星の名を持つ場所で
道端に積もっていた淡い色の花びらは、いつの間にか雨に流されて消えていた。
桜が散り、柔らかな若葉が芽吹き始めた四月。
新しいクラスが始まってから二週間が過ぎても、教室の空気はまだ落ち着かず、窓から吹き込む風だけが、春の終わりと初夏の気配を運んでくる。
登校した二宮颯太は、慣れない廊下を歩きながら、自分の席へと向かった。
環境が変わっても、隣の席が隼人であることだけが、今の颯太にとっては数少ない救いだった。
鞄を机の横に掛けようとした、その時だった。
すでに席に座っていた隼人がスマホから顔を上げ、軽く手招きをする。
「おい、颯太。一応、叔母さんに話は通しといたぞ」
「まじか。助かる」
「今、人手が足りないらしくてさ。『一度連れてきなさい』って。今日、俺これからシフト入ってるけど、放課後、見学だけでも来るか?」
隼人は椅子を鳴らして振り返る。
いつも持ち歩いているスポーツバッグから、微かに甘いバニラの匂いが漂っていた。
「……なんだよ、その匂い」
「昨日の試作。バッグに入れっぱなしだった」
照れくさそうに笑う隼人を見て、颯太は気づく。
この何気ないやり取りの中に、彼が自分より一足先に「外の世界」に足を踏み入れているという事実が、確かに含まれていることに。
「いきなり『今日から働け』って話じゃない。話だけ聞いてみて、無理そうなら断っていい。そこはちゃんと話してある」
隼人なりの気遣いだった。
音楽以外のことに時間を割くことを、颯太がどれほど恐れているかを、隼人はよく知っている。
「……分かった。」
そう答えながら、颯太の視線はノートの端に書かれた小さな数字――六万円を捉えていた。
まだ決めたわけじゃない。
それでも、今のままでは、あの理想の音には決して届かない。
放課後のチャイムを待つ時間は、いつもより少し長く感じられた。
夕方の商店街は、買い物帰りの人々と帰宅途中の学生で賑わっていた。
その一角、少し奥まった場所に、目的の店はあった。
『パティスリー・アストル』
深いネイビーのオーニングに、銀色の文字。
ショーケース越しに並ぶ宝石のようなケーキを横目に、颯太は隼人に導かれるまま、脇の通用口へと向かう。
扉が開いた瞬間、街の喧騒は、甘く濃密な熱気に塗り替えられた。
バターと砂糖の焼ける匂い。煮立つカスタードの湯気。
バックヤードでは、数人の大人たちが無駄のない動きで作業を続けている。
「叔母さん。連れてきたよ」
声に応じて顔を上げた女性――秋元恵子は、穏やかでありながら、すべてを見抜くような視線で颯太を見た。
「二宮颯太君ね。話は聞いてるわ」
歩み寄るたび、清潔な粉の匂いが近づいてくる。
「“アストル”っていうのはね、星のこと。星が寄り添って輝く場所にしたくて、この名前を付けたの」
一瞬だけ柔らいだ表情は、すぐに仕事の顔へと戻る。
「お願いするのは、苺の下処理や計量、後片付け。地味な作業ばかりだけど……細かいことは嫌い?」
「……いえ。慣れてる方だと思います」
自室で音の波形を切り刻んでいる時間が、脳裏をよぎる。
他人には見えない、積み重ねの時間。
「いいわね。お菓子作りも同じよ」
そう言って、恵子は小さく頷いた。
目の前の少年が、自分の部屋で独り、誰にも届かない音を紡いでいることなんて、彼女は知るはずもない。
けれど、その言葉は不思議なほど、颯太の胸の奥底にすとんと落ちた。
「あの……同じ、ですか」
「ええ。完成した時のきらびやかな姿なんて、ほんの一瞬。その裏には、誰にも見られない地味な作業が山ほど積み重なってる。それが楽しいと思えるなら、颯太君、この仕事に向いてるわよ」
恵子はそう言って、作業台の奥にあるステンレスのボウルに視線をやった。
「もし、今の時間に少し余裕があるなら……少し、体験でやってみる? 実際に手を動かしてみた方が、ここで働く自分の姿をイメージしやすいでしょ」
「あ、はい。お願いします」
恵子の提案は、迷っていた颯太の背中を、風のように優しく、けれど断らせない強さで押し出した。
「決まりね。じゃあ、まずはその手を洗ってきなさい。ちょうど、明日のための苺が届いたところだから」
手袋をはめ、苺と向き合う。
ひんやりとした感触と、わずかな弾力。
最初は力加減を誤り、実を削ってしまったが、繰り返すうちに感覚が整っていく。
無心で作業を続けていると、あっという間に一時間が過ぎた。
「初めてにしては、悪くないわね」
恵子はそう言って、冷蔵ケースを指差す。
「あなたが今やった作業の“先”にあるものよ」
そこには、ひとつのホールケーキが静かに置かれていた。
夜明け前の空のような色合い。中央で輝く銀の星。
「『エトワール・ド・ルヴ』。夜明けの星。……どう? 続けられそう?」
颯太は、自分の手袋についた苺の赤を見つめた。
この地道な作業の果てに、あの星があるのなら。
「……はい。働かせてください」
迷いはなかった。
「じゃあな、颯太。明日、学校で」
「ああ、隼人。ありがとな」
パティスリー・アストルの前で、隼人と軽く手を上げ別れた。
次のシフトは来週の月曜日。恵子さんから渡されたカレンダーのメモをポケットに押し込み、颯太は一人、薄暗くなり始めた駅への道を歩き出す。
帰り際、恵子さんが「頑張ったわね」と持たせてくれた試作のクッキー。
紙袋から漏れ出す甘い香りが、心地よい疲れを伴って、春の夜の空気に溶けていく。
苺のヘタをひたすら取っていただけの数時間。
指先は少し冷えて、腰には慣れない立ち仕事の違和感が残っている。
けれど、不思議と嫌な疲れじゃなかった。
(お菓子作りも、同じ、か……)
恵子さんの言葉を思い出す。
あんなに地味な作業の先に、あの『夜明けの星』のような輝きがあるのだとしたら。
颯太が独りで、反響もない画面に向かって音を置き続けるこの時間にも、いつか何か、意味が生まれるんだろうか。
そんなはずない、と自嘲する自分と、もしかしたら、と願ってしまう自分が、胸の中でせめぎ合う。
颯太はスマホを取り出し、無意識にイヤホンを耳に押し込んだ。
再生するのは、画面の向こうで、誰よりも孤独に寄り添う歌声を届ける――ステラの、あの切ない歌声だった。
駅へ続く階段で、颯太はまだ星の見えない空を見上げた。
一グラムの計量。一万回の下処理。
その積み重ねの先に、形が生まれる。
颯太の影が、街灯に照らされて長く伸びていく。
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