音なき世界で、手を
夜の校舎から自宅へ向かう道中、莉奈は一度も颯太の手を離さなかった。
街灯の淡い光の下、颯太は自嘲気味に俯き、震える声で言った。
「……『スターズリメイン』、完成させられなくてごめんなさい。あんなに期待して、歌ってくれたのに……」
莉奈は立ち止まり、繋いでいない方の手で必死にスマホを打った。
『大丈夫だよ。気にしないで。』
「……カッコ悪いところ、見せちゃいましたね」
情けなくて、惨めだった。そんな自分を、莉奈は真っ直ぐに見つめ、再び画面を見せる。
『全然、そんなことない。私を見つけてくれた時と同じ、颯太くんだよ』
画面越しのやり取りは、音が消えたことで、以前よりもずっと、互いの心の奥深くに直接触れているような気がした。
家の前でようやく手が離れるかと思いきや、莉奈の指にはまだ離したくないというような力がこもっている。
そんな二人の前に、息を切らして探し回っていた母親が駆け寄ってきた。
「颯太! ……よかった、本当に……っ」
母親は怒るよりも先に、安堵の涙を浮かべて颯太の肩を抱いた。
スマホも持たず消えた息子を、莉奈が連れ戻してくれたことを察したのだろう。母親は「帰りは車で送るから」と、莉奈を家へ招き入れた。
突然の事態に、莉奈は戸惑い、顔を赤くして縮こまっている。
居間の茶卓で、母親は莉奈にお礼を言いながら静かに語った。
「あの子、音楽だけは、どんな時も続けてきたの。あの子にとって、そこだけが唯一の、本当の居場所だったから」
母親の口の動きから、何を話しているか大体悟った颯太は、「余計なこと言わないでよ」と釘を刺す。だが、莉奈は微笑んでスマホに文字を打った。
『颯太くんは、本当に素敵な曲を作っていますよ。私の宝物です』
母親と莉奈は、スマホの画面を共有しながら、時に頷き、時に微笑み合っていた。
最後、母親は莉奈の手を握り「これからも、あの子と仲良くしてあげてね」と深く頭を下げ、彼女を車で家まで送り届けた。
翌朝。
頬をトントンと叩かれる感触で、颯太は目を覚ました。
「……っ!?」
驚いて跳ね起き、布団の端まで後ずさる。
そこには、制服姿の莉奈が少しいたずらっぽく笑って立っていた。
『耳が聞こえなくて危ないから、一緒に学校へ行こうと思って』
差し出されたスマホの画面に、颯太は呆然とする。
莉奈は今朝早くに家を訪れ、母親から「せっかくだから起こしてあげて」と背中を押されたらしい。
リビングへ降りると、莉奈が慣れた手つきで朝食の準備を手伝っていた。
母親と楽しげに皿を並べるその光景は、昨日の絶望が嘘だったかのように温かかった。
身支度を済ませ、朝食を胃に流し込んだ颯太は、莉奈と一緒に家を出た。
まだ冷たさの残る朝の空気の中を並んで歩く。
昨夜のように手をつなぐ勇気は出なかったが、莉奈は颯太の右側——車道側から彼を守るように、すぐ隣を歩いている。
しばらく続いた沈黙に耐えかねて、颯太は隣を歩く莉奈に視線を向け、声を絞り出した。
「……あの、桜庭先輩。わざわざ迎えに来てもらって、その、申し訳ないです。昨日の今日で、先輩だって疲れてるはずなのに」
莉奈は歩みを止め、カバンからスマホを取り出すと、慣れた手つきで画面を打ち込んだ。
『昨日の今日だからだよ。颯太くんがまたどこかへ消えちゃいそうで、私が不安だったの』
その言葉に、颯太は言葉を失った。
昨夜、絶望の淵にいた自分を必死で引き戻してくれたのは彼女だった。
彼女もまた、自分と同じように——あるいは自分以上に、あの夜の出来事に恐怖を感じていたのだ。
「悪いんで……明日からは、大丈夫ですよ」
そう付け加えた颯太に、莉奈は少し困ったように眉を下げ、今度は一文字ずつ、ゆっくりと画面を更新した。
『毎日は無理かもしれないけど、できる限りしてあげたいの。私が行きたいだけだから』
その文字の後に添えられた、ほんのりと頬を染めて微笑む彼女の姿。
その真っ直ぐな想いに、颯太は胸の奥が熱くなるのを感じた。
「悪い」という言葉で壁を作ろうとしていた自分の子供っぽさが恥ずかしくなり、代わりに小さく「ありがとうございます」と呟いた。
莉奈は満足そうに一度頷くと、再び前を向いて歩き出した。
手をつないでいるわけではない。
けれど、すぐ隣を歩く彼女の肩が時折触れそうになるほど近く、その体温が冬の朝の冷たい空気を通じて伝わってくる。
颯太は、彼女の歩調に合わせて一歩ずつ地面を踏みしめた。
音が聞こえなくても、隣に彼女がいるという事実だけで、世界が少しだけ形を取り戻したような気がした。
学校に着くと、校門の前で隼人といろはが飛んできた。
二人はすでに事情を知っており、スマホの画面いっぱいに心配の言葉を書き連ねて、代わる代わる見せてくる。
「……みんな、ごめん。心配かけて」
友人の優しさが今はただ、痛いほど有り難かった。
授業中も、休み時間も、学校という場所はこれほどまでに「音」で溢れていたのかと、颯太は改めて思い知らされた。
先生の板書するチョークの音も、休み時間に弾ける笑い声も、何も届かない。
クラスメイトたちの賑やかなやり取りが、自分だけが切り取られた別世界のように視界を通り過ぎていく。
けれど、その度に隼人が肩を叩いて筆談のノートを差し出してくれたり、いろはが廊下ですれ違いざまに「大丈夫?」と書いた手のひらを見せてくれたりした。
音が死んだ世界で、彼らの気遣いだけが色彩を持って颯太の心に届いていた。
そんな温かさに包まれるほど、一方で現実の重みがのしかかる。
自分は本当に、このままなのだろうか。
放課後、校門で待っていた母親と共に、再びあの病院へと向かった。
精密な再検査の結果は、やはり非情なものだった。
「……物理的な異常は見当たりません。心因性、あるいは未知の神経症状の可能性が高い。いつ治るか、あるいはこのままか……今の医学では、はっきりしたことは言えません」
改めて突きつけられた、「治る保証のない静寂」。
絶望に沈み、待合室の椅子で深く項垂れる颯太の視界に、ふと、ある光景が飛び込んできた。
少し離れた場所で、顔を輝かせ、激しく手を動かして会話をしている二人組がいる。
一言も発していない。音は一つも漏れていない。
なのに、彼らの会話は、誰よりも熱く、豊かで、楽しげに見えた。
(……手話)
音のない世界でも、あんなに鮮やかに想いを伝えられるのか。
その光景は、暗闇の底にいた颯太の瞳に、小さく、けれど消えない希望の光を投げかけた。
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