雨の日にしか開かない花屋の店主を『変わり者』と婚約破棄した元婚約者が、後悔した時にはもう遅い
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あらかじめご了承の上、お楽しみください
「雨の日にしか開かない花屋なんて、商売する気がないのと同じよ」
高城家のリビングに、その言葉が冷たく響いた。
窓の外では六月の雨が静かに降り続いている。私——瀬尾雨音は、正面に座る女性の顔を見つめながら、心の奥でゆっくりと息を吐いた。
高城絹代。婚約者・誠一の母親であり、今日この「顔合わせ」という名の品定めを仕切る女性。シャネルのスーツに身を包み、完璧に整えられた髪、隙のない化粧。その目が私を見る視線には、最初から値踏みするような色しかなかった。
「ねえ誠一、この方のお店、見たことある? 雨の日にしか開かないのよ? 信じられる?」
絹代は息子に同意を求めるように首を傾げる。誠一は困ったように眉を下げ、私と母親の間で視線を泳がせていた。
(ああ、この人は何も言わないんだな)
三年間の婚約期間で、私はとっくに知っていた。誠一という男は、母親の前では決して自分の意見を言わない。言えない。仕事の愚痴を聞いてほしい時だけ私に電話をかけてきて、孤独を埋めてほしい時だけ優しい顔を見せる。けれど、私の仕事について、私の店について、一度でも興味を持って尋ねてきたことがあっただろうか。
——ない。
一度も、ない。
(ええ、商売する気なんてありませんから。だってこの店は、あなた方のような人のためにあるわけじゃないので)
心の中でそう呟きながら、私はテーブルの上の自分の手を見つめた。花を扱う仕事で荒れた指先。ネイルもしていない、地味な手。きっと絹代の目には「手入れもできない女」として映っているのだろう。
「高城家の嫁として恥ずかしいわ。誠一、こんな変わり者との婚約は考え直しなさい」
「……母さんの言う通りだ」
誠一が口を開いた。
顔を上げると、彼は決意したような、それでいてどこか安堵したような表情を浮かべていた。
「雨音、悪いが婚約は白紙にさせてくれ」
三年間。
彼の仕事を支え、彼の愚痴を聞き、彼の孤独を埋めてきた三年間が、たった数分で否定された。
窓を打つ雨音が、やけに大きく聞こえる。
私は——静かに微笑んだ。
「わかりました」
その言葉が、こんなにも軽やかに出てくることに、自分でも少し驚いた。
「……え?」
誠一が目を見開く。もっと取り乱すと思っていたのだろうか。泣いて縋ると?
「お元気で、高城さん」
私は立ち上がり、浅く頭を下げた。絹代が何か言いかけたが、私はもう振り返らなかった。
玄関を出ると、六月の雨が私を迎えた。傘を差さずに数歩、歩く。冷たい雫が頬を伝い、髪を濡らしていく。
(ようやく、解放される)
灰色の空を見上げながら、私は深く息を吸った。雨の匂い。土の匂い。花が目覚める匂い。
高城誠一は最後まで知らなかった。私の「雨待草」が雨の日限定である本当の理由を。私が何者であるかを。
——雨花師。
雨の日にだけ咲く幻の花々を育てる、日本に三人しかいない特殊な花卉栽培士。私が育てる「涙雫草」は一輪で五十万円。大切な人を亡くした遺族の心を癒す「雨宿百合」は、予約が三年待ち。
皮肉なことに、高城家の祖母——高城ハナは、十年来の私の顧客だった。彼女の頑固な不眠症を和らげていたのは、他でもない私の花。誠一も、あの母親も、そのことを知らない。
(知る必要もない。もう、関係のない人たちだから)
私は傘を取り出し、静かに歩き出した。
雨の日は、私の季節。
悲しみを抱えた人のために、今日も花を咲かせよう。
祖母から受け継いだこの手で、この技術で、必要としてくれる人のために——。
◇
高城家のリビングでは、雨音が去った後も沈黙が続いていた。
「あっさりしてたわね」
絹代が紅茶のカップを手に取りながら言う。その声には勝利の響きがあった。
「まあ、身の程を知っていたのでしょう。高城家の嫁になれるような器じゃなかったのよ、最初から」
「……そうだな」
誠一は曖昧に頷いたが、どこか落ち着かない気持ちを抱えていた。あまりにもあっさりと受け入れた雨音の顔。最後に見せた、あの静かな微笑み。
(なんだ、あの顔は)
悲しみでも、怒りでもなかった。まるで——そう、まるで長い幽閉から解放された人間のような、晴れやかな顔。
「誠一、聞いてるの?」
「ああ、聞いてる」
「次はもっとマシな相手を見つけなさい。高城家に相応しい、ちゃんとした家柄の——」
母の言葉を聞き流しながら、誠一は窓の外を見た。
雨は止む気配がない。
三年間付き合った女の顔が、すでに霞み始めている自分に気づいて、誠一は小さく首を振った。
(代わりはいくらでもいる)
そう思った。その時は、確かにそう思っていた。
高城家の二階、祖母・ハナの部屋では、枯れかけた一輪の花が静かに萎れていった。誰も気づかないまま——。
◆
婚約破棄から一週間が過ぎた。
七度目の雨が降った日、「雨待草」は静かに開店した。
古い木造の店舗は、祖母の代から六十年以上この場所にある。苔むした石畳のアプローチ、蔦の絡まる外壁、そして雨樋から落ちる水音。晴れの日には気づかれもしない地味な建物が、雨の日だけ、どこか幻想的な空気を纏う。
私は店内の花々に霧吹きで水をやりながら、今日の予約を確認していた。
十時に涙雫草の受け取り予約が一件。十四時に雨宿百合の相談が一件。それだけだ。雨の日にしか開かない店に、予約なしで訪れる客は稀。
——のはずだった。
十一時過ぎ、店の扉が軋んで開いた。
「いらっしゃいませ」
振り返った私は、一瞬、言葉を失った。
雨に濡れた黒髪。深い色のコートの肩にも水滴が光っている。傘を持っていないのか、あるいは差すことすら忘れていたのか。
三十代前半だろうか。長身で、整った顔立ちをしている。しかし私の目を引いたのは、外見ではなかった。
その瞳だ。
深い、深い悲しみを湛えた目。まるで出口のない海の底を泳いでいるような——。
(この人は、大切な人を亡くしている)
花を見つめる時のように、私は彼の「萎れ具合」を見抜いていた。表面上は冷静に見えても、内側ではまだ傷口から血が流れ続けている。そういう人特有の空気があった。
彼は店内をゆっくりと見回した。涙雫草の淡い青、雨待蓮の透明な白、雨降草の銀色の葉。雨の日にしか咲かない花々が、薄暗い店内で静かに光を放っている。
「……雨宿百合を、分けていただけませんか」
その声は低く、静かだった。
「予約はされていますか」
「いいえ」
「申し訳ありません。雨宿百合は三年待ちです」
普通の客なら、ここで諦めるか、値段を吊り上げて無理を通そうとする。しかし彼は違った。
「構いません。待ちます」
その言葉には、虚勢も焦りもなかった。三年でも五年でも十年でも、本当に待つつもりなのだと伝わる、静かな決意。
私は彼をもう一度見つめた。
「……どなたかを、亡くされましたか」
失礼な質問だと分かっていた。けれど、この店を訪れる人には聞かなければならない。悲しみの深さを知らなければ、適切な花を選ぶことができないから。
彼の瞳が、僅かに揺れた。
「妹を。三ヶ月前に」
「……病気で」
「ええ。生まれつき体が弱くて。長い闘病の末に」
言葉少なに、けれど搾り出すように、彼は答えた。
「あなたの花の噂は、妹から聞いていました」
「妹さんから」
「入院中に、見舞いの方から花をもらったそうです。『雨の日だけ開く花屋があって、そこの花を見ると関節が楽になるの』と。馬鹿馬鹿しいと思っていました。オカルトじみた話だと」
彼の声が、少し震えた。
「でも今は」
「——信じたいのですね」
私の言葉に、彼は小さく頷いた。
「ええ。……何でもいいから、信じたい。妹があの花を見て、少しでも楽だったのなら。苦しみが、少しでも和らいでいたのなら——」
声が途切れた。
雨音だけが、静かに店内を満たしている。
私は奥の冷蔵庫に歩み寄り、鍵を開けた。そこには、今朝咲いたばかりの涙雫草が一輪、水の中で静かに揺れていた。
涙雫草。
雫のような形をした青い花弁は、光の加減で色を変える。悲しみの涙を受け止め、穏やかな眠りへと誘う花。祖母が三十年かけて品種改良を重ね、私が引き継いで完成させた「雨待草」の看板商品だ。
一輪、五十万円。
けれど——。
「こちらを」
私は彼の前にその花を差し出した。
「妹さんへの手向けに。代金は結構です」
彼の目が大きく見開かれた。
「……なぜ、そこまで」
当然の疑問だろう。初対面の、予約もしていない客に、五十万円の花を無償で渡すなど、商売として成り立たない。
けれど私は、この花を売るために育てているのではない。
「悲しみは、値段をつけるものではないので」
祖母の言葉が、私の口から自然と出た。
『あのね、雨音。この花はお金のために作るものじゃないの。悲しみを抱えた人のために作るの。だからね、本当に必要としている人には、お代なんていらないのよ』
十五年間、祖母は私にそう教え続けた。
彼は花を受け取り、その青い花弁を見つめた。
沈黙が流れる。
雨の音。花の香り。薄暗い店内に満ちる、穏やかな空気。
やがて——彼の目から、静かに涙がこぼれた。
声を上げずに、ただ黙って、水のように透明な涙を流す。三ヶ月間、きっと人前では見せなかったであろう涙を。
私は何も言わず、ただそこに立っていた。
悲しみを抱えた人に必要なのは、慰めの言葉ではない。ただ、悲しむことを許してくれる場所と時間なのだと、私は知っている。六歳で両親を亡くした時、祖母がそうしてくれたように。
どれくらい時間が経っただろう。
彼は袖で目元を拭い、深く頭を下げた。
「……ありがとう、ございます」
その声は、先ほどまでとは違っていた。まだ悲しみは消えていない。けれど、どこか——少しだけ、息がしやすくなったような。
「名刺を置いていきます。いつか、お礼をさせてください」
テーブルの上に置かれた名刺を見て、私は内心で小さく驚いた。
『水無瀬ホテルズ 代表取締役社長 水無瀬蒼』
老舗ホテルチェーン。ニュースで聞いたことがある名前だ。若くして経営を引き継ぎ、業績を伸ばしているやり手の経営者——。
「お気持ちだけで充分です、水無瀬さん」
「いいえ」
彼は——水無瀬蒼は、静かに、けれど強い光を瞳に宿して言った。
「あなたは知らないのでしょうが、僕はこの三ヶ月間、まともに眠れていませんでした。食事も喉を通らない。仕事中も妹のことばかり考えている。経営者として、このままではいけないと分かっていても、どうすることもできなかった」
雨音が、窓を打つ。
「でも今、この花を見ていると——少しだけ、楽になれる気がするんです。馬鹿馬鹿しいと思っていたのに。妹の言葉を、もっと早く信じていればよかった」
「……妹さんは、きっとあなたに会いに来てほしかったのでしょうね。この店に」
私の言葉に、蒼は目を見開いた。
「だから、あなたにこの店のことを話した。いつか、お兄さんが悲しみを抱えた時のために」
蒼の瞳が揺れる。
「澪は……そんなことまで、考えていたのか」
「分かりませんけど」私は小さく微笑んだ。「でも、大切な人のことは、分かるものですから」
蒼は花を抱きしめるようにして、もう一度頭を下げた。
「必ず、また来ます。雨の日に」
「……お待ちしています」
彼が店を出ていく背中を見送りながら、私は不思議な気持ちになっていた。
三年間、誠一と一緒にいて、一度も感じたことのない感覚。
この人は——私の花を、私の仕事を、理解してくれるかもしれない。
窓の外では、雨が降り続いている。
祖母がよく言っていた。『雨の日に出会う人は、特別な縁があるのよ』と。
(まさか、ね)
私は首を振り、仕事に戻った。
まだ、次の予約が待っている。
◆
同じ頃、高城家では異変が起きていた。
「お義母様、大丈夫ですか。また眠れなかったんですね」
絹代は形ばかりの心配を口にしながら、義母・ハナの部屋を訪れていた。
八十二歳のハナは、ベッドの上で疲れた顔をしている。目の下には深い隈があり、頬はこけ、明らかに衰弱が進んでいた。
「最近、どうしても眠れなくてね……」
ハナの声は掠れている。
「お薬は飲んでいらっしゃるんでしょう? 先生にも相談して、強いものに変えていただいたのに」
「薬を飲んでも、駄目なの。前は……前は、あの花を飾っていると、自然と眠れたのだけど……」
「花?」
絹代は訝しげに部屋を見回した。窓際の花瓶には、枯れかけた花が一輪。茶色く萎れた花弁が、哀れに垂れ下がっている。
「まあ、お義母様。こんな枯れた花をいつまでも飾って。片付けますね」
「いけません!」
ハナが珍しく声を荒げた。絹代は驚いて手を引っ込める。
「この花は……捨てないで。まだ……まだ、少しだけ、香りがするから……」
ハナは枯れた花に手を伸ばし、慈しむように撫でた。
絹代には理解できなかった。たかが花に、なぜそこまで執着するのか。
「次はいつ届くの。この花は、いつ届くの……」
「はあ? 何をおっしゃっているんですか。花なんて、お花屋さんに行けばいくらでも——」
「違うの!」
ハナの目に、切迫した光が宿る。
「あの店でなければ駄目なの。雨の日にしか開かない、あの——」
雨の日にしか開かない。
絹代の眉がぴくりと動いた。どこかで聞いた言葉だ。ああ、そうだ。あの女、誠一の元婚約者が経営していた店——。
「……お義母様、まさか『雨待草』という店ですか」
「知っているの! ああ、よかった。絹代さん、お願い、あの店に連絡を——」
「あのような店に、高城家の人間が花を注文するなんて」
絹代は冷たく言い放った。
「商売気のない変わり者の店ですよ。お義母様がどうして御存知なのかは分かりませんが、あんな非常識な商売をしている店、関わる必要はありません」
ハナの顔が蒼白になった。
「絹代さん、あなた、あの店の何を知っているの……」
「充分です。雨の日にしか開かない店が、まともなわけがないでしょう。さあ、この花は捨てますからね」
絹代は花瓶ごと花を取り上げ、部屋を出ていった。
残されたハナは、震える手で口元を押さえた。
(雨花師の花が……なくなってしまう……)
十年前、偶然入った店で、ハナは雨音と出会った。若い店主は祖母から店を引き継いだばかりで、けれどその花は、長年ハナを苦しめてきた不眠症を嘘のように和らげた。以来、定期的に花を届けてもらっていた。
「瀬尾さん……」
ハナは知らなかった。孫の誠一が婚約していた相手が、あの店の店主だったことを。そして、その婚約が先日破棄されたことを。
◇
一週間後。
ハナの容態は急激に悪化した。
「誠一、お祖母様が倒れたわ。病院に運ばれて——」
母からの電話を受けた時、誠一は会社にいた。慌てて病院に駆けつけると、祖母は集中治療室に運ばれていた。
「不眠症から来る疲労と衰弱、それに軽い脳梗塞を起こしかけています」
医師の説明は深刻だった。
「ご高齢ですし、もともと睡眠障害を抱えていらっしゃった。最近になって急激に悪化したようですが、何か環境の変化は?」
「いえ、特には……」
母が首を振る。誠一も心当たりがなかった。
数日後、ハナの意識は戻ったが、衰弱は著しい。
誠一が見舞いに行くと、祖母はか細い声で言った。
「雨待草の……花を……」
「雨待草? お祖母様、それは——」
「あの花がないと……眠れないの……十年間、ずっと……」
十年間。
誠一の頭の中で、何かが繋がりそうになる。
「お祖母様、その店の名前、もう一度——」
「雨待草……雨の日にしか、開かない……瀬尾さんの、花を……」
瀬尾。
雨の日にしか開かない花屋。
誠一の顔から血の気が引いた。
(まさか、雨音の……?)
慌てて祖母の部屋を調べると、引き出しの奥から領収書が見つかった。「雨待草」の名前と、瀬尾雨音の署名。そして、花の名前——「涙雫草」「雨宿百合」——と、その価格。
一輪、五十万円。
予約、三年待ち。
誠一は呆然とした。
(あいつが……あの地味な花屋が……)
「変わり者」「商売する気がない」と馬鹿にしていた店が、一輪五十万円の花を作り、三年先まで予約が埋まっている店だった。
そして何より——祖母の命を支えていたのは、他でもない、自分が捨てた女だった。
「嘘だろ……」
誠一は震える手で携帯を取り出した。雨音の番号はまだ残っている。
呼び出し音が鳴る。何度も、何度も。
——繋がらない。
「くそっ」
直接行くしかない。だが——雨の日にしか開かない店に、晴れの日に行っても意味がない。
空を見上げる。皮肉なほど晴れ渡った、六月の青空だった。
◆
その日、ようやく雨が降った。
誠一は傘もろくに差さず、記憶を頼りに「雨待草」を目指した。住所は調べていたが、実際に来るのは初めてだった。三年間の婚約期間中、一度も。
古びた看板。苔むした石畳。蔦の絡まる小さな店舗。
(こんな場所に、本当に……)
半信半疑で扉を押す。
かすかなベルの音と共に、花の香りが誠一を包んだ。
淡い青、透明な白、銀色の葉。見たことのない花々が、薄暗い店内で静かに光を放っている。それは誠一がこれまで見てきた「花屋」とは、まるで違う空間だった。
「いらっしゃいませ」
聞き覚えのある声。
振り返ると、雨音がいた。
以前より——いや、以前とは別人のように見えた。相変わらず化粧気のない素朴な顔立ち、無造作に結んだ黒髪。けれど、纏う空気が違う。堂々として、穏やかで、この空間の主としての風格があった。
「……雨音」
誠一が声をかけようとした時、奥から別の人物が姿を現した。
長身の男。黒いセーターに、花ばさみを手にしている。雨音の隣に立ち、自然に寄り添うような立ち位置で、誠一を見つめていた。
「お客様ですか」
男の声は低く、穏やかだが、どこか有無を言わせない響きがある。
「いや、俺は——雨音、話がある」
誠一は男を無視して雨音に詰め寄ろうとした。
「高城様」
雨音の声は静かだった。一ヶ月前と変わらない、穏やかで冷静な声。
「どのようなご用件でしょうか」
「祖母のことだ。お前なら知ってるだろう。祖母がお前の花をずっと……」
「存じております。高城ハナ様には、十年来ご贔屓にしていただいております」
誠一は目を見張った。
「知ってたのか」
「ええ」
「なら、なぜ——」
「高城様は一度もお尋ねになりませんでしたね。私の仕事について、私の店について」
雨音の目が、静かに誠一を射抜く。
「三年間、一度も」
誠一は言葉に詰まった。
「……それは、そうだが……今は祖母の命がかかってるんだ。頼む、祖母のために花を——」
「高城様、ご予約は三年待ちです」
「三年も待てるか! 今すぐ必要なんだ!」
「それに」雨音は淡々と続けた。「私はもう高城家とは無関係の人間ですので」
誠一の顔が歪んだ。
「金なら出す! いくらでも出す! 百万でも二百万でも——」
「お金の問題ではないとお伝えしたはずです」
雨音の声が、初めて冷たさを帯びた。
「あの顔合わせの日、お母様は私の店を『商売する気がない』とおっしゃいました。高城様も『変わり者』だと。その通りです。私は商売のために花を作っているわけではありませんから」
「それは母が——俺は——」
「高城様」
男が一歩前に出た。長身が誠一の前に立ちはだかり、静かに見下ろす。
「彼女は『いらない』と言っている。聞こえなかったか」
その声には、威圧感があった。ビジネスの場で鍛えられた、人を従わせる力のある声。
「あんた誰だよ……」
「水無瀬蒼。この店の常連であり——」
蒼は雨音をちらりと見た。
「——彼女の、大切な友人だ」
誠一は初めて、目の前の男の正体を認識した。水無瀬。水無瀬ホテルズの——。
「なん、で……」
「あなたには関係のないことだ」
蒼の声は穏やかだが、有無を言わせない。
「彼女の花の価値を理解しない人間に、彼女の時間を使わせるつもりはない。帰ってくれ」
「待ってくれ、祖母は——」
「高城様」
雨音が口を開いた。
「お帰りください」
その目には、もう何の感情も浮かんでいなかった。
三年間を共にした相手を見る目ではない。ただの「客」、しかも迷惑な客を見る目。
誠一は初めて気づいた。
自分が何を手放したのか。
雨音がどれほどの価値を持つ人間だったのか。
この男が、わずか一ヶ月で雨音の隣に立っている意味を。
「俺は……俺は、ただ……」
言葉が出てこない。何を言っても、もう届かない。届くはずがない。
誠一はよろめくように店を出た。雨が降り続く中、彼はしばらくその場に立ち尽くしていた。
振り返ると、店の窓越しに、雨音と蒼の姿が見えた。
蒼が何か言って、雨音が小さく笑っている。穏やかで、自然で、あたたかい空気。
三年間の婚約期間中、一度も見たことのない雨音の笑顔だった。
◇
店内では、蒼が困ったように頭を掻いていた。
「……少し、言い過ぎたかもしれない」
「いいえ」
雨音は首を振った。
「ありがとうございます、水無瀬さん」
「蒼、でいい。何度も言ってるだろう」
「……蒼さん」
雨音が名前を呼ぶと、蒼は少しだけ嬉しそうに目を細めた。
「それにしても、三年間も婚約していて、君の仕事を一度も聞かなかったのか。信じられないな」
「興味がなかったのでしょう」
「馬鹿な男だ」
蒼は窓の外を見た。雨に濡れた石畳を、誠一の背中が遠ざかっていく。
「君の花の価値も、君自身の価値も、何も分かっていない」
「……」
「僕には分かる。妹が教えてくれたから」
蒼は雨音を見つめた。
「君は、特別な人だ。雨音さん」
雨音の頬が、僅かに赤くなった。
「……蒼さんこそ、特別です。私の花を、こんなに大切にしてくださる方は初めてですから」
二人の間に、柔らかな沈黙が流れる。
窓の外では、雨が優しく降り続いていた。
◆
それから一年が過ぎた。
水無瀬蒼は、雨の日になると必ず「雨待草」を訪れた。
最初は客として。やがて、花の世話を手伝うようになった。土を触り、水をやり、雨の日にだけ咲く不思議な花々の声を聴くことを学んだ。
閉店後は二人で珈琲を飲んだ。祖母の話、妹の話、花の話、仕事の話。語り尽くせないほどの言葉を交わしながら、少しずつ距離を縮めていった。
「雨音さん」
ある雨の日の閉店後。
蒼は珈琲カップを置き、真剣な目で雨音を見つめた。
「僕と一緒に、新しい店を作りませんか」
「新しい店、ですか」
「僕のホテルの庭に、雨の日だけ開く花園を」
雨音は目を瞬いた。
蒼は熱を込めて語り始めた。
「この一年間、ずっと考えていたんです。妹が生前、あなたの花を見て『楽になった』と言っていた。僕も、この店を訪れるたびに救われている。悲しみを抱えた人が、雨の日に訪れる場所。あなたの花に癒される人を、もっと増やしたい」
「でも……私の花は、大量生産できるものではありません。一人で育てて、一輪ずつ、丁寧に……」
「分かっています。だからこそ、環境を整えたい。あなたが花を育てることだけに集中できる場所を。経営や宣伝は、僕がすべて引き受けます」
雨音は言葉を失った。
これまで、誰かに「助けてもらう」ことを考えたことがなかった。祖母が亡くなってからずっと、一人で店を守り、一人で花を育て、一人で悲しみを抱えた人々と向き合ってきた。
「……私の花は、変わり者の花です」
雨音は俯いた。
「雨の日にしか咲かない。世間から見れば、非常識で、効率が悪くて、商売になんてならない——」
「僕にとっては」
蒼が、そっと雨音の手を取った。
「世界で一番美しい花です」
雨音の目が、大きく見開かれる。
「あなた自身も」
蒼の声は静かだが、深い熱を帯びていた。
「雨の日にしか開かない花屋の店主を、僕の隣で咲かせてくれませんか」
雨音の目から、涙がこぼれた。
声を上げずに、ただ静かに、温かい涙が頬を伝っていく。
「……ずっと」
雨音は震える声で言った。
「ずっと、誰かに認めてほしかった。私の花を。私の仕事を。私を」
「雨音さん」
「誠一さんは、一度も聞いてくれなかった。私が何をしているのか、なぜ雨の日だけ開くのか。当たり前のように、私のことを『変わり者』だと——」
「彼は馬鹿だ」
蒼は雨音の手を強く握った。
「見る目がない。君の価値を理解できなかった男のことは、もう忘れていい」
「……蒼さん」
「僕は違う。僕は君を見ている。君の花も、君の仕事も、君の在り方も、すべてが美しいと思っている。だから——」
蒼は居住まいを正し、改めて雨音と向き合った。
「改めて聞かせてください。瀬尾雨音さん。僕と一緒に、未来を作ってくれませんか」
窓の外では、祝福するように雨が降り続いていた。
雨音は涙を拭い、微笑んだ。
「……はい」
◇
その半年後。
高城ハナは、静かに息を引き取った。
最期まで「雨待草の花を」と繰り返していたという。
遺言状には、こう記されていた。
『瀬尾雨音さんの花だけが、私の十年間を支えてくれました。誠一、あなたが婚約していた方が、どれほど素晴らしい人だったか、分かっていましたか。後悔しても遅いかもしれませんが、せめてお詫びだけは伝えてください』
誠一は遺言を読み、愕然とした。
「代わりはいくらでもいる」
そう思って切り捨てた存在は、実は何物にも代えがたい唯一の存在だった。
詫びようにも、雨音はもう別の世界で幸せに咲いている。
誠一は遺影の前で泣いた。祖母への後悔と、雨音への後悔と、自分自身への情けなさで。
けれど、もう遅い。
すべては、遅すぎた。
◆
二年後、六月。
水無瀬ホテルズのフラッグシップホテルに、新しい庭園がオープンした。
その名は「雨待ちの庭」。
雨の日だけ開く、特別な庭園。涙雫草、雨宿百合、雨待蓮——日本に三人しかいない雨花師が育てた幻の花々が、雨の日にだけ静かに咲き誇る。
大切な人を亡くした遺族。深い悲しみを抱えた人々。彼らが雨の日に訪れ、花を見つめ、静かに涙を流す場所。
「悲しみを癒す聖地」として、全国から人が訪れるようになった。
その庭園の奥で、花の世話をする女性がいる。
艶のない黒髪を一つに結び、化粧気のない素朴な顔。けれどその瞳は雨上がりの空のように澄んでいて、花を見つめる時には柔らかな光を宿す。
彼女の薬指には、雨粒のようなダイヤモンドが光っている。
「雨音」
背後から声がかかる。振り返ると、蒼が傘を持って立っていた。
「もうすぐ閉園時間だ。中に入ろう」
「もう少しだけ。この雨宿百合、明日には満開になるから」
「相変わらず花に夢中だな」
蒼は苦笑しながら、雨音の隣に並んだ。傘を二人で分け合い、肩を寄せ合う。
「ねえ、蒼さん」
「ん?」
「雨の日は、もう悲しくないです」
雨音は空を見上げた。灰色の雲から、柔らかな雨が降り続いている。
「昔は、雨の日が嫌いでした。両親が事故に遭ったのも雨の日だったし、祖母が亡くなったのも雨の日だった。でも——」
「でも?」
「今は違います。雨の日に店を開いて、雨の日に蒼さんと出会って、雨の日にプロポーズされて」
雨音は蒼を見上げ、微笑んだ。
「雨の日は、私にとって特別な日になりました」
蒼は雨音の髪に落ちた雫を払い、額にそっとキスをした。
「僕もだ。雨の日に君と出会えたことが、人生で一番の幸運だった」
二人は寄り添い、雨の中で花々を見つめた。
涙雫草が青く光り、雨宿百合が白い花弁を広げ、雨待蓮が透明な葉を揺らしている。
悲しみを抱えた人のための花。
祖母から受け継いだ技術と想いは、今、この庭園で静かに花開いている。
「……ありがとう、お祖母ちゃん」
雨音は心の中で呟いた。
『雨の日は特別なの。悲しい日でもあるけれど、出会いの日でもあるのよ』
祖母の言葉が、蘇る。
『だからね、雨音。雨の日を大切にしなさい。いつか、あなたにも特別な出会いがあるから』
雨音は蒼の手を握り、空を見上げた。
雨は優しく降り続いている。
祝福するように。
抱きしめるように。
——これは、雨の日にしか咲かない花と、雨の日に出会った二人の、静かな恋の物語。
完




