声なき祈り
スマホの電源を落とした颯太は、導かれるように夜の街へと踏み出した。
何も持たず、上着さえ着ず、ただ魂の抜け殻のような体を引きずって歩く。
背後から迫る自転車のベルも、走り去る車の轟音も、今の颯太には届かない。
ひかれそうになっても恐怖すら感じなかった。
死が、すぐ隣にあるのが当たり前のように思えた。
ふと視界が開けたとき、目の前にあったのは颯太が通う学校だった。
吸い寄せられるように中へ入り、階段を上る。
たどり着いたのは、莉奈と何度も言葉を交わした、あの屋上だった。
広がる夜景はあの日と同じように美しい。
けれど、かつてここで聞いた風の音も、莉奈の笑い声も、今の世界には存在しない。
颯太は、屋上の端へとふらふらと歩み寄った。
資材搬入用なのか、そこだけは古いフェンスが途切れ、細い鎖が一本渡してあるだけの場所があった。
颯太はその鎖をまたぎ、屋上の縁に立った。
一歩踏み出せば、そこはもう何もない空間だ。
眼下には底の見えない暗闇が、冷たい口を広げて待っていた。
(……もう、いいかな)
唯一の救いだった音楽を奪われ、大切な人たちの声も聞こえない人生に、何の価値があるのか。
莉奈のあの至高の歌声さえ完成させられない自分に、生きる資格などない。
一歩、足を踏み出そうとした。すべてを終わらせるために。
その瞬間、背中から強い衝撃が走った。
「――っ!?」
何者かに後ろから力一杯抱き留められ、そのまま地面へと引きずり戻される。
驚いて振り返ると、そこには顔をぐしゃぐしゃにして、涙を流しながら必死に何かを叫んでいる莉奈の姿があった。
彼女の口は激しく動いている。
何かを、狂ったように訴えかけている。
けれど、やはり何も聞こえない。
莉奈は震える手でスマホを取り出し、画面に文字を叩きつけた。
『気づいてあげられなくて、ごめんね』
画面を見せられた瞬間、莉奈は颯太に激しく抱きついた。
聞こえなくても、彼女の心臓の鼓動が、震える肩が、熱い涙が、肌を通じて伝わってくる。
彼女はただ、必死に颯太をこの世に繋ぎ止めようとしていた。
「……もう、音楽を作ることができない。先輩の歌を聴くこともできない。もう……生きてても意味がないんだ……」
掠れた声で吐き出す颯太に、莉奈は首を激しく振り、再びスマホに言葉を刻む。
『私が颯太くんの耳になるから。だから死なないで、いなくならないで、お願い』
その文字を見た瞬間、颯太の中で張り詰めていた最後の一線が決壊した。
莉奈の胸に顔を埋め、颯太は大粒の涙を流した。
自分の泣き声さえ聞こえない世界で、ただ喉を震わせ、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
莉奈は何も言わず、ただ一点を見つめて颯太を抱きしめ続けていた。
聞こえなくても、彼女が自分を呼ぶ鼓動が、薄い制服越しに伝わってくる。
彼女の流す涙が、颯太の首筋に落ちて熱を帯びる。
その湿り気と体温だけが、今の颯太にとって、自分がまだ生きていることを証明する唯一の絆だった。
どのくらいの時間が経っただろうか。
泣き疲れた颯太の呼吸が少しずつ整い、夜の静寂が再び二人を包み込んでいく。
颯太はゆっくりと顔を上げ、莉奈の顔を見た。
月明かりに照らされた彼女の瞳は赤く腫れていたが、そこには絶望ではなく、凪のような静かな決意が宿っていた。
莉奈はそっと自分の手を離すと、冷たくなった颯太の頬を両手で包み込み、一度だけ、深く頷いた。 言葉はなくとも、「大丈夫」という確かな意思が伝わってくる。
しばらくして、夜風に吹かれながら二人はゆっくりと立ち上がった。
熱を失いかけていた屋上の空気が、二人の間を通り抜けていく。
歩き出そうとした颯太の右手を、莉奈が下からそっと掬い上げるようにして取った。
莉奈はそのまま、颯太の手を、骨が鳴るほどの力で握りしめた。
二度と、この手を離しはしない。
二度と、颯太を一人で暗闇に行かせはしない。
その痛みすら感じるほどの強い力は、莉奈の言葉以上の誓いだった。
颯太もまた、その手の感触を確かめるように握り返した。
音を失ったこの世界で、その力強くも優しい手の温もりだけを道標にして、二人は手をつないで夜の校舎を後にした。
莉奈の手は、震えながらも、驚くほど確かな温度を持って颯太の魂を繋ぎ止めていた。
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