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ガラス越しの素顔

アルバイトを始めて、二週間が過ぎた。


苺のヘタ取り。計量。洗い物。床の清掃。

最初は一つひとつに神経をすり減らしていた作業も、いつの間にか身体が先に動くようになっていた。


「次、苺ね」

「はい」


恵子の声に、颯太は迷いなく頷く。

指先で器具を滑らせ、一定のリズムでヘタを落としていく。

失敗も減り、作業台の上に並ぶ苺は、どれも無駄なく整っていた。


日常は、確実に加速している。


それなのに——。


夜、自室で立ち上げた作曲ソフトの画面は、二週間前とほとんど変わっていなかった。


未完成のプロジェクト。


途中で止まった歌詞ファイル。


再生ボタンを押しても、何度も聴いたデモが虚しく流れるだけだ。


身体は前に進んでいるのに、音だけが置き去りにされている。


そんな感覚を抱えたまま、迎えた土曜日。

昼過ぎのシフトで、颯太は厨房に立っていた。


洗浄を終えたボウルを片付け、ふと顔を上げる。

ガラス越しに見える店内に、見覚えのある姿があった。


桜庭莉奈。


けれど、制服姿ではない。

淡い色のワンピースに、柔らかく揺れるカーディガン。

髪もいつもよりラフで、頬にかかる後れ毛が、どこか幼さを残している。


隣には、母親らしき女性。

莉奈はその横で、ショーケースを覗き込みながら、小さく笑っていた。


その笑顔は、学校で見せる「近寄りがたい静けさ」とは、あまりにかけ離れたものだった。


——けれど、どこかで見たことがある。


画面の中で、正体を隠して配信を行うステラ。

彼女が配信でふと漏らす、飾らない言葉遣いや、楽しげに弾む声。

誰にも見せていないはずの「ステラの素顔」を、颯太は勝手にそう想像していた。


母親に甘えるように目を細める莉奈の横顔が、記憶の中の、ステラと不思議に重なっていく。


確かな証拠なんてどこにもない。

けれど、今の莉奈の纏う空気が、あまりにステラの声の響きと似ていた。


学校の桜庭莉奈でもなく、ネットの中のステラでもない。


目の前にいる、ただの高校生の女の子。


その実在感に胸を突かれ、颯太はボウルを抱えたまま、金縛りにあったように動けなくなった。


「……おい、颯太。手が止まってるぞ」


背後から声をかけられた隼人の声に、颯太はびくりと肩を揺らして我に返った。


隼人は不審そうに颯太の視線を追い、それから「あぁ」と納得するように声を漏らす。


「また来てたんだ、あの人」


 隼人が、何気ない調子で言う。


「よく来るんだよな。今日は二人か」


ただの、お客さん。

隼人にとって、彼女はそれ以上でもそれ以下でもない。


隼人は「さっさと手を動かせよ」と笑いながら作業に戻ったが、颯太の視線は吸い寄せられるように、再びガラス越しに店内へと向かった。


厨房の排気音と冷蔵庫の唸る音にかき消され、二人の会話はほとんど聞こえない。


ショーケースの前で、莉奈が母親の手を少しだけ引いて、一つのケーキを指差した。

母親が何かを尋ねるように莉奈の顔を見ると、莉奈は「これ」と主張するように何度も深く頷く。


そして、注文が決まったのだろう。

莉奈が母親の顔を見て、ふわりと、花が綻ぶような笑顔を見せた。


誰の目も意識していない、ただ甘いものを前にしただけの、幼く、真っ直ぐな幸福感。


その瞬間、颯太の脳内で、配信の中でステラが漏らす「楽しげに弾む声」が鮮明に再生された。


根拠なんてない。


けれど、あの声はこの笑顔の時に出るものなのだと、颯太は直感的に確信した。


学校で見せる「近寄りがたさ」の裏側に、配信の時と同じ、好きなものを純粋に楽しむ心が隠れていた。


莉奈が、ただの高校生の女の子として笑っている。

その事実が、なぜかたまらなく愛おしく、そして切なかった。


その夜。 帰宅して鞄を置くなり、颯太は自室に飛び込んだ。


これまで、莉奈の孤独や絶望ばかりを言葉にしようとしていた。

でも、今日見たあの笑顔が、すべてを書き換えさせた。


誰にも見せない静かな場所で、莉奈が大切にしている「好きなもの」。

誰にも届かない場所で、莉奈がこっそり零す「喜び」。


指が止まらない。

脳裏に焼き付いた、莉奈のあの無防備な笑顔が、そのまま音符の間に溶け込むように歌詞に変わっていく。

静止していた颯太の時間が、猛烈な勢いで色づき、動き始めた。


気がついた時には、画面いっぱいに文字が埋まっていた。


「……できた」


小さく呟く。

胸の奥で、何かが確かに動いた感覚があった。


それからの数日間は、今まで以上に長く、そして短く感じられた。

学校でもバイト中でも、頭の中では完成したばかりの歌詞が、まだ見ぬ新しい音と共に鳴り響いている。


早く、この言葉をあの音に乗せたい。


焦る気持ちをなだめるように、颯太はひたすらカレンダーの数字を指で追った。

一日の終わり、寝る前に預金残高をスマホで確認しては、あと数日、あと一日と自分に言い聞かせた。


そして、ついにその日がやってきた。


五月の終わり。

給料日。


音源代を全額稼ぐことはできなかったが、手持ちのお金と合わせれば買える。


ATMから吐き出された紙幣を握りしめる。

一枚一枚に、立ちっぱなしの時間と、冷えた指先の感覚が染み込んでいるようだった。


帰宅後、颯太は迷わずパソコンを立ち上げる。

サイトを開き、目当ての音源を探す。


——ストリングス音源。


ずっと欲しかった。

でも、逃げ道でもあった。


クリックひとつで、すべてが変わるわけじゃない。

それを、今の颯太は分かっている。


それでも。


マウスカーソルを、ダウンロードボタンへ合わせる。

一瞬、指が止まる。


高額な買い物に少しビビりながらも、静かにクリックした。


新しい音が、世界に降りてくる。

同時に、もう言い訳はできない場所へ、自分が踏み込んだことを理解する。


画面に表示される進捗バーを見つめながら、颯太は深く息を吸った。


日常は加速している。

音も、ようやく、動き出そうとしていた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


少しでも心に残るものがあれば、


評価やブックマークで応援していただけると嬉しいです。


次回も、よろしくお願いします。

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