沈黙の奈落
ステラの公式アカウントが「卒業」を発表した夜、世界は激しく揺れていた。
SNSのタイムラインは、悲鳴と惜別、そして感謝の言葉で埋め尽くされている。
数万人の感情が渦巻くその中心で、颯太の元に一通のメッセージが届いた。
『卒業発表しちゃった。もう、後戻りできない』
莉奈からの、短くも重い言葉。
彼女が退路を断ったその覚悟に、颯太の心臓は激しく波打った。
「後戻りできない」というフレーズが、完成を急ぐ颯太への宣告のように響く。
颯太は震える指先で、懸命に平静を装った返信を打った。
『大丈夫です。最高の形で送り出せるよう、頑張って仕上げます』
耳の異常など、おくびにも出さない。
楽曲は、不信感の募る耳を騙し騙し使いながら、なんとか形になりつつあった。
しかし、運命の歯車は無慈悲に加速していく。
さらに数日が経過した、学校の昼休みだった。
購買へと向かう廊下、隼人と並んで歩いていた颯太を、突如として強烈な異変が襲った。
「……っ!?」
視界が激しく上下に揺れ、世界がぐにゃりと歪む。
胃の底からせり上がるような激しい吐き気と、頭を直接殴られたような鋭いめまいに、颯太はその場に膝をついた。
「おい、颯太!? どうしたんだよ!」
隼人の焦った声が、くぐもって遠のいていく。
床に手をついたまま動けない颯太の意識は、急速に闇へと引きずり込まれていった。
たまたま近くにいたいろはが、悲鳴を上げながら救急車を呼びに走る。
遠のく意識の最後、泣き出しそうないろはの顔が見えた気がした。
……目が覚めたとき、そこは真っ白な世界だった。
消毒液の匂い。
天井の蛍光灯が目に痛い。
颯太はゆっくりと身を起こそうとした。
視界の端に、不安げな表情をした母親の姿が映る。
母親の口が忙しなく動き、何かを必死に呼びかけている。
だが、何も聞こえない。
自分の心臓の音も、呼吸の音も、衣擦れの音さえも。
颯太の世界から、すべての音が完全に消失していた。
「……あ……ああ……」
喉から声を絞り出そうとしても、その振動さえ自分には届かない。
恐怖と絶望が混ざり合い、熱い涙が頬を伝って溢れ出した。
母親は、息子のその反応だけで事態を察したようだった。
すぐに医者が駆けつけ、何かを診断し、説明を始める。
けれど、颯太には彼らが何を言っているのか、一言も理解できなかった。
母親が震える手でスマホを操作し、メモ帳に打ち込んだ文字を颯太に見せた。
『精密検査をしたけれど、異常は見つからなかった。原因不明だって……』
処置のしようがない。
そう告げられた颯太は、廃人のような虚脱感を抱えたまま、母親に付き添われて病院を後にした。
エントランスには、知らせを聞きつけた隼人といろは、そして莉奈の姿があった。
母親が彼らに病状を説明する中、颯太はただ一点、何もない地面を見つめていた。
その瞳は、もはや生気を感じさせない「死人」のようだった。
莉奈が何かを言いたげに自分を見ていることに気づいても、今の颯太にはそれに応える力は微塵も残っていない。
帰宅後、母親がそばにいようとしたが、颯太は「一人にしてほしい」と掠れた声で拒絶し、自室に引きこもった。
重い体を引きずり、パソコンを起動する。
震える手でプロジェクトファイルを開き、再生ボタンを押した。
画面上の波形は、確かに音があることを示して踊っている。
なのに、ヘッドホンからは何も聞こえない。
「あああああぁぁぁ……っ!!」
颯太は、声を上げて泣いた。
溢れ出す涙で、モニターの波形が歪んで見える。
音が聞こえない以上、どの音が濁っているのか、どのフレーズが重なっているのか、今の自分には判断する術が何一つない。
あと少し。
あとほんの少し磨き上げれば、この曲は莉奈を未来へ運ぶ翼になれたはずなのに。
莉奈が全霊を込めて吹き込んでくれたあの歌声が、今、自分の耳という出口を失って、真っ暗なハードディスクの中に閉じ込められている。
この曲を完成させる術は、もう自分には残されていないのだ。
音楽を作る人間として、死刑宣告を突きつけられたようなものだった。
翌日、颯太は学校を休んだ。
カーテンを閉め切った真っ暗な部屋で、ただ天井を見つめるだけの時間。
昨日までは聞こえていたはずの、エアコンの稼働音も、窓の外を鳴く鳥の声も、今はもう想像することしかできない。
静寂はもはや安らぎではなく、自分をこの世界から隔離する冷たい檻だった。
枕元に置いたスマホが、時折短く震える。
画面が光るたび、隼人やいろはから届く心配のメッセージがポップアップとして浮かび上がった。
『大丈夫?』
『力になれることがあったら言ってくれ』
かつては温かく感じたはずの言葉たちが、今の颯太には、届くはずのない遠い星からの信号のように思えた。
今の自分は、彼らと同じ世界にはいない。
音が失われたこの部屋には、誰一人として入ってくることはできないのだ。
返信する気力すら湧かず、颯太はそれらすべてを無視して、ただ毛布を深く被った。
優しくされればされるほど、何もできなくなった自分の無能さが浮き彫りになり、胸が抉られるようだった。
夜。
窓の外から差し込む月光が、無音の世界をより冷たく照らし出す。
(こんな思いをするくらいなら、死んだ方がましだ……)
溢れ出す絶望に耐えきれず、颯太は最後に莉奈へのメッセージを打ち込んだ。
『楽曲を仕上げられなくて、すみません』
それだけを送ると、彼はスマホの電源を落とした。
すべての音と、すべての繋がりを断ち切るように。
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