CASE2 咲
CASE2 咲
森の木々のあいだをすりぬけるように廊下の人込みをよけ、体育館を目指す。普段から運動していないせいですぐに息が切れる。こんなに走り回る刑事ドラマのような展開は好きじゃないがわがままを言っていられる状況でもなかった。
開始五分で盗まれるとは思っていなかった。
油断があったのかもしれない。いや、万全の状態で臨んだとしても守りきれただろうか。
道に迷った親子と話しているあいだ、咲は背後のガラスケースに対する警戒を怠らなかった。油断していたのはほんの一瞬だった。その隙に生徒手帳が盗まれたのだとしたら、相手はよほどの強敵だ。それを、ほかの人にも伝えなくてはならない。
体育館はさらに多くの人でにぎわっていた。
休憩所も兼ねているということもあって、とても賑やかだ。ステージの上では二人組の派手な衣装を着たコンビがくだらない漫才を披露していた。その両端に会長と、怪盗同好会の会長らしい女性が座っている。
どちらも耳にイヤホンをはめ、無線のレシーバーを握っている。
敵の会長――氷川美保は、気配を隠すには少々華々しすぎる容貌だった。髪を染めているわけでもとりたてて派手な格好をしているわけでもないのにもかかわらず、たとえ群衆のなかにいてもひと目で気づいてしまうようなオーラをまとっている。
どうしてこんな人に今まで気づかなかったんだろう。
これほどのオーラをまとっているのなら、学年どころか近所一帯にまで噂になっていてもおかしくないはずなのに。それとも、意図的に自分のまとう雰囲気や印象すらも変えられるのだろうか――。
泥棒という陳腐な枠におさめるには器が大きすぎる。咲が圧倒されながら氷川を見ていると、ふと視線が重なった。にこり、と微笑する。その笑顔に悪寒が走った。
高校生であるにもかかわらず、熟した大人を超えた妖艶さをまとっているような気がした。
「会長!」
気を取り直して、ステージの下から声をかける。咲の姿を見た会長は、座っている椅子から転げ落ちそうな勢いで驚いた。
「なにやってんの咲ちゃん! なにかあったの!?」
「……え?」
思考が固まる。
どうして会長は驚いているのだろう。
「だって、あたし……盗まれちゃいました」
「いつそんなことがあったのよ! どうして報告しないの!」
「あ……」
まるでずっと解けなかった知恵の輪が、ふとしたひょうしにあっさり外れてしまったみたいに、咲の頭のなかでいくつもの光景がつながっていく。
迷子の親子。一瞬で偽物とすりかわった手帳。会長の言葉。そして、怪盗。
「咲ちゃん!」
「――騙されました、完ぺきに」
咲はステージの反対側で微笑を張り付けている氷川を睨みつけた。
「どうしたのよ」
「会長、まだなにも盗まれたなんて報告は入ってませんよね」
「いまの咲ちゃんをのぞけばね」
ただ事ではないようすに、会長がようやく落ち着きを取り戻す。
「それから、敵の会長はどなたでしたっけ」
「美保でしょ。それがどうかしたの?」
「氷川、とは呼びませんよね」
「そんな風に呼んだことはないわよ」
「そう、ですか」
「いい加減なにがあったのかちゃんと説明してよね。盗まれたってどういうこと?」
「それは――」
と言いかけて、咲はいちど言葉をとめた。深く息を吸う。
「警備の最中に、親子連れの方に写真同好会の部室はどこかって聞かれて、それを説明してあげていたんです。それがちょっと手間取ってしまって、ほんの少しだけ意識がそれたんです。その一瞬で、生徒手帳は偽物にすり替わっていました」
「ウソでしょ?」
唖然とする会長。もしそれだけの高等なスキルを相手が持っているのだとしたら、勝ち目はないかもしれない。
「あたしがそれに気づいてすぐ、会長から連絡が入りました。『もうすでにひとつは入手したって氷川がいってるんだけどホント!?』って」
「うち、そんなこと言ってないわよ」
「それはそうです。あたしをおびき寄せるための罠だったんですから」
「――そうか、あの女まったく汚い真似を」
会長が形相をかえて氷川を睨みつける。向こうでは待ち構えていたようにあかんべえのポーズをしていた。
「やられたわね」
「ええ。まさか無線を乗っ取られるとは思いませんでした。会長の声真似もそっくりでしたし」
「無線だとわかりにくいってこともあったのよね」
「生徒手帳が偽物なのではないかと疑った瞬間、相手は攻撃を仕掛けてきました。タイミングが良すぎて、考える暇を与えてもらえませんでした」
「なんで偽物だと思ったわけ?」
「光の反射具合が違ったんです。でも、おそらく細工されたんでしょう。時計に反射させた光をあてるとか、方法はいくらでもあるはずです。とにかく少しでも疑心を持てば、その隙を突かれます」
「用心深い咲ちゃんに合わせた作戦ってわけか。あーやられたねえ」
「すみません」
咲が頭を下げると、会長は軽く笑った。
「しかたないよ、ここから挽回しよう。あとの三人がコソ泥をとっ捕まえればいいんだから」
「じゃあ、あたしどうすればいいですか」
咲は、少なくとも外面上は、動揺していないようだった。冷静に次の指示を仰ぐ。会長はすこし悩んだあと、ここにいてちょうだいといった。
「相手の顔すら見ていないようじゃ捕まえることはできないわ。それなら本部で誰かを捕まえたあとに見張っていてもらったほうがいいもの。それに参謀が一人欲しいところだったしね。盗まれたときの状況をみんなに伝えるから、くわしく聞かせてもらえる?」
「わかりました」
素早く切り替えて、咲が説明をはじめる。
あとのメンバーの役に立てるよう、なるべく細かく、気付いたことやこれからの対策も含めて話す。それが今の自分にできる唯一のことだと冷静に判断した。
「相手は普通の人間です。ただ、無線には気をつけたほうがいいかもしれません。本人が喋っているとは思わないほうがいいでしょう。とくに後半は」
「そうね。とにかく今は待ちましょう。動きがあるまで、こっちは受け身でいくしかないわね」
「そうですね、それがいいと思います」
「結衣ちゃん、聞こえる――?」
会長が無線を使って、結衣、神崎と状況を説明していく。
その間も、氷川はまるで会長の唇の動きを読むようにじっと見つめている。なにを考えているのか、さっぱり読み取れない。
「健輔、そっちは大丈夫?」
「――ああ」
生気のない声がかえってくる。
会長は眉間にしわを寄せた。
「本当に大丈夫? お化け屋敷でビビってんじゃないの?」
「――ああ」
やつれた老人のような口調。
「とにかく、そういうわけだから気をつけてよね」
「――ああ」
首をかしげながら無線をきる。
どうしたんですか、と咲が訊いた。
「なんか様子が変なのよね。なにを言っても、ああ、としか返事しないし」
「よほどお化け屋敷が怖かったんじゃないですか」
「オカルト好きだし、まあ大丈夫だろうけど。ひっかかるわよね」
「副会長は負けたら坊主ですし、あたしはそれでもいいですけど」
「風邪引かなきゃいいけどね」
「似合うと思いますか?」
「いや、まったく。一生の汚点になるでしょうね」
「それは喜ばしいです」
咲がにこりともせずに言った。