形になった音と、形にならない想い
校門を抜け、昇降口で上履きに履き替える。
まだ四月の朝の空気は、肌を刺すような冷たさを残していた。
三階にある二年生の教室へ向かう階段を上るたび、遠くで吹奏楽部が朝練をする楽器の音や、運動部の威勢のいい声が聞こえてくる。
普段の颯太なら、それらの音を「音楽の素材」として無意識に分析していたはずだったが、今日ばかりは自分の心臓の音の方が大きく感じられた。
教室の扉を開けると、そこにはいつも通りの光景が広がっていた。
窓から差し込む斜めの光が、空気中を舞う微かな埃を照らし出している。
談笑する女子グループの笑い声、教科書を机に叩きつける音、誰かが慌てて宿題を写すシャーペンの走る音。
それらの喧騒をかき分けるようにして、颯太は教室の後方、窓際にある隼人の席へと歩みを進めた。
隼人はすでに席についていた。
椅子を大きく後ろに傾け、背もたれに体を預けたまま、スマホのパズルゲームに興じている。
その周囲には、昨日彼がこぼしていた「労働の残り香」のような、独特の気だるさが漂っていた。
颯太は自分の鞄を自分の席へ置くことさえ忘れ、隼人の机の前に立った。
「……隼人。ちょっといいか」
「ん? なんだよ、改まって」
颯太は一度だけ息を吸い、鞄のストラップを握りしめる。
「お前のバイト先……叔母さんの店、人って募集してるか? よかったら、俺を紹介してほしい」
隼人の指が止まり、画面の中で連鎖が途切れた。
「……マジで? お前、放課後は一秒でも長くパソコン触ってたい派だろ」
隼人が呆れたように笑う。
その笑顔の裏には、中学の頃、新しいシンセサイザーのソフト音源を買うために、颯太がお昼のパン代を削ってまで貯金していたのを隣で見てきた記憶がある。
「金が必要なんだ。……どうしても、欲しい音源があって」
「あー……なるほどな」
それだけで話は通じた。
中学の頃から、颯太が小遣いやお年玉を機材に注ぎ込み、古い環境をだましだまし使ってきたことを、隼人は誰よりも知っている。
「分かった。俺から叔母さんに言っとく。今、マジで人手足りてないしな。イチゴのヘタ取りマシーンが欲しいって毎日愚痴ってるくらいだ」
「助かる、ありがとな」
「水くさいこと言うなよ。……ただし、接客とかもあるから、それも忘れるなよ」
冗談めかした言い方だったが、その目は、親友の決断を応援しているようだった。
授業中。
黒板を埋めていく数式が、今の颯太には「波形」や「予算」にしか見えなかった。
数学のノートの端、本来なら公式を書くべき場所に、颯太は無機質な数字を羅列していく。
時給1000円。
六万円の音源を手に入れるために必要なシフト。
土日をすべて潰せば、最速でいつ注文ボタンを押せるか。
シャープペンシルの芯が、計算の熱に耐えかねてパキリと折れた。
――「六月」。
弾き出されたその数字は、あまりに遠く感じられた。
同時に、ノートの別の場所には、五線譜ではない独自の記号で曲の構成(ABサビ、Cメロ)が書きなぐられていく。
教師が淡々と語る二次関数の解説が、まるで一定のテンポで刻まれるメトロノームのように、颯太の脳内でビートを刻み始めていた。
バイトを始めて、給料が出て、音源を買って、仕上げる。
頭の中で逆算した瞬間、背筋が冷えた。
給料が入るのは早くて来月末。そこから詰めると、完成は六月頃になる。
莉奈には、まだ具体的な納期を伝えていない。
――「あなたの曲なら歌う」
その言葉は、無期限の約束ではない。
休み時間。
颯太は廊下の隅でスマホを取り出した。
同じ校舎のどこかに、莉奈はいる。
休み時間の喧騒の中、颯太はスマホの画面を見つめたまま立ち尽くしていた。
画面に表示された「ステラ」のアカウント名。
あの日、屋上で交わした約束がなければ、一生自分とは無縁だったはずの存在だ。
下書きを書いては消し、書いては消す。
「完成は六月になります」
あまりに事務的過ぎて、やる気がないと思われないだろうか。
「待たせてしまって、すみません」
謝ってばかりなのも、頼りなく見えないだろうか。
結局、一番シンプルで飾らない言葉を選んだ。
送信ボタンを押す直前、指先が微かに震えていることに気づき、颯太は自嘲気味に笑った。
十万人のリスナーの一人でしかなかった自分が、今、彼女の人生の時間を予約しようとしている。
その事実が、恐ろしいほど重かった。
校舎のざわめきの中で、自分の鼓動だけがやけに大きく聞こえる。
返事はすぐには来ない。
それが当たり前だとわかっているのに、連絡が来るまで落ち着かない。
直接会ったときに、SNSではなく、普通に連絡先を聞きたかったが、聞く勇気はなかった。
莉奈も同じ気持ちだった。
意外にも数分後、スマホが震える。
『ステラ:大丈夫です。楽しみに待ってます』
短い一文。
けれど、そこには確かな温度があった。
颯太は簡単にお礼を言って、画面を消した。
ゆっくりと息を吐いた。
待っていてくれる。その事実だけで、胸の奥が少し軽くなる。
その夜。
颯太は自室で、ステラの配信を見ていた。
『え、それ捨てるの? じゃあ……ポイ!』
画面の向こうの笑い声が、指先を動かす燃料になる。
まだまだ配信を見ていたい気持ちがあるが、曲作りも進めなければならない。
颯太は、配信画面を閉じ、鍵盤を叩いた。
試行錯誤を重ね、時計が午前二時を回った頃。
ついに、曲の骨格が完成した。
イントロからサビ、アウトロまで。
パズルの最後のピースがはまるような感覚。
「……できた」
仮の音でも、このメロディは確信できる。
あとは、本物の音を乗せるだけ――のはずだった。
颯太は、机に広げたノートを見つめる。
ノートには、書き殴った言葉が地層のように積み重なっている。
――『夜の底で、一人で歌う』 線を引いて消す。
暗すぎる。
――『光る画面の向こう、君を見つけた』 また消す。
あまりにストレートで、彼女の抱える「痛み」が抜け落ちている気がした。
颯太はペンを置き、目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、廊下ですれ違った時の莉奈の、あの「透明な」姿だ。
進路案内のポスターをじっと見つめていた莉奈が、ふいに振り返り、颯太と目が合ったあの一瞬。
慌てて逸らされた視線と、ぎゅっと握りしめられた胸元のリボン。
あの静寂にあった微かな「揺れ」を、どう言葉にすればいい?
一方で、画面の向こうのステラは、世界中の愛を一身に受けているかのように弾けている。
この二つの断絶した世界を、どうやって一本の旋律で繋げばいい?
伝えたい想いが多すぎる。
彼女の孤独を肯定したい。彼女の輝きを称えたい。
けれど、その両方を一曲に詰め込もうとすると、言葉は濁り、形を失ってしまう。
「……今の俺の言葉じゃ、あの子に届かない」
ノートの余白が、冷たく自分を突き放しているように感じられた。
想いが重すぎて、言葉が器に収まらない。
窓の外では、春の夜風がざわめいている。
机の上には、ぐしゃぐしゃになった求人雑誌と、書きかけの歌詞ノート。
隼人が叔母さんに話を通してくれれば、自分の生活は一変するだろう。
音楽以外のことに時間を奪われる不安。
見知らぬ大人たちの中で働く恐怖。それでも、あの「本物の音」を手に入れるためには、立ち止まってはいられない。
旋律の輪郭は、確かに掴めた。
――けれど、彼女の心に触れるための歌詞が、どうしても、書けない。
颯太は重い瞼をこすり、ペンを強く握る。
自分の選ぶ一文字が、いつか彼女の声を借りて世界に響く。
その責任の重さに、震える指先をそっと握りしめた。
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