第八部
その日も朝からまるで当たり前のように雨が降っていて、いっこうにやむ気配を見せなかった。空を灰色に彩っている曇天も、青空を忘れてしまうくらい居座っている。
霞が丘高校のグラウンドにはあちこちに水たまりができていて、とても練習ができるような状態ではない。6月になってからずっとこの調子だ。
――天気が悪いと、気分まで滅入ってくる。
だがそれも、わがもの顔でグラウンドを占拠し、ボールを追いかける野球部の風景を見せつけられるよりはずっと良かった。
軽快な金属音を響かせるバッドの音もキャッチャーグローブに吸い込まれるボールの破裂音も聞きたくはない。苦虫を口に突っこまれるような記憶ばかりが思い出されるから。
雨は好きじゃない。けれど、晴れるのはもっと嫌だ。
教室の窓からしめった風景をながめる。
野球部の部室であるコンテナのような建物がグラウンドのすみにあるのが目に入り、無性に窓ガラスを割りたくなった。体の内側から発生した破壊的な衝動をおさえこむと、残ったのは力なくガラスをたたくこぶしの音だけだった。
「だからといって他人を中傷するのはよくないですよ」
誰もいないと思っていた放課後の教室で、後ろから声をかけられる。いや、もとからそこにいたのではなく、はいって来たことに気がつかなかったのだろう。
振り返るとそこにはふたりのスカートをはいた生徒が立っていた。
片方はツインテール、もう片方はショートカットの髪型だ。
「君だよね、野球部にへんなうわさを流したのは」
「……それがどうだって言うんですか。証拠もないのに人を悪人呼ばわりしないでください」
ぶっきらぼうに答える。
見知らぬ人にいきなり真相を突かれて驚いたが、うわさなど風のようなもので簡単に出所がつかめるわけがない。
しらを切っていれば大丈夫だろう。そう思っているのに、かすかに足が震える。
「推理小説の犯人はみんなきまってそう言うんですよ」
ツインテールの咲が言った。
「図星ですか?」
「そういじめるもんじゃないよ咲ちゃん。べつに人を殺したわけでもないんだし」
ショートヘアの会長がたしなめる。
「証拠というほどのもんじゃないんだけどね、状況証拠と証言を集めてまわったら君にたどり着いたというわけ。たとえば野球部に入部を断られた1年生がいなかったか――とか」
つとめて明るい雰囲気をだそうとしている会長だが、言葉は鋭い。ふたりの上級生に問いつめられた小柄な男子生徒は逃げ出すようなそぶりも見せず、じっとふたりを見据えている。
学校で名前と学年をしられてしまったら、もう逃げ出すことはできないのだ。それなら正面から立ち会うしかない。
「先輩たちは……誰なんですか」
かすれた声で問う。
「うちらはね、探偵同好会っていう部活をやっているの」
会長がこたえる。
「正確には同好会ですけどね」
咲が口をはさんだ。どうやら会長であろうと副会長であろうと口が悪いのは変わらないらしい。
「探偵?」
「そ。かっこいいでしょ」
会長のウインクはその男子生徒――内田には届かなかった。
あきらめたようにうつむく。彼の表情には水をやり過ぎてかれてしまった花のように生気がなかった。
「探偵なら全部わかってるんですよね、きっと。俺をどうするんですか。先生に言うなら停学か退学ですよね。そうじゃなくてもみんなに知られたらお終いだ。俺もう学校やめた方がいいですよね」
最後のほうはほとんど独り言のようにつぶやく。
「身長だけじゃなくて器も小さい人ですね」
咲が呆れたように言う。その脇腹を会長のひじが小突くが、気にとめた様子もなく内田を睨みつける。
「あたしネガティブな人って嫌いなんです。どんなに罵られようと馬鹿にされようとくじけない人じゃないと。せっかく入部したのに怪我に泣かされてもめげないやつがいるのに、挫折しちゃうような情けない根性じゃダメなんです」
「でも、俺は最初から入らせてすらもらえなかった」
「知ってます。体格が良くないせいで入部を断られたっていうことも、無名中学の中心選手だったっていうことも。それで諦めてしまうようなら君はしょせんその程度の選手だったということです」
「そう。諦めるにはまだ早いってこと」
咲の言葉をついで会長がふたたびウインクする。
「君もチャンスをつかみなおしてみな」
その頃、教室のそとの廊下では副会長をふくめた三人組が声をひそめて立ち往生していた。無人の廊下にはなかで繰り広げられているやりとりが鮮明に響く。
「……タイミングを逃しましたね」
「すまない。僕が先生に呼び出されなければこんなことにはならなかった」
「仕方ないですよ。ほんの少しだけ会長たちが早かっただけのはなしですから」
結衣がなぐさめるが副会長は大きなため息をつく。
「出番、なかったなぁ」
「次は呼び出されませんよきっと」
膝をかかえ、ため息をついている副会長をよそに、神崎はかすかに頬を赤くしながらたたずんでいた。
雨が上がったのはそれからちょうど1週間が経った日だった。からりと晴れた日差しはもう季節が夏なのだということを認識させる勢いで、まだエアコンのはいっていない教室はサウナのように蒸し暑い。
うだるような熱気と湿度のなか、グラウンドは久しぶりにトンボがかけられ、きれいに整地されている。まるでさざ波のような模様が砂の地面に描かれていた。
「本当にそれで良くなるのか?」
野球部の主将、高木がいぶかしげに訊いた。
胸を張ってうなずく会長のとなりでは、小柄ながらも目いっぱいにバットを振っている内田の姿がある。そのユニフォームは霞が丘高校のものではなく、彼の中学時代のものだ。
「こいつの入部試験をするだけでいいんだよな?」
「そうよ」
会長のうしろにはほかの会員たちの姿もある。まぶしい太陽に目を細めながらも、素振りをする内田にエールを送っていた。
晴れの日を待って高木に交渉を持ちかけたのは会長だった。
とある生徒に入部試験を受けさせるかわりに部内で蔓延している風邪をなくしてやると言って、高木も半信半疑ながらそれに同意したのだ。
べつに入部試験がマイナスに働くわけではないし、それで原因不明の流行病がなくなるならもうけものである。
そういう算段が働くことも、会長は見通していた。
「こんなチビが役に立つとは思わないけどな」
高木が小さな1年生の体躯を見ながら言う。
身長だけなら会長とさほど変わらないくらいである。体格が重要視される運動部には、あまり魅力のない体つきだ。
「うちが推薦するんだから間違いない。将来は第二のイチローになるかもしれないんだから」
「そんな簡単にいくもんか」
神崎ならともかく、とつけ加える。
かつて鳴り物入りでエースの座を手にいれた神崎は、怪我を理由に退部しいまでは探偵同好会の一員となっている。
その神崎も身長こそ副会長には届かないが、無駄のない引き締まった筋肉をしているのだ。
「まあ見てなって」
マウンドにはピッチャーが上がり、キャッチャーとサインの交換をしてしきりにうなずいている。バッターボックスにはヘルメットをかぶった内田が腰を低くして構えていた。
ルールはアウトになる前にヒットを打つこと、というものだ。
要は1打席で結果を残せということである。バッターに不利な条件ではあったが、会長がだいじょうぶだと言って強引に受けてしまったのだ。
野球のルールを知ったうえでのことだから空恐ろしい。
「頑張れー!」
と結衣がのんきに声援を送っている。
スポーツに疎い咲は、キャッチャーの右手が動くのを不思議そうに見ていた。
「あれってなんなの?」
神崎に尋ねる。
「ストレートど真ん中。狙い球だな」
神崎が真剣な表情でこたえるが、いまいちよくわからない。
そして、ピッチャーの右足が高々とあがり白球が直線をえがいてミットに吸い込まれていく――直前に、鋭いスイングがボールを捕らえていた。
2塁手の頭上を高々と超えていく打球。
内田はあっという間に2塁を駆け抜けると、ボールが外野を転々としているうちに3塁まで余裕で到達していた。
「見事なもんだな」
副会長がつぶやきをもらす。
鮮やかなスリーベースヒットだった。打たれたピッチャーも信じられないといった様子で唖然としている。
「さ、これで文句ないでしょ」
会長がじまんげに高木につめ寄る。
「ああ――あれだけのスピードがあれば十分にレギュラーが狙える」
高木の目はきらきらと輝いていた。
有望な新人を見つけたときの態度というのはどれも似るものらしい――会長はすこしだけ高木に親近感を覚えた。
その夏の大会は道半ばに終わったが、例年よりも勝ち進んだ霞が丘高校のメンバーのなかには、小柄ながらも奮闘する小さなプレイヤーの姿があった。
これで6月編は終わりです。
更新が遅くなり、申し訳ありませんでした。