不協和音の予兆
屋上から帰宅した颯太は、自室のベッドに倒れ込み、深く長い息を吐き出した。
一仕事を終えた安堵感が、心地よい疲労となって全身を包み込む。
机の上には、莉奈に渡したものと同じ雪の結晶の封筒が、予備として一通だけ残っていた。
その夜、颯太はステラのクリスマス配信を視聴した。
画面の中の彼女は、サンタ帽を少し照れくさそうに被り、リスナーからのコメントに満面の笑みで答えている。
その姿はあまりに眩しく、数時間前に屋上で聞いた「卒業」という言葉が、まるで遠い白昼夢だったのではないかと思えるほどに楽しそうだった。
(……でも、あの決意は本物だ)
ホッとしたのも束の間、颯太の視線はデスクの上のモニターへと移る。
曲は渡した。
けれど、本当に大変なのはここからだ。
レコーディング、そしてその後のミックス・マスタリング。
これまでは自分の曲だからと、独学の知識で「自分が納得すればいい」という基準でやってきた。
しかし、今回は違う。
莉奈の人生の分岐点となるだろう大切な一曲を、自分の「自己満足」で終わらせるわけにはいかなかった。
その日から、颯太は再び勉強漬けの日々を送った。
音楽制作の専門書を読み漁り、海外のエンジニアの動画を食い入るように見つめる。
一から技術を叩き直し、彼女の歌声を最も美しく届けるための術を模索し続けた。
そして、迎えた元日。
颯太は親友の隼人、そしてその妹のひよりと共に、地元の神社へ初詣に訪れていた。
境内は参拝客で溢れ、屋台から漂う香ばしい匂いと、新年の活気に包まれている。
お参りを済ませ、おみくじの結果に一喜一憂していると、人混みの向こうから華やかな色彩が近づいてきた。
「あ、やっぱりいた!」
聞き慣れた声に振り向くと、そこには振袖姿のいろはと莉奈が立っていた。
まさかこんな場所で会うとは思っていなかった颯太は、目を丸くして二人を交互に見た。
「え、いろは……。それに桜庭先輩まで、どうしてここに?」
「えへへ、驚いた? 莉奈先輩を私が無理やり誘い出しちゃった。せっかくのお正月だし、お互い振袖着るなら一緒がいいかなって思って!」
いろはが誇らしげに胸を張る隣で、莉奈は慣れない和装と、颯太の視線を正面から浴びる気まずさからか、顔を赤くして俯いている。
冬の柔らかな日差しを浴びて、艶やかな振袖が二人の美しさを際立たせていた。
「……似合ってる。二人とも」
颯太が素直な感想を照れくさそうに口にすると、莉奈はさらに顔を赤らめ、「……ありがとう」と消え入りそうな声で答えた。
隼人たちがひよりを連れて少し離れた屋台を見に行っている間、いろはが颯太の隣にスッと寄り添い、小さな声で耳打ちした。
「ねえ、なんで颯太から莉奈先輩を誘わないわけ? お正月だよ?」
「……いや、ほら、先輩も家族の予定とかあるかと思ってさ」
苦笑いで誤魔化す颯太に、いろはは「相変わらず鈍いっていうか、慎重すぎるっていうか……」と呆れたように肩をすくめた。
いろはの瞳には、ほんの一瞬だけ、複雑な色が過った。
彼女の胸の奥には、今も颯太への想いが燻っている。
けれど、目の前で緊張しながらも嬉しそうにしている莉奈と、彼女を真っ直ぐに見つめる颯太の間に流れる空気を見て、いろははそれを心の奥底へそっと仕舞い込んだ。
いろははいつもの明るい笑顔に戻り、「あっちに美味しい甘酒あるよ! 行こう行こう!」と、隼人やひよりの腕を引いて先を歩き出した。
自然と、少し後ろを歩く形になった颯太と莉奈。
人混みの中で肩を並べて歩く静かな時間。
莉奈がそっと顔を上げ、颯太の方を向いて口を開いた。
「颯太くん……あのね。曲、もう完璧に覚えたよ。いつでも大丈夫」
「ありがとうございます。……じゃあ、学校が始まって最初の土曜日に録りましょう。スタジオ、予約しておきます」
その約束を交わし、合流した隼人たちと賑やかに歩き出そうとした、その時だった。
――プツリ、と音が消えた。
参拝客の喧騒、砂利を踏む音、ひよりの笑い声。
それらが一瞬にして遮断され、世界は真空の中に放り出されたような静寂に支配された。
「……え?」
颯太が当惑して立ち止まると、すぐに「どうした、颯太?」と隼人が不思議そうに顔を覗き込んできた。
音が、戻っている。
ほんの一瞬、まばたきをするほどの短い時間の空白。
「……いや、なんでもない。ちょっと立ちくらみしただけ」
作り笑いで返したが、颯太の額には汗が滲み、心臓が嫌な速さで鼓動を打っていた。
今のは、何だったんだろう。
不安の種は、雪解けを待つ芽のように、颯太の心に深く根を張った。
新学期が始まり、ついにレコーディング当日。
自宅では歌録りができないため、二人は機材の充実したレンタルスタジオを訪れていた。
本格的な機材、張り詰めた防音室の空気。
コントロールルームの椅子に座り、フェーダーを握る颯太の指先は微かに震えていた。
初めての、莉奈のレコーディング。
「……よし。……お願いします、先輩」
マイクの前に立つ彼女に合図を送り、颯太は録音ボタンを押し込んだ。
ここから、すべてが形になるはずだった。
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