約束は静かに、現実は重く
教室に入ると、隼人はすでに席についていた。
といっても、背筋を伸ばしているわけではない。椅子に深く腰を落とし、背中を丸め、ぼんやりと天井を見上げている。
机の上に置かれた手には、指先ごとに小さな絆創膏が貼られていた。大げさな怪我ではない。むしろ、どれも「貼るほどでもないけど気になる」程度のものだ。
颯太はそれを見て、昨日のバイトが少し忙しかったことを察した。
ケーキ屋の仕事は華やかに見えるが、実態は地味な作業の連続だ。箱を運び、道具を洗い、接客もする。
ひたすら同じ動作を繰り返す。昨日は新作の準備が重なり、苺のヘタを延々と取らされていた。
「……眠い」
隼人が、誰に向けるでもなく呟いた。
「そんなにきつかったのか?」
颯太が声をかけると、隼人は少しだけ顔を向ける。
「きついってほどじゃないけどさ。働くってやっぱ大変だわ」
隼人はそう言いながら、指をひらひらと動かす。絆創膏が視界に入るたび、少しだけ顔をしかめた。
「まぁでも、給料日になると、頑張ってよかったって思えるよ」
冗談めいた口調だったが、その言葉は妙に現実的だった。
颯太はそれ以上、何も言えなくなる。
隼人にとってバイトは、ただの小遣い稼ぎではない。
時間を使い、体を使い、その対価として金を受け取る行為だ。
――何かを得るために、時間を売る。
その単純な構図が、妙に重く胸に残った。
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チャイムが、思考を中断させた。
移動教室の時間。
颯太は教科書を抱えて、三年生の教室が並ぶ廊下を歩いていた。
その途中、掲示板の前に立つ一人の女子生徒の姿が目に入る。
桜庭莉奈だった。
彼女は一人で、進路案内のポスターを眺めている。
周囲には他の生徒もいるが、誰も声をかけない。かといって、避けているわけでもない。
ただ、彼女の周りだけ、自然と空白ができている。
いじめられているわけではない。
ただ、透明なのだ。
颯太が通り過ぎようとした、その瞬間。
ふいに、莉奈が振り向いた。
一瞬、視線がぶつかる。
胸が跳ねたのは、颯太の方だった。
莉奈は小さく肩を震わせ、慌てて目を逸らす。そして、胸元のリボンをぎゅっと握りしめた。
その仕草を見て、颯太の脳裏に屋上の光景が蘇る。
歌う、と言ったとき。
緊張と覚悟が入り混じった、あの表情。
誰も知らない。
この廊下に立つ「地味な先輩」が、十万人のファンがいる存在だなんて。
声をかけることはできなかった。
秘密を共有しているからこそ、境界線を越えてはいけない気がした。
すれ違うだけで、十分だった。
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学校の喧騒から逃げるように、校門を抜ける。
放課後。
駅前のベンチに腰を下ろし、颯太はスマホを操作していた。
画面には、楽器店のサイト。
最新のストリングス音源のデモ動画が再生される。
ヘッドホンから流れてきた音は、今まで自分が使ってきた音とはまるで違った。
一音鳴っただけで、空気が震える。
弓が弦に触れ、木の胴が共鳴し、音が生き物のように膨らんでいく。
自分の音は、冷たい。
均一で、整っていて、悪く言えばプラスチックみたいだ。
悪くはないが、触れた瞬間に体温を奪われる感じがする。
一方で、この音は温かい。
木製の楽器が、人の体温を含んだまま震えているような感触。
わずかな揺らぎや、完全には制御できない不安定さが、逆に「生」を感じさせる。
――この音で、歌わせたい。
屋上で聴いた、震える声が脳裏に浮かぶ。
あの声を、今の自分の音で包んだら、きっと壊してしまう。
颯太はヘッドホンを外し、深く息を吐いた。
ふと視線を上げると、駅前のラックに無料の求人雑誌が並んでいる。
無意識のうちに一冊手に取り、ページを捲った。
時給千円。
六万円稼ぐには、約六十時間。
平日の放課後、三時間を週三回。
それで九時間。
一か月で三十六時間。
――全然足りない。
土日も入れれば、なんとかなるかもしれない。
でも、その分、曲を作る時間が削られる。
今の颯太にとって、時間はお金よりも価値があるものだった。
けれど、そのお金を稼がないと、理想の曲は完成しない
コンビニ。
接客が怖い。
引っ越し作業。
指を怪我したら、鍵盤が叩けなくなる。
どれも現実的で、どれも決めきれない。
ページを捲るたびに、胸の奥が少しずつ焦げていく。
結局、雑誌を丸めて鞄に突っ込んだ。
保留。
それが今の限界だった。
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結局、答えは出ないまま、駅前の少し冷たい風に背中を丸めて帰路についた。
夜。
自室で、颯太はステラの配信を開いた。
相変わらず多くのコメントが流れている。
その波に混じる勇気はないけど、配信を見ている間だけは、彼女の声の一音たりとも、逃したくなかった。
いつものゲーム実況。
けれど、どこか様子がおかしい。
『えっと……次、こっち行けばいいのかな……?』
声が少し上ずっている。
言葉に、間が多い。
――もしかして。
ふと、そんな考えが浮かぶ。
〈今日なんか静かじゃない?〉
〈集中してるだけでしょw〉
〈あれ? ステラちゃん照れてる?〉
〈なんかかわいい!〉
甘いセリフが流れるシーンになると、完全に動揺した。
『あ、えっと……こういうの、恥ずかしいよね……。……っ、うるさい! 私じゃないから!』
コメント欄が一斉に盛り上がる。
〈完全に挙動不審w〉
〈なんか緊張してる?〉
〈草〉
颯太は画面を閉じ、顔を両手で覆った。
イヤホン越しでも伝わる、その照れが、胸を熱くする。
彼女は必死に、「ステラ」を守っている。
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配信が終わった後、颯太は、鞄から例の求人雑誌を取り出した。
ぐしゃぐしゃになったページを広げる。
妥協すれば、楽になる。
でも、それでは彼女の声に応えられない。
「……妥協は、できない」
ノートに書かれた名前をなぞる。
桜庭莉奈。
明日の朝、学校へ行ったら。
まず隼人のところへ行こう。
あのケーキ屋、まだ募集してるか。
聞くだけでも、聞いてみよう。
決意は、まだ小さい。
それでも、確かに芽吹いていた。
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