指先で綴る言葉
翌朝、昨日と同じように莉奈が迎えに来てくれた。
音が聞こえない世界での目覚めは、いつも誰かに体を揺すられたり、叩かれたりする衝撃から始まる。
そのたびに跳ね起きてしまうのは、まだこの「静寂」に慣れていない証拠だった。
莉奈が母親と並んで朝食の準備をしている間、颯太は何気なくリビングのテレビに目をやった。
画面の隅、小さなワイプの中で、一人の女性が忙しなく手を動かしている。
(手話……)
昨日病院で見かけた、あの光景。
何を言っているのかは分からないが、その指先の動きには確かな「意志」が宿っているように見えた。
昼休み、颯太は賑やかな教室を抜け出し、図書室へと向かった。
棚の隅で見つけたのは、一冊の分厚い手話入門書。
パラパラとページをめくると、あまりの複雑さに気が遠くなりそうになる。
けれど、朝のニュースで見たあの動きだけでも理解できたら、世界との繋がりを少しでも取り戻せるかもしれない。
颯太はその本を借り、胸に抱えて図書室を後にした。
放課後、颯太は駅前にあるバイト先のケーキ屋「エトワール・ド・ルヴ」へと向かった。
急な異変で出勤できなくなったことは、すでに隼人が気を利かせて店に連絡を入れてくれていた。
けれど、いつ治るかも分からないこの状況で、人任せにしたままではいられない。
自分の口できちんとけじめをつけるべきだと思ったのだ。
店に入ると、甘い焼き菓子の匂いが鼻をくすぐった。
いつもなら聞こえていたドアベルの音も、冷蔵ケースの低い駆動音も、今は一切聞こえない。
ただ、忙しなく動く店員たちの姿だけが、無声映画のように流れている。
休憩中だった店長の恵子さんに、颯太は今の思いを直接伝えた。
「店長、隼人から連絡いってるとは思うんですけど……。耳が、あの日から全然聞こえなくて。いつ戻れるか分からないので、辞めさせてください。迷惑、かけたくないんです」
自分の声さえ自分には届かない。
どれくらいの音量で、どんな響きで喋っているのかも分からない。
それでも、彼女の目を見て必死に言葉を紡いだ。
恵子さんは寂しそうに目を細めると、颯太の肩を優しく叩いた。
そして、近くにあったメモ帳を手に取り、力強い筆致でこう書いて見せた。
『辞めるなんて言わないで。籍はこのままにしておくから。ここも、あなたの居場所なんだから』
その言葉の温かさに、颯太は鼻の奥がツンとした。
音が消えた世界でも、こうして自分を受け入れてくれる場所がある。
それだけで、明日を生きる気力がわずかに湧いてくるのを感じた。
深く頭を下げて店を出た颯太は、帰宅するなり自室の机に向かった。
図書室で借りてきた、少し年季の入った手話の本を開く。
知らない記号の羅列に、最初は頭がパンクしそうになった。
けれど、ふと思い出す。
かつて、作曲のために全く弾けなかったピアノを必死で練習した時のことを。
あの時も、一音ずつ指に覚え込ませていった。
(……結局、音楽に行き着いちゃうんだな)
指を動かすたび、ふと、弾くことのできない鍵盤を思い出して切なくなる。
それでも、今は手を動かすしかなかった。
いつか再び世界と、そして自分自身と向き合うために。
気がつけば、窓の外は白み始めていた。
数時間ほどの浅い眠りのあと、颯太は頬に触れる柔らかな感触で目を覚ました。
視界を開くと、すぐそばに莉奈の顔がある。
彼女は音が聞こえない自分を起こすとき、いつも驚かせないように、そっと優しく触れてくれる。
その気遣いに、まだ重い頭が少しずつ覚醒していく。
「……おはようございます、先輩」
自分の声がどれほど掠れているかも分からないまま挨拶をすると、莉奈は花の咲くような笑顔で頷き、スマホの画面を見せてくれた。
『おはよう、颯太くん。よく眠れた?』
その文字に、颯太は小さく頷いて返した。
リビングへ降りると、莉奈はすでに母親と並んで、手際よく朝食の準備を手伝っていた。
テレビには、昨日も見た手話通訳付きのニュース番組が映っている。
三人で食卓を囲みながら、颯太は流れるワイプの動きに目を凝らした。
昨日一日、本を必死にめくった程度では、当然ながら何一つ理解できない。
それでも、あの複雑な指の動きが「言葉」なのだと思うと、昨日までとは違った敬意と、もどかしさが込み上げてくる。
(……すごいな。いつか、あんなふうに会話ができるんだろうか)
食卓を片付け、家を出ようとしたその時だった。
莉奈が照れくさそうに、小さな巾着袋を颯太に差し出した。
ずっしりとした重み。
『お弁当作ったから、お昼に食べて』
スマホの画面を見せられ、颯太は目を見開いた。
「……え、これ。先輩が?」
莉奈は顔を真っ赤にして、小さく頷く。
背後で母親がニヤニヤしながら二人を見守っている。
その視線に気づいた二人は、同時に顔を背けて、さらに恥ずかしそうに俯いた。
耳は聞こえない。
けれど、莉奈が自分のために費やしてくれた時間と、その優しさが、胸がいっぱいになるほど嬉しかった。
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