沈黙の再来
帰宅した颯太は、吸い寄せられるようにデスクへと向かった。
ヘッドホンから流れるのは、今日録ったばかりの莉奈の歌声だ。
一つひとつのフレーズを丁寧に確認し、ノイズを除去し、伴奏との馴染みを調整していく。
磨けば磨くほど、彼女の歌声はクリスタルのような輝きを放ち、聴く者の心を震わせる力を帯びていく。その至福の作業に、颯太は時間を忘れて没頭していた。
――しかし、その瞬間は唐突に訪れた。
プツリ、という電子音が切れるような予兆さえない。
再生バーは動いている。
波形も画面上で踊っている。
なのに、耳には何も届かない。
最初は機材のトラブルかと思った。
だが、ヘッドホンを外しても、世界は真っ暗な深海のように静まり返っていた。
自分の荒い呼吸も、服が擦れる音も、外の住宅街を走る遠い車の音も、何一つ聞こえない。
「……あ、……ぁ……」
喉を震わせ、声を上げている自覚はある。
けれど、自分の声が自分に届かない。
パニックに陥り、颯太は乱暴にスピーカーの電源を入れ直し、マウスを何度もクリックした。
心臓の鼓動だけが、胸の奥で暴力的なほどに跳ね回っているのが感触として伝わってくる。
数分後。
キーンという不快な高音と共に、じわじわと音が世界に戻ってきた。
夜の静寂がこれほど騒がしく感じたことはなかった。
颯太は冷や汗でぐっしょりと濡れたまま、椅子に深く沈み込んだ。
(……まずい。これは、本当におかしい)
あいにく、明日は日曜日だ。
次にまた聞こえなくなったら、救急で病院へ行こう。
そう自分に言い聞かせ、震える指で再びマウスを握った。
一分一秒でも、聞こえているうちに作業を進めたかった。
月曜日。
朝、目が覚めて真っ先にしたことは、枕元の時計を叩くことだった。
カチ、という小さな秒針の音が耳に届いた瞬間、颯太は肺の空気をすべて吐き出すように安堵した。
(……聞こえる。まだ、大丈夫だ)
けれど、その安堵はすぐに鋭い針のような不安に変わる。
顔を洗う水の音、登校中の踏切の警報音、すれ違う車の走行音。
そのすべてが「いつ消えてしまうか分からない」という恐怖の対象でしかなかった。
今の自分は、薄氷の上を歩いているようなものだ。
一歩踏み出すたびに、世界が崩れ落ちる予感に怯えていた。
颯太は登校を諦め、そのまま朝一番で大きな病院の耳鼻咽喉科を訪れた。
数時間に及ぶ精密な聴力検査。しかし、検査結果を眺める医師の顔は平然としていた。
「検査の結果ですが……特にこれといった異常は見られませんね。聴力自体、少し弱い数値が出ている箇所もありますが、誤差の範囲、正常値内です」
「でも、本当に何も聞こえなくなったんです! 何分間も!」
「疲れやストレスからくる一時的な心因性のものかもしれません。しばらく様子を見て、ゆっくり休んでください」
医師の視線は、すでに次の患者を見ているようだった。
処方されたのは、気休めのようなビタミン剤と血流を良くする薬だけだった。
「正常」という言葉が、これほど絶望的に響くとは思わなかった。
体が壊れているのではないのなら、自分に起きているこの現象は何なのだ。
午後から登校すると、教室では隼人が心配そうに駆け寄ってきた。
「おい颯太、どうしたんだよ。午前中休みなんて珍しいじゃねーか」
「……あぁ、悪い。ちょっと風邪気味で、病院行ってただけだよ」
異常なしと診断された以上、説明のしようがなかった。
けれど、颯太の心は不安に支配されていた。
また急に、あの沈黙が訪れたら?
次に聞こえなくなったとき、もう二度と戻ってこなかったら?
莉奈と約束したレコーディングは終わったけれど、ミックスも、MVの制作もまだ残っている。
莉奈の「卒業」というゴールに、自分はたどり着けるのだろうか。
不安に怯えながら向かった放課後のバイト中、また「それ」は起きた。
食器を洗う音も、客の注文も、調理場の喧騒も。
すべてが消え去り、自分だけが透明な箱に閉じ込められたような感覚。
隣で隼人が何かを言っている。
口が動いている。
けれど、何も聞こえない。
数分後、ようやく音が戻ったときには、隼人が怪訝そうな顔で颯太の肩を揺さぶっていた。
「……おい、聞いてんのかよ颯太! 何回も呼んだぞ?」
「……ごめん。ぼーっとしてた」
隼人の声が、どこか遠い場所から響いているように感じられた。
その夜、帰宅した颯太は、逃げるようにパソコンの前に座った。
いつ世界が沈黙に塗りつぶされるか分からない。
次に音が消える前に。
莉奈の歌声を、この『スターズリメイン』を完成させなければならない。
それはもはや作曲家としての責任感を超え、自分という存在を繋ぎ止めるための、悲痛な執念だった。
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