屈折
「んっ!? 何だこの動きは」尾ノ上が言った。
「どうした」
「異常な株価なんです。何のニュースもないし、決算日もまだ先なのに」
SAM証券では小さな騒ぎが起こっていた。
これが後に想像を絶する大きな波になるとは、誰も知る由もなかった。
薄暗い部屋のベッドに胡坐をかき、タブレットを手にする男。
ぼんやりとしたタブレットの明かりが、男の無精髭の浮き出た顔を青白く照らしている。
画面に並ぶのは、コンマ数秒単位で刻々と点滅を繰り返す緑と赤の数字――株式市場の「板」だ。
男にとって、この狭く薄汚れた布団の上こそが世界のすべてであり、絶対の要塞だった。
外界の音も、鬱陶しい人間関係も、ここには届かない。
指先をひとつ滑らせれば、画面の向こうで数億の金が蠢く。
だが、男の瞳に映っているのは「市場の恐怖」でも「勝利の歓喜」でもない。ただの、ゲームのスコアだった。
男の名は田中浩二。今年で34歳になる。
かつて、幼少期の彼は聡明で優秀な子供だった。
といっても、テレビに出て持て囃されるような天才などではない。ただクラスで一番成績が良く、大人の言うことを要領よく聞き分けられる、地方の町ならどこにでもいるような「少し出来の良い子」だ。テストで満点を取れば親は目を細め、担任は感心したように肩を叩いた。彼自身もまた、自分が人より少しだけ誇らしい存在であると信じていた。
だが、そのささやかな特別感は長続きしなかった。
中学校に進学すると、田中の立ち位置は変わっていった。他校から集まった同期の中には、自分など足元にも及ばない真の秀才や、何をやっても目立つ才能を持った生徒たちがいたのだ。
「俺は優秀だから」という過信から、ロクに勉強に力を入れることもなく、ダラダラと日々を過ごした。
自分の「優秀さ」が、単に狭い井の中の小さな優越感に過ぎなかったことを知るのに、時間はかからなかった。いつしかテストの順位は真ん中に落ち着き、彼はごく普通の、どこにでもいる平凡な中学生へと埋もれていった。
彼の周りにいつもいた友達たちも、ひとりひとりと離れていった。そしてこの頃から段々と、学校以外では外に出なくなり、自分の存在を求めてスマホ中心の生活になっていった。
進学校でも、専門的な商業・工業高校でもない。
可もなく不可もない、偏差値50過ぎの県立高校へ進学した田中は、その他大勢に紛れる目立たない生徒となっていた。
だが、もともと地頭の良かった彼は違った。スマホの画面越しに迫る最先端技術にいち早く反応し、当時はまだ世間でさほど認知されていなかった「AI」という未知の存在に、ひとり強い関心を寄せるようになっていた。
秀でたスポーツの才能も、目を見張るような芸術的センスもない。そんな平凡な高校生活を三年間過ごした。
卒業後の進路についても、これといった目標があったわけではない。
「とりあえず、大学にでも入っておくか」
そんな気持ちで選んだのは、地方にあるマンモス私立大学、七隈大学だった。
これと言って特筆することのない学生生活だった。サークルで騒ぐ連中を冷めた目で見送り、図書館の片隅で時間を潰し、誰の記憶にも残らないまま年次だけを重ねていく。自分の人生のハンドルを、自分で握ったことなど一度だってなかった。
だから、就職活動が始まった時も、ただ「流される」という選択肢しか存在しなかった。
鏡の前に立ち、見慣れない黒いスーツのネクタイを締める。鏡の中に映るのは、熱意の欠片もない、ただの「記号」だった。履歴書に並べるのは、マニュアル本からコピーしたような薄っぺらな言葉の羅列。
「学生時代に最も打ち込んだことは――」
面接官の問いに口を動かしながら、ふと思う。自分は一体、誰の人生を生きているのだろうか。
周りの学生たちは、内定という名の乗車券を手に入れるために必死で走っていた。落ちて泣く奴もいれば、受かって抱き合う奴もいる。誰もが自分の未来を疑っていない。その熱狂の真ん中で、自分だけがぽっかりと空いた真空地帯に立っていた。熱意もないのに不採用通知(お祈りメール)が届くと、ほんの少しだけ自尊心が削られる。その不快感から逃れるために、また次の会社の応募ボタンを機械的にクリックする。
まるで、終わりの見えないコンティニューを繰り返すだけの退屈なゲームだった。自分がどこへ向かっているのかも分からないまま、ただ「社会」という名の巨大な渦の底へと、足元からじわじわと引きずり込まれていった。




