CASE 咲
CASE 咲
これまたスタンダードな場所を任されたものだと、咲はひとりため息をつく。
透明のプラスチックケースのなかに保管されているのは、黄金の生徒手帳。ふつうの生徒手帳は藍色をしているから、これは生徒会の特注品ということになるらしい。
どこで仕立てたのかわからないが、とにかくこれを2時間守りきることが咲の使命だ。
「警戒は怠らないようにね」
耳につけた無線から、会長の落ち着いた声が届く。
本部と称された体育館のイベント会場にいるらしいが、もちろんその姿を見ることはできない。いたところで何が変わるというわけではないのだが、うるさくされないだけマシというものか。
「わかってますよ」
「はじまって五分だけど、まだなんのアクションもないわ。まさかとは思うけど停電もありえるからね」
「ここは日のひかりが強いので平気です」
文化祭の展示用にあつらえられた本校舎の教室は、生徒の宿題などを発表するためのパネルなどで死角は多いが、そのかわりに人出はあまり多くない。
数学の課題であるポスターや、レポートが展示されている空間はアトラクションなどをメインとする教室とは違って人の流れが緩やかだ。
そのぶん客をゆっくりと観察することはできるが、逆に慢心を招きかねないとも限らない。
なにしろ二時間は長い。
授業のひとコマが五十分であることを考えると注意力が途切れる時間帯があるのは確実だ。それをいかにして警戒し、悟られないようにするか。その点が勝負の分かれ目になると咲は思っていた。
「ルールは五分と五分、それなら個人の能力が勝敗を分ける、か」
ひとりつぶやく。
いつの間に決めたのか、生徒会から渡されたプリントには事細かにルールが記載されていた。
主な内容は
・イベントは12時から14時までの2時間にかけて行われるものとする。
・探偵同好会、怪盗同好会からはそれぞれ4名が参加するものとする。
・時間内であれば、どのような行為も許されるものとする。
・14時になった時点で黄金の生徒手帳を怪盗同好会が有していた場合、1つにつき1ポイントとなる。反対に怪盗同好会側は探偵同好会によって身柄を拘束されていた場合、1人につき1ポイントが探偵同好会に加算される。
・上記のどちらでもない場合、ポイントは加算されない。
・探偵同好会は明確な意思をもって怪盗同好会の会員の身体にタッチすれば、その身柄を拘束することができる。
・拘束された身柄は生徒会役員によって本部まで移送される。ただし、拘束されていない怪盗同好会の者は拘束されたメンバーにタッチすることで、その者を救出できる。
・探偵同好会、怪盗同好会の会長両名は本部席にて無線による指示を送ることができる。
といったところである。
驚いたのは拘束ルールだった。まさかドロケイのようにタッチすれば逃げられるとは思っていなかった。これで会長の役割もすこしは増えたことだろう。たとえ何人捕まえたところで、本部をがら空きにしていては逃げられてしまう。
かといって持ち場を離れればやすやすと盗み出されてしまう。
采配が難しいところだ。
『明確な意思をもって』タッチするというのは、犯人だと意識して捕まえろということだろう。誰かれ構わずぺたぺた触っていればいいというわけではないのだ。
「こちら児玉、いまのところ問題なしです」
「了解」
5分ごとの定時報告。
会長からの命令だ。
「気をつけてね」
「わかってます」
「うん?」
聞き取れなかったのか、会長があいまいな返事をする。
「なんでもないですよ」
「そう? 気をつけてね」
またか、と咲は苦笑する。会長も心配症になったものだ。
そのとき、展示をめぐっていた客のひとりがちょっとすみませんといってパンフレットを片手に話しかけてきた。
人のよさそうな中年の男性と、幼稚園くらいの女の子が手をつないでいる。おおかた迷子になって母親からはぐれてしまったというところだろう。
それでも万が一のことを想定して、いちどケースに入れられた金の生徒手帳を確認する。手帳はしっかりとそこで輝きを放っていた。
念のためにプラスチックケースと父娘との間に体をはさみつつ、にこやかに対応する。
「どうしましたか?」
「お恥ずかしいが、すこし迷ってしまいまして……。いやはや、地図はあるんですけど、どうにも読むのが苦手でしてね。この、写真同好会というやつに行きたいんですけど、どう行ったらいいかわからないもので、教えていただけませんかね」
「いいですよ」
やけに物腰の丁寧というか、腰が低いというか、とにかく頭をペコペコさげながら話す人だ。その足元で憮然とした表情をしている少女のほうが、よっぽどしっかりしている。
どう見ても平凡な一般人だ。
さすがに怪盗同好会の協力者ではない――と思う。
「廊下のつきあたりに階段がありますから、そこを下っていちど昇降口からそとへ出てください。そうすると右手側に建物が見えますから渡り廊下沿いに進んで、四階が写真同好会の部室です」
「えーと、つきあたりまで行って――」
教えたばかりだというのに空白のおおい復唱をする男性。咲はそのひとが言葉に詰まるたび、ていねいに説明をくりかえした。
数分かかってようやく覚えたらしい父親は、去り際にふかく頭を下げて教室を出ていった。ばいばい、と少女がかわいらしく手を振っていた。
「――ふう」
ひと仕事を終え、咲は大きく深呼吸する。
そして急に我に返って、生徒手帳がそこにあるのを視認した。
危ないところだった。つい気をつけていなくてはと思っていながらも、説明するのに注意をとられて油断していた。この隙だったら知らない間に盗まれていても気付けなかっただろう。
プラスチックのケースのかたい表面を、コツコツと指先でたたく。人差し指に感じる冷たい感触。
「……あれ?」
なかに安置されているはずの生徒手帳の反射が、前に見たときよりもすこし違っていたような――気がした。確信はない。ふとそう思っただけだ。勘違いかもしれない。
それでも、疑心に駆られたからだは、それが本物だと確認せずにはいられなかった。あたりを見回し、だれも怪しい人物がいないと判断すると、ゆっくりケースをもちあげる。
そのとき、会長の焦った声が無線に飛び込んできた。
「咲ちゃん! もうすでにひとつは入手したって氷川がいってるんだけどホント!?」
しまった。
咲は舌打ちする。
一瞬の油断をつかれた。いま目の前にある手帳はフェイクだろう。そうとしか考えられない。
「すぐに本部まで来てちょうだい!」
会長の鋭い声。
咲はいわれたままに教室を飛び出した。失態は取り返さなければならない。どのような方法であれ、とにかくこの場所を守っていても無意味だ。
咲は完全に焦っていた。
普段なら見逃さないような小さなミスを、まったく気付かないまま廊下を疾走する。