拒絶と祈り
昼休み、颯太は賑やかな教室を離れ、一人で屋上へと向かった。
耳が聞こえない今の自分と一緒にいても、周りは気を遣うだけだ。いちいちスマホに文字を打たせる手間を考えれば、一人でいる方がいい。
そう自分に言い聞かせ、莉奈が作ってくれたお弁当を広げた。
ふいに、目の前に影が落ちた。
顔を上げると、そこには隼人といろはが立っていた。
隼人は呆れたような顔で、スマホの画面を差し出してくる。
『いつも一人で食ってないで、一緒に食べようぜ』
いろはも隣で、笑顔を見せながら頷いている。
颯太は戸惑いながら、声を絞り出した。
「……でも、俺と一緒にいたら、みんな大変だし。文字打つのだって面倒だろ?」
隼人は鼻で笑うと、迷いなく文字を更新した。
『そんなこと気にすんな。俺が一緒に食べたいから誘ってるんだ。それに――』
一度画面を消し、少しだけ間を置く。
そして、力強い筆致でこう打ち直した。
『俺はお前の耳、絶対治るって信じてるからな』
その言葉を打ち終えた隼人は、一瞬だけ視線を伏せた。
まるで、誰かに約束した言葉を、胸の奥で反芻しているかのように。
視界がじわりと滲む。
いろはも続けて、スマホを差し出した。
『辛いなら、辛いって言っていいんだよ』
それ以上は何も打たず、いろはは小さく笑って颯太を見つめていた。
言えない言葉を、胸の中にそっと仕舞い込んだような表情だった。
「……ありがとう。本当に、ありがとう」
涙ぐみながらそう告げると、隼人はわざとらしく顔をしかめ、スマホに『何泣いてんだよ、ガラじゃねえだろ』と打って画面を突き出してきた。
さらに、照れ隠しに「よせよ、湿っぽくなるだろ」と言わんばかりの苦笑いを浮かべ、颯太の背中をバシッと叩く。
その痛いくらいの衝撃が、腫れ物に触れるような扱いではない、以前と変わらない「親友」としての体温を伝えてくる。
ふと、隼人が颯太の手元にある弁当箱を覗き込み、ニヤリとスマホに文字を打った。
『てかお前が弁当なんて珍しいじゃん。母ちゃん張り切りすぎだろ、これ』
莉奈が作ってくれたことを隠したい颯太は、少し慌てて「……まあ、そんな感じだよ」と顔を背けた。
挙動不審な返答に、隼人といろはは顔を見合わせ、すべてを察したようにクスクスと笑った。
けれど、それ以上は深追いせず、二人はいつものように軽口を叩き合う。
二人はスマホを手に持ちながら、筆談とジェスチャーを織り交ぜながら、昨日見た動画の話や、進路の愚痴をいつも通りに繰り出す。
颯太が答えに詰まると、隼人が「ここはこうだよな?」と視線でフォローし、いろはが「そうそう!」と大げさに動いて笑いを誘う。
音が聞こえないからと、彼らは特別な配慮を押し付けたりはしない。
ただ、颯太が輪から外れないように、さりげなく、けれど力強く、その場所を空けて待ってくれている。
耳が聞こえなくなってから、世界はずっと冷たく、閉ざされた場所だと思っていた。
けれど、こうして隣で笑ってくれる二人の優しさは、どんな言葉よりも強く、温かく、颯太の心に染み渡っていく。
屋上を吹き抜ける風はまだ冷たかったが、三人で囲むお弁当の時間は、凍りついていた颯太の心をゆっくりと、けれど確かに溶かしていった。
季節は二月に入り、ステラの卒業――莉奈たち三年生の卒業が近づいていた。
自由登校期間に入ったというのに、莉奈は変わらず毎朝、颯太の家まで迎えに来てくれる。
推薦で大学が決まっている莉奈の足取りに、迷いはなかった。
颯太の日課は、手話の勉強になっていた。
朝、ニュース番組のワイプに映る通訳の動きを、必死に目で追う。
その指先の動きは、昨日よりも、ほんの少しだけ迷いが減っている。
莉奈はその様子を、リビングの隅から静かに見守っていた。
ある夜。
颯太は、手話の本を開いたまま、ベッドの上で力尽きるように眠りに落ちてしまった。
指の形を何度も模索し、頭に詰め込もうとした形跡が、何枚も挟まれた付箋から見て取れる。
電気も消さず、本を胸元に抱えたまま眠るその姿は、今の颯太が何に縋って生きようとしているのかを物語っていた。
翌朝、カーテンの隙間から差し込む光とともに、肩を優しく叩く感触があった。
ゆっくりと目を開けると、すぐそばに莉奈の顔があった。
彼女の視線は、颯太の腕の中からこぼれ落ちた一冊の本に注がれている。
「……あ」
慌てて本を隠そうとする颯太に、莉奈は驚いたように、けれどどこか愛おしそうに目を細めた。
「……ただの、悪あがきだよ」
自分の声を不恰好に響かせ、照れ隠しにそう言うと、莉奈は優しく、けれど強く首を横に振った。言葉はなくても、「違う」とはっきり伝わってくる。
そんなある休日。
莉奈は休みの日も、颯太の家を訪ねてくれた。
ふとした沈黙の中、莉奈のスマホが短く震え、画面を光らせた。
そこにはグループトークらしい通知が立て続けに並んでいたが、莉奈は一瞬表情を強張らせると、すぐさまスマホを裏返した。
まるで、颯太の目には触れさせたくない何かを隠すような、不自然なほど素早い動作だった。
莉奈はそれを気づかれないように伏せ、いつも通りの笑顔を向けてくる。
ふとした沈黙の中、颯太は気になっていたことを口にした。
「……もうすぐ、ステラ、卒業ですよね」
莉奈は静かに頷き、祈るような目でスマホを差し出す。
『最後だから、見てくれると嬉しいな』
その文字を見た瞬間、颯太の胸の奥が、きしりと軋んだ。
頭の中に、ありありとした光景が浮かんでしまう。
ステージに立つステラ。
眩しい照明。
画面の向こうで、確かに歌っているはずの莉奈。
――けれど、そこには音がない。
口が動いている。
息を吸い、言葉を紡ぎ、想いを乗せて歌っているはずなのに。
自分の世界には、ただ映像だけが流れ続ける。
(……そんなの)
それはライブじゃない。
ただの、無音の映像だ。
「……嫌です」
思わず、低い声がこぼれた。
「見ても、声が聞こえないのに。そんなの……意味ないですよ」
莉奈は、それでも諦めなかった。
必死に身振り手振りで、想いを伝えようとする。
「一緒に」「大丈夫」「届くよ」
そんな意味の動きが、何度も、何度も繰り返される。
その優しさが、今の颯太には逃げ場を塞ぐものにしか感じられなかった。
(これ以上、何を頑張れって言うんだよ)
胸の奥に押し込めていた感情が、堰を切る。
「見たくないって言ってるだろ!」
思わず、声が荒れた。
「声も聞こえないのに!そんな状態で、何を見ろって言うんだよ!」
静まり返った部屋。
莉奈は言葉を失い、ただ唇を噛みしめて、小さく頷いた。
「……すみません」
すぐに後悔が押し寄せる。
「強く言って……すみませんでした」
莉奈は震える手でスマホを打ち、画面を見せた。
『ごめんね』
謝らなければならないのは、自分の方なのに。
大好きな人の、最後の大切な舞台。
音が聞こえない自分にとって、それは残酷な無声映画でしかない。
翌日も、莉奈は何事もなかったかのように、颯太を迎えに来てくれた。
その変わらぬ優しさが、今の颯太には、何よりも胸を締めつけるものだった。
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