No.15 大歩道橋の片隅で
あれからまた二年が過ぎた。
二年前のあたしは、今頃になれば少しは大人の女に成長出来ると思うてた。せやけど現実は厳しいもんや。今日も今日とて愚痴三昧。親友の奈々子にゼミをサボらせ、相談に乗って貰っててんけど。くっそぉ、奈々子の薄情者めっ!
「なあ? どない思う? あんだけインパクトの強いプロポーズしてくれたのに、広志の奴、あれから全く普通言うんか、全然進展があれへんねん。あたしら、今年からそろそろ就活に本腰を入れ始めなあかんやんか。あたしは、広志にそのまま永久就職なんか、それとも職探しすべきなんか、その辺をあいつは何も言わへんから、どないしてええのんか判れへんねん」
相談と称したあたしの愚痴に、奈々子は一刀両断してくれよった。
「そんなん、広君に直接言うたらええやん。何で私に言うてんのん」
「そないなこと言うたら、あたしがせっ突いてるみたいに見えるさかい、広志にめっちゃプレッシャー掛けるやん! そんなんは、嫌やっ」
「ほな、愚痴りなさんな。ええやん、束縛しない寛大な広君。ええなぁ、私もそういう彼氏が欲しいわ」
そう言い腐ると、奈々子は企業リストを片手に「ほな、お先」と次の講義に行ってしもうた。
最近、何や奈々子もめっさ冷たい。そりゃまあ最近のあたしがこんな愚痴ばかりで辟易としてるからかも知れへんけど。
広志が大阪異動になってから暫くの間は、結構べたべたされとってんけど。
二ヶ月前、奴の二十六歳の誕生祝いの席で、突然広志に言われてん。
『美沙絵ちゃん、ごめんね。ちょっと暫く忙しくなっちゃうから、今までみたいにたくさん遊びに連れてってあげられなくなりそう』
かっちーん、と来たね、あれは。よりによって、誕生日に言うこたぁないやろう、と。
『連れてって、あげられない?! 何、上から目線で言うてんねん。誰もそんなん頼んでへんわっ! あんたはいっつもそうやねんけど、《ごめんね》言いながら全然自分の意思を曲げる気ないやろ? あんたの《ごめん》は聞き飽きたわっ!』
最悪の誕生日やった。あれからずっと、ケータイのやり取りオンリー。本気で忙しいのか、恐れられてるのか解れへんけど、内容は相変わらずグダグダだ。
『美沙絵ちゃん、おはよー。今日から三日間、九州に出張です。明太子を送るから、お母さんに宜しく伝えてね』
って、いちいち細かい指図なんかして来るなやぼけぇっ!
「は……っ」
しもた、学食のテーブルへこませた……。
いつも広志を待っていた、天王寺駅前の大歩道橋。この二ヶ月、此処で広志を待ったことない。仕事って、そないに楽しいもんなんかなぁ。あたしとおる時間よりも、面白いもんなんかも知れへん。だって最近の広志は、一緒におっても何処か上の空で、心はどっか他へ飛んでるみたいやってん。
会社勤めも四年となれば、あたしみたいなお子様の女子大生なんか知恵が浅くてつまらん、とか思うんかな。そう言えば、本社の受付のお姉さん達も、確かにめっちゃ美人で言葉も綺麗で、いろんな話題を知ってたっぽいし。
それに引き換えあたしと来たら。
そりゃね、悪いけど美人の自覚はあるよ。ウザったいくらい、二言目には『常盤ちゃん』って枕言葉がつくねんから。でも、それって自分の努力の結果とちゃうやん。あたしからそれ取ったら何残る? そうやって自分に問いかけた時、何にもない自分にめちゃくちゃ落ち込んだ。
一度別れてからまた広志と付き合う様になって、余計にそう思うようになって来てん。悔しいくらいに、広志はどんどんいい男になっていくのに、あたしは何にも変われへん。前よりずっと、あたしの方が、めちゃくちゃ広志に置いてけぼりを食っている。
「ちくしょ……タコ広志……」
そんなあたしの言葉に合いの手を入れてくれてた、あのおっちゃんはもう此処にはおらん。何処かに河岸を変えたのか、冬場の寒さに耐え兼ねて施設か警察のお世話にでもなってるんかなぁ。
何もかもが、懐かしかった。あのホームレスのおっちゃんも、あの頃のへたれ広志も、まだ今よりはさばさばしていたあたしのことも、お馬鹿のストーカー、麓郎さえも懐かしかった。
「そういえば、麓郎ってどないしとるんやろか。最近、あいつも見かけへん様になったなあ」
別に、それほど気になる訳やないけど、『冷たい』という言葉からふと麓郎のことまで思い出してしもうた。何か今のあたしって、かなり、惨め――。
『みっさえ~、オハヨー。朝だよ~。今日も大好きだから、早く起きて~』
今朝も広志のその声で目が覚める。最初の頃は照れ臭かったこの目覚ましボイス、今では朝から不機嫌のもとだ。
「あんたに好かれたからって、何で起きなあかんねん。よう考えたら、めっちゃ勝手な言い分の上に、ふざけた意味不明の内容やな」
二ヶ月間も、あたしはよく頑張った。黙って広志の言いなりになって、大人しくメールに返信もして、逢えないのを「しゃあないやん、仕事やねんから」と理解のある振りをして、一度も逢えないまま夏休みも終わってしもうて。
あたしは鏡の中の自分に向かって決意表明をしてやった。
「今から広志ん家に乗り込んだるで。いい加減にせえ、って蹴りかましたるっ!」
二年前の様に、広志にうっかりパンツを見せてしまいそうになったスカートなんかは履いて行かない。ソフトデニムのパンツを履いて、背中まで伸びた髪が邪魔にならない様にがっつりポニーテールで括りあげ。――うしっ、戦闘準備、完了。
あたしはヒールのピンで怪我をさせない様に、なんてちょっとずれた愛情からスニーカーを選び、広志のアパートに急いで向かった。
いつもの大歩道橋を渡っていると、ふと目に留まったものがあったさかい、珍しく歩道橋を下りて、近鉄百貨店のショーウィンドウを見に行った。約束してる訳でもないし、自由に時間を使うても問題ないやろう、思うて。それは、ブライダルフェアのポスターで、催事場で今日までやっているらしい。オフホワイトのウェディングドレスを身にまとったモデルさんにさえ、羨ましくて涙がこみ上げて来た。
もっと、ずっと、一緒におりたいんよ。子供扱いなんてして欲しくないんよ。あたしももう二十一やし、広志なんか四捨五入したら三十路やん。四年も付き合うてるのに、広志は相変わらずで、どんどんほんまにあたしの事が好きなんやろうか、とか、不安や不信が募って来る。
「あかんわ、やっぱ、行くのやめよ。蹴り入れるどころか、泣き入れてしまいそうや」
もしほんまに仕事が忙しいだけやったら、泣きなんか入れたら邪魔臭い。あいつのお荷物にはなりたないんよ。だって、仕事してる時の広志は、もうへたれの「へ」の字も見せへんほどに、凛々しいねん。広志曰く『美沙絵が《仕事に半端な奴は好かん》って言ってくれたから僕はポジティブに頑張って来れたんだよ~』なんてこっちが恥ずかしくなる様な台詞を真に受けてる手前、絶対にそれの邪魔をしたらあかんって自分で決めてんから。
「せや、広志の隣におりたいなら、ポジティブに考えなあかんやん」
言葉にして呟いてみたら、気分転換と夢見るのを兼ねて、ちょろっと覗きに行ってみよう、なんて気分になって来た。少しだけ流した涙で、あっという間にどろどろも洗い流せたあたしは、結構実は楽観的なんかも知れへん。ポスターのモデルさんに微笑を返すと、あたしは催事場へ足を向けた。
いきなり脳内でこんな確認をするのも何やけど。
奈々子は幼稚園の頃からの幼馴染で、同い年やねんけど気分的には姉さんみたいな存在で。子供の頃から、容姿以外を誉められたことがないあたしの数少ないいいところを、一生懸命伝えてくれる子やってん。
『美沙絵はほんまは甘ったれやねんから、そないにきばって強がらんかったらええのに。ま、私はあんたのそういうとこ、嫌いやないけどね』
そんな風に、そのまんまのあたしでもええよ、言うてくれる、数少ない親友やった。
そういう大人っぽい考え方は、見た目にも出てて落ち着いとる。いつもあたしとつるんでいると、姉妹と間違えられるくらい、実年齢より二歳は上に見られんねん。流行を追わない、元々落ち着いた子やさかいに、周りがミニスカート大流行の時期でも、膝ちょい上のタイトスカート、とか、不況だからと茶や黒が流行りなんてニュースで言うとっても、自分の好きなグリーンやオレンジに拘る、とか。ある意味で、憧れでもある奈々子やった、あたしにとって。
あ、微妙に歪んでる思考や、あたし。過去形で脳内会話しておるし。だって……。
「何で、広志と奈々子が並んでそこで説明を受けてるんやっちゅーねん……」
催事場の柱の影から、あたしは相談コーナーに二人仲良く並んで座っている広志と奈々子の姿を凝視しながら、そないな疑問をぐるんぐるんと廻らしていた。
あ、タコ広志め。何照れ笑いして頭掻いてんねん! 何それ、どういうこと? あたしと会うのは忙しくて、奈々子と会う時間は何ぼでも調整つく、言うことなんか?!
奈々子も奈々子や。それならそれで、はっきり教えてくれた方がよかった。恋愛に後先なんか関係ない、いうことくらい、何ぼあたしかて理解してる。そんなんで友達やめたりするほど子供のつもりはないし。こないな想いするんやったら、高校の時、奈々子に広志を紹介なんかするんやなかった。『私も彼氏が欲しいな~』言うてたさかいに、広志の友達を紹介してもらおう思うてまずは広志を紹介したのに。
「うがーっ! あたし、今ごっつ性格悪いこと考えたあああ!!」
あ? びり……?
「あ……美沙絵」
「お、お客様っ、展示品を破るのはお止め下さいっ!!」
驚いて振り返った奈々子と係員の慌てふためいた声で、自分が展示してあったドレスの裾を引き千切っていたことに、あたしはようやく気づいてん――最低最悪の極みっちゅー奴や。そして。
「美沙絵……みさえ――っっっ!!」
KY、俗に言う『空気読めない』を具現化したタコ広志が、罪悪感の欠片もなさそうな顔をして、椅子から立ち上がったかと思うたら、速攻で走り寄って来た。
「うわー、何か久しぶり過ぎてうれ――」
――ゴキ……っ。
「美沙絵ちゃん……痛い……」
「取り敢えず、蹴りかまさな気が済まへんさかい、話は後や。タコ広志」
あたしの踵落としを肩に食ろうてうずくまる広志を見下ろしそう言ってから、今度は奈々子に向き直った。
「奈々子、あんたにも話があるさかい、ちょっと顔貸してぇや」
奈々子の笑顔が、初めて消えた。眉間に深い皺が寄る。久しぶりに見た、怒った顔。でも、それって逆切れと違う? 怒りたいのはあたしの方や。黙って二人でこそこそと、何かそういうのは汚い、と思う。
そんなあたしの内心を、もう奈々子は読み取ってはくれないくらいに心が遠く離れてしもうたんやろうか。
「人が黙っとったら益々暴走しとるし。話の前に、あんたが破ったそのドレス、値札をよく見てみぃさ。どないするつもりやのん?」
そんな現実的なことをあたしに言った。って、何、この値段!
「八十万円?!」
怒りが引っ込んだあたしの顔色は、きっとその隣に展示されていた青いカクテルドレスといい勝負だったに違いない。
広志が銀行から現金を下ろし、それの支払いと言って主催者に謝罪してくれた。幸いなことに、その誠意だけで充分と買取を免れる事は出来てんけど。
「すみません。この二人には私からきつく言うておきますんで、ドレスの購入頭金として、お金を納めさせてやって下さい。でないとこの二人は、いつまでもぐだぐだ言うてばかりで実行に移されへんからこっちが敵わへんのですわ」
奈々子がそう言って、勝手にドレスの予約購入頭金として領収証を書かせてしまった。もうあたしには、何が何だか解らへん。
大歩道橋の片隅を占拠して、三人で頭をつき合わせてぼそぼそと話し合う変なあたしら。
「あんた達ね、お互いに何で私に愚痴って来るのん? 言う相手が違う、って何回言うたら解るんよ」
奈々子はそう苦言を口にし、今日の出来事の経緯をあたしに話した。
広志が奈々子に愚痴った悩み事。『結婚する事しか考えてなかった』ので、その後の出産養育費の貯金が全然足りない、新居の事も考えていなくて、プロポーズしたのはいいけれど、あたしを生活苦に追いやりそうで、なかなかあたしの両親に挨拶に行けない、ということだった。
「私が今日広君に付き合うたんは、男が一人でああいうところをうろつくのは、気恥ずかしくて出来ないから。美沙絵と行きなさいよ、言うたら、全部を調べて把握するまでは、生活に自信がなくて言いにくいとか言うてるし」
奈々子はそこまで話すと、深い深い溜息をついた。その隣で、真っ赤な顔をして汚い歩道橋のゲロ痕も鮮やかな地べたに正座をしている広志が、ばつが悪そうに頭を掻いてた。
「え~っと……奈々ちゃんも、美沙絵も、ごめんなさい」
暴走イノシシ、それはあたしの代名詞。いつも奈々子がそう言うてる言葉を、あたしは初めて実感した。最低だ、奈々子や広志を疑うなんて。
「奈々子……ごめん。あたし、最低」
だけど、奈々子は、笑ってくれた。いつもの様な「しょうがないなぁ」という顔をして。
「そりゃ疑いたなるよねぇ? 何で疑うたんか、ちゃんと広君に今日こそ伝えなはれ~。私も、そうそういつまでもあんたらに当てられてばかりいられませ~ん。ちゃんと直接お互いに自分の思うとることは伝えなあかんで?」
そう言うて立ち上がったかと思うたら、いきなり携帯で電話を掛け出した。
「あ、麓朗? 用事済んだから、逢ってもやってもいいよー」
「ええええええ?!」
「麓ちゃん?!」
あたしと広志の声が被った。そらそうや。この、聡明とも言える奈々子が、あのストーカー・麓朗と交流があるだなんて。しかも、東京出身の彼に併せて、奈々子までバリ関東弁。
おずおずと、広志が奈々子に問い掛けた。
「奈々ちゃん、あのさ……麓ちゃんってさ、えっとほら、美沙絵にほら……」
「はっきり言え」
「ご、ごめんなさい。麓ちゃんって、美沙絵が好きだったんじゃないの? だから僕、美沙絵に麓ちゃんと同じゼミなのは不安だなあ、って愚痴っちゃったから、一時期美沙絵の成績が落ちちゃったりとかしてさ」
「ああ、それね。麓朗の愚痴聞いてる内に、何かこいつは私が鍛え直したらな、思い始めてしもてん。安心しぃ、今は私のシモベやさかい」
恐るべし、奈々子。そんな話、あたしはこれっぽっちも聞いへんかった。『寛大な彼氏が欲しい』と言っていたのは、彼氏がいないんじゃなくて、バリ束縛ストーカー・麓朗が彼氏だから、なのか。
「何であたしに教えてくれへんかったん?」
何だか奈々子にとってあたしは親友じゃないと言われた気がして、ついそんな風に訊いてしもうた。
「あんた、散々麓の事をストーカーやらきしょいやら言うとったやん。言えますかいな、こんなタイミングでもない限り。あー、でも、ようやく美沙絵に言えてすっきりしたー。ほな、お先っ」
話しながら、届いたメールを見てにやりとすると、奈々子は歩道橋の階段を降りていった。
大歩道橋の片隅で。取り残されたあたしと広志は、呆然とした顔で奈々子を見送った。お互いに、きっと間抜けな顔してあんぐりと大口を開けていたに違いない。だって、ごっつ喉が渇いてひりひりして痛かってんから。
隣の気配が、低い位置になったのを感じた。歩道橋の一番上の段に広志は座り込み、縋る様な眼をしてあたしに言うた。
「美沙絵、もうちょっとだけ、傍にいてくれる? 怒っててもいいから、帰ってしまわないで?」
そう言って、手を伸ばした。だけど、あたしの手を引き寄せてはくれない。いつもそうやねん。あたしは、それがすごく寂しい。
その手を無視して、いかにもしょうがないという素振りで隣に腰掛けた。まだ、あたしは奈々子の忠告を無視して、素直になれないままでいた。
「考えなしにプロポーズしちゃって、ごめんね。披露宴と新婚旅行に行ったらすっからかんで住むトコもありませんでした、なんてことじゃあ、特に美沙絵のお父さんに反対されちゃうと思ったんだ。美沙絵は何だかんだいっても親孝行だから、お父さんに反対されたら、美沙絵を困らせると思って、貯金が足りないなんて言えなかった。へたれなまんまで、ホントにごめん……」
それを聞いて、あたしはだらりと伸ばしていた足を引き寄せて、膝を抱えて顔を埋めた。だって、泣き顔なんか見られたない。あたしのことを誰よりも解ってくれてるのが嬉しくって、泣けた、なんて解ったら、また広志は安心してあたしをほったらかすと思うたから。
「美沙絵ってさ、女の子が欲しいでしょう? 学生の頃、一緒にバイトしてた時、いっつも女の子のお客さんに懐かれてたもんね。好きってオーラが出てたもの。子供ってすごくそういうのに敏感だからさ、すぐに解ってくれちゃうんだ。でもさ、僕は男の子が欲しいんだよな。女の子ってお嫁に行っちゃうから寂しいじゃん? でもさ、異性の兄弟って、一人っ子同士みたいになっちゃうんだって会社の先輩から聞いてさ。そしたら、四人も美沙絵に産んでもらわなくちゃならない。予算とか調べてみたら、何か全然僕の今の貯金じゃあ足りなくって――」
「って、ちょと待てぃっ! ストップ――っっっ!!」
な、何言うてんねん、このタコ広志! 何を一人で勝手に人生設計立ててんねん!
「あ。美沙絵、真っ赤。何、もしかして、熱出ちゃったとか?」
とんちんかんのへたれ広志は、真顔でそんなことを言うと、垂れた目に心配の色を浮かべて、あたしの額に手を当てた。咄嗟にその手を払い除ける。
「あ……ごめんなさい」
あ、やめてぇなその顔、切な過ぎる。こちらまで嗚咽が漏れてしまいそうなほど苦しげな顔で眉間に皺を寄せ、広志はその手を引っ込めた。丸めた背中のラインが妙に哀しい。
「うん、僕の独りよがりだった、って解ってる。奈々ちゃんにもそう叱られたんだ。ちゃんと美沙絵と話をしろ、って。ただ、僕はどうしても、昔の自分に戻りたくないんだ。頼りなくってふらふらしてて、先を考えないで毎日過ごしてた大学生の頃みたいな僕は、嫌い。いつか美沙絵に呆れられちゃうって思うと怖いから、ホントは寂しがり屋さんの美沙絵が、『寂しい』って素直に言えるくらい強い男になりたいから、しっかりしてる自分になって、それから美沙絵にちゃんと話したかったんだ」
呆れないで、と呟く広志の横顔は、とても不安げで、昔のへたれな広志に戻っていた。
アホやな、広志。ずっと前から言うてるやん。そういう広志も込みで好きやねん、って。
そっと広志の大きな手の平に、自分の手を滑り込ませて、きゅ、と握った。指と指を絡めて、きゅ、とする。その感触が、すごく、好き。
「アホやな、広志。へたれの頃から付き合うてるやん。何で今更そないなこと言うてんのん?」
何か我ながらいい雰囲気や。勢いで、奈々子の言う通りちゃんと自分で思うてることを今日なら広志に言えるかも知れへん。
そんな淡い期待をさくっと裏切るように、広志が絡めた手をそっと引いた。
「無理しなくていいよ、美沙絵。いっぱい我慢させてごめんね。触れられても平気になるくらい、僕がもっと強くなるから、昔みたいに、心の底から楽しそうに笑っていて。ね?」
え? え? え? ちょ、何? 言うてる意味が解らへん。
「昔から言ってたじゃない? 『あたしより弱い男なんかに触られるのも嫌や』って」
まだ僕がへたれだから、僕が触れる度に美沙絵はそんな悲しそうな顔をして我慢してくれていたんでしょう、とこっちの苦悩とは真逆の言葉を広志は言った。本気で言うてるのは、広志の今にも零れそうに潤んだ瞳が語っていた。
ちょい待ち、じゃ、何? 今まであたしが苦悩しとった、いつまで経っても子供扱いやとか、ちゅうしかしてくれへんとか、あれもこれもそれもどれも……。
「全部あたしの昔の一言を引きずって勝手に誤解しとった、言うことなんか――っっっ!」
「え? ごか……?」
に、二年近くも、お互いに勝手に妄想してはへこんで悩んで全然距離も縮まらず進展もなく結婚の「け」の字も進まなく……。あほらしさの余り、二年分の怒りがこみ上げて来た。立ち上がった勢いのまま、怒り叫び狂うあたしは、もう二度と思い出したくないことをわめき散らしていた。
「ひとっ言も何も言わんと、お互いに勝手に悶々としとって、二年も無駄に費やしてしもたやないか! 男二人女二人とか勝手に人生設計する前に、何であたしを女にしたろとかいう男気見せへんかってん! こっちはなっ、やっぱ東京の女の方がええんとちゃうやろか、とか、子供臭い女は女やないんやろか、とか、結婚諦めて仕事見つけなあかんやろかとか、むっちゃ自分、アホみたいやん! 勝手に妄想する前に実力行使して見せんかいっ! このタコ広志!!」
そして、二年分の悶々を広志にぶつけてやった。
ちょ――きもち――っっっ!! せや、これがあたしらしいあたしやないか!
大歩道橋の片隅で、人気を忍んで話していたはずのあたし達。
いつの間にか周囲にはたくさんの人だかりが出来ていて、「ひゅ――っ!」と冷やかす野次馬達の真ん中で、歩道橋の最上段に腰掛けていた広志を馬乗りになって押し倒し、彼の唇を強奪しているあたしがいた。勿論それは駅構内にある交番に通報され、あたしらは警察に連行されたに決まっている。
交番でこっぴどく叱られて、ようやく解放されたのが午後十時。両方とも成人の証明が出来たので、親に連絡されずに済んだのが何よりもありがたいことやった。
「ごめん、発情してしもた」
どう言っていいのか解らず、思い切りストレートに言ってしまう自分が情けない。どちくしょうめ。もっと女らしい言葉を身につけておくんやった、と今更悔やんでも遅かった。
広志は、真っ赤な顔をしてぎこちなく手を握ってくれている。初めて、彼の絡めた指が力を込めて、あたしの細い指を包んでくれた。
「僕こそ、ごめんね。美沙絵に恥を掻かせちゃった」
そう言うと、あたしのバッグの外ポケットにぶら下がっている携帯のストラップを摘まんで、あたしの携帯電話をぴこぴこといじった。一体何をするつもりなんやろ?
「あ、お母さんですか? 広志です。明日、二人でお母さんにご相談したいことがあるんですけど、ご都合はどうでしょうか。お母さんのアドバイスを戴いてから、後日お父さんに改めてと思ってるんですが、取り急ぎ今夜は美沙絵をお預かりしてもいいですか?」
うぉ、広志、またそうやって自分で勝手に話を進めるっ! でも、ちょっとこういうのは嬉しいかも。
広志は母さんと幾つかの言葉のやり取りをすると、電話をあたしに手渡した。
「美沙絵、顔が真っ赤だ。やらしい事考え過ぎ。今後の事、ちゃんと今夜は話し合おう」
そういう広志も、面映い表情で周囲の人より随分と朱に染まった頬をしてた。あたしは、こくりと頷いて電話を握る。電話の声の主のリアクションは、やはりあたしの母らしいものだった。
『やっと広クンを引っ捕まえたか、このぼんくら娘は。全く、こっちは冷や冷やしてたっちゅうねん。ご近所にはもう息子や言うて触れ回っとるさかい、今更広クンに逃げられたらこっちが恥掻くっちゅうねん。しっかり手綱を自分に括って来ぃや!』
と一方的に電話を切られた。これが娘を持つ母親の言う台詞か?
「お母さん、何だって?」
そう問いながら、本当は全部筒抜けで聞こえてた癖に。
「広志に手綱を括って来い、って」
もうとっくに手綱がついてるのにねぇ、と笑いながら肩を抱く手があったかかった。
今日、あたしはいろんなことを卒業する。
黙り込んで我慢して、顔色を伺う自分を卒業するねん。子供のあたしを卒業するねん。これから、広志と一緒に歩いてく為に、ちゃんと何でも話し合って、ええ恰好しぃをせんと、素直な自分になって広志と一緒に同じ道を歩いてく。
そんな臭い台詞をぽつりと言ったら、広志はくすりと笑ってくれた。
「少しでも早くずっと一緒にいられる方法を、今夜は一緒に考えようね」
そして、もう一度あたしに言うてくれた。「ずっと僕の世話女房でいてね」って。