくる。身体は温まっている。臨戦態勢だ。

 緊迫した雰囲気を打ち砕いたのは無線から飛び込んできた会長の声だった。

「誠くん! 今すぐ体育館に向かってちょうだい! 逃げられたわ!」

 その一瞬、神崎は考えることに気をとられた。

 興味しんしんでプラスチックケースに収まった黄金の生徒手帳を見つめている、という様子を演じていた少年が箱をはずすと、手帳を右手に一気に走りだした。

 ほんのわずかに遅れて神崎がスタートを切る。

 会長の言葉は耳に入らない。たとえ一人逃げられたところで、目の前を走る少年を捕まえれば帳尻はあう。それに手帳をとられてしまった以上、この場所に固執している必要はない。

 典型的なやんちゃ小学生にふんした怪盗同好会のひとりは、小さな体を利用して人ごみのあいだをすいすい逃げていく。それに対して筋肉質な神崎はすみませんと叫びながら客を弾きとばす。

 多少手加減はしている。大丈夫だろう、たぶん。

「待て!」

 いちどいってみたかった台詞を思い切り叫びながら、少年を追う。

 身長では神崎が勝っているものの、意外と少年の足もはやく、距離はなかなか縮まらない。ただ、スパイクをはいているぶんだけ神崎のほうが地面をしっかり蹴れるという利点はあった。

 少年はちらりと後ろを振り返った。

 見たことのない顔だ。童顔、と呼ぶにはすこし子供っぽすぎる顔立ち。虫捕り網を持ってアキアカネを追いかけた日々がそのまま止まってしまったみたいだ。

 だが、怪盗同好会のひとりであるのだから、少年もまた高校生なのだろう。信じられないけど。

 あんなにも特徴的な顔立ちをしているなら、すこしくらい噂になっていてもいい気がする。それとも意図的に隠していたのか。

 ふたたび前を向くと少年は、直角に折れ曲がった。

 どうやら校舎に逃げ込もうとしていたのをあきらめて、人ごみのなかを進もうという魂胆らしい。神崎も負けじと素早い反応で食らいついていく。

 誠くん! と会長の怒鳴る声がイヤホンから響いてくる。

 うるさいなあ。神崎は片方の耳につけていたイヤホンをはずした。あとで怒られようがなんだろうが、知ったこっちゃない。

 少年の蹴ったあとから、砂煙が上がる。

 冬になる前の乾燥した空気は、視界を妨害するのに十分なくらい砂埃を巻きあげた。

「待てって!」

 追いかけつつ、腕時計を確認する。

 あと10分を切っている。

 体力に自信があるとはいえ、全力で走り続けるにはちょっと長すぎる時間だ。だが、目の前の相手はライオンに追いかけられたウサギのごとく、がむしゃらに駆けている。手を抜いているようでは見失ってしまう。

 しかたない、神崎は大きく息を吸い込んだ。

「待てってば!」

 ああ、なんて心地のいい響き。

 ドラマに出てくる刑事はこんな快感をいつも味わっていたのか。名探偵と呼ぶにはすこし違うスタイルかもしれないが、犯人を捕まえるという目的では共通している。それなら犯人を追いかけるのだって立派な推理だ。

 だが、ふくらはぎは徐々に悲鳴を上げはじめていた。

 探偵同好会に入ってからというものの、ハードな練習などは行っていないから、予想よりもずっと体力が落ちている。

 前を行く少年の背中がだんだん遠ざかっていくような錯覚。突き放されるマラソンランナーはこんな気持なのだろう。

 脇腹も痛くなって来た。

 呼吸が荒くなる。これは本格的にやばいかもしれない。それでも神崎に諦めるという選択肢はなかった。足を止めたら、そこでゲームセットだ。時間はまだある。それまで追いかけ続ければ、きっと相手はばてるだろう。

 ふと、身体をむしばむ辛さから逃避するみたいに頭のなかが鮮明になった。

 にごった水を下水処理したみたいにクリアーな思考。相手はグラウンドにかまえるのが神崎だと知って勝負を仕掛けてきたのだろう。

 小細工のしにくい場所では、盗むまでは辛抱の勝負。

 盗んでからは体力の勝負になる。それを見こしての人材派遣だから、体力にいちばん自慢のあるやつが来たにちがいないのだ。その代り、すこし怪盗としての技術は低いのかもしれない。

 神崎と似たような境遇。

 それなら、同じ立場として負けるわけにはいかない。

 走る。その単純な動作がいまはなによりも辛い。

 ピッチャーが全速力で疾走することはめったにない。だがそんなことは関係なかった。

「はぁっ、はぁっ」

 呼吸が激しく、荒いものへ変わっていく。

 だが、それは相手も同じようだった。足の回転がみるみる遅くなっていく。死闘の鬼ごっこを繰り広げるふたりの姿を、いくつもの視線がなでる。

 神崎は、突然大きな声を出した。

 驚いて振り向く少年。いまのでそうとう息が辛くなった。だが、神崎は威嚇するように叫ぶのをやめようとはしない。羊を追いまわす猟犬のように吠えたてる。

 その勢いに気おされて少年は進行方向をかえた。顔は神崎のほうを向いている。気でも狂ったのだと思っているのだろう。

 神崎は声を振りしぼり続ける。声だしは探偵同好会にはいる前からずっとやっている。だから、小柄な少年が態勢を崩して、宙を飛んでいるときでも余裕が残っていた。

「――あっ!」

 少年が足をとられたのは、野球のマウンドのプレートだった。小高い丘のような土の上に、白いプレートが悠然と置かれている。神崎はこのプレートを踏み続けてきた。

 ただ、野球部でもなければグラウンドに足をとられるような凹凸があることを覚えているものは少ない。よく体育の授業でもマウンドに足を引っ掛けて怪我をする生徒がいるくらいだ。

 転んだ拍子に少年の手から離れた黄金の生徒手帳を拾い上げてから、神崎は少年の背中にタッチした。もう立ち上がる気力すら残っていないようで、激しく呼吸しながら仰向けになって空を見上げる少年。

 同学年ではない――たぶん。

 そうなると1年生だろうか。すくなくとも3年生のようには見えなかった。

 どちらにせよ高校生に見えないのも事実で、それは少年の服装のせいだけではなかった。身長も、体つきも、顔立ちも、すべてが小生意気な小学生にふさわしい。

 よほど注意して観察してないかぎり、彼をひと目で小学生でないと見破ることはできないだろう。

 神崎もこの時間帯になるまでまったく気がつかなかった。捕まえたすぐそばで顔をのぞきこんでも信じられないくらいだ。

 少年の失敗は顔を見せ過ぎたことだった。

 神崎の前に現れるときはすこしずつ服装をかえたりしていたのだが、それはあまりよく覚えていない。印象に残っていたのはあまりにも典型的なこどもがグラウンドをうろついているということだった。

 もしも神崎の記憶力がもうすこしよかったなら別人だと認識して疑うようなこともなかっただろう。

 その結果として、怪盗同好会をおびき寄せるための罠を仕掛けたとしても、犯人の見当がつかないままあっという間に手帳を盗まれておしまいだったに違いない。

「あー、疲れたぁ」

 少年のすぐ横へ、神崎が座りこむ。

 ふくらはぎが締めつけるように痛い。明日はさぞや筋肉痛に苛まれることだろう。

 これじゃゆっくり文化祭を回ることもできない。でも、そんな些細なことは勝利の陶酔感のまえでは意味を持たなかった。

「おい、捕まえたぞ」

「…………」

 少年に声をかけるが、せわしなく肺を上下に動かすだけで返事をしようとはしない。

 できない、といったほうが近いだろうか。箱根駅伝を走りきったランナーみたいに倒れ込んだままだ。

「おーい」

 もういちど呼びかけてみる。反応はない。

 神崎は肩をすくめて、腕時計を確認した。

 あと5分を切っている。少年を捕まえたことで1ポイントが探偵同好会に加算された。これでかなり優位に立ったことになる。相手は動いてくるしかない。

 あとは手帳の前にはり付いているしかないか。くるなら本部か、副会長のところだろうし。

 本部の会長に連絡する。あ、そういえば誰か逃げ出したんだっけ。それなら同点か。でも、どうしてか会長の口調は穏やかで、とても緊迫している様子ではなかった。

 まあいいや。

 いまはすごく疲れている。あと数分の勝負が終わるまであとすこしだ。神崎は足を引きずるようにして持ち場へ戻った。イヤホンは、外したままだった。

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