止まっていた夜が、動き出す
いろはに返事をしたあの放課後から、三日が過ぎた。
その間、颯太は莉奈と連絡を取らなかった。
いろはの真っ直ぐな想いを断った直後に、何事もなかったかのように莉奈に会うことは、自分の中で許せなかったからだ。
彼女の痛みを、せめて自分も数日間は抱えていなければならないような気がしていた。
週の半ば。
学校の廊下でいろはとすれ違う際、彼女は一瞬だけ足を止め、それから「おはよ!」と、以前と変わらない
――けれど、どこか少しだけ大人びた笑顔を見せてくれた。
いろはは、前を向こうとしている。
ならば自分も、立ち止まっているわけにはいかない。
昼休み。
颯太は数日ぶりに、莉奈へメッセージを送った。
『今日、放課後少しだけ時間ありますか?』
すぐに返ってきた『屋上で待ってるね』という言葉。
数日間の空白があったにもかかわらず、莉奈はいつも通りに、けれどどこか待っていたかのような早さで返信をくれた。
西日に照らされた屋上に着くと、そこにはフェンスに身を預け、遠くの空を眺める莉奈の姿があった。
「遅くなってすみません……」
声をかけると、莉奈が弾かれたように振り向く。
驚いたように目を瞬かせたあと、彼女は小さく息を吐いて、いつもの落ち着いた表情を作った。
「……ううん。修学旅行が終わってから全然見かけなかったから、どうしたのかなって、少し気になってた」
莉奈は視線を泳がせ、所在なさげに自分の髪を指でいじった。
言葉とは裏腹に、彼女のどこかホッとしたような仕草を見て、颯太は胸が痛んだ。
沈黙していた数日間、彼女に余計な心配をさせていたのだと。
莉奈の言葉は、鋭く颯太の心に刺さった。
沈黙していた数日間、彼女もまた、言葉にできない不安を抱えていたのだ。
「すみません。……いろいろ、考えてたんです。修学旅行でいろんな刺激をもらって、自分がこれからどんな音を作っていきたいのか……ちゃんと整理したくて」
それは嘘ではなかった。
莉奈の想いを曲にする。
その覚悟を決めるための時間でもあったからだ。
真っ直ぐに莉奈を見つめて告げると、彼女は少しだけ頬を染め、それから嬉しそうに目を細めた。
「そっか。……ねえ、颯太くん。私もね、少し変わったんだよ」
莉奈は少し照れくさそうに、けれどどこか誇らしげに話を切り出した。
「最近ね、クラスの子たちとよく話すようになったの。今までは、どこか壁を作っちゃってたんだけど……修学旅行中、みんなが楽しそうに旅行の話をしてるのを聞いてたら、私ももっとみんなのこと知りたいなって思えて。それでね、昨日、隣の席の子とゆっくり話す機会があったんだけど……」
莉奈は少しだけ表情を和らげ、言葉を続けた。
「その子、中学のときにいじめに遭っていたらしくて。学校に行くのが怖くて仕方がなかったとき、当時の担任の先生が、ずっと寄り添って、守ってくれたんだって。その先生に助けられたから、今の自分があるんだ……って、すごく幸せそうに話してくれたの」
莉奈は手すりを握る指先に視線を落とし、慈しむように微笑んだ。
「誰かの人生を、そんなふうに支えられる人ってすごいな、温かいなって……。その話を聞いてから、私の中で、ずっとぼんやりしていたものが、少しだけ形になった気がするんだ」
莉奈がクラスメイトの心の奥底に触れ、それを受け止めている。
彼女はステラとしてではなく、桜庭莉奈として、一人の人間の痛みに寄り添い、そこから自分の進むべき光を見出そうとしていた。
「……それは、先輩にしかできない見つけ方だと思います。すごく、素敵です」
「ありがとう。……でもね、そう思えたのは颯太くんのおかげだよ。誰かと向き合う勇気を、颯太くんがくれたから」
莉奈はそう言って、再び遠くの空を見つめた。
その横顔は、沈んでいた夕日に照らされて、どこか透き通るような美しさを湛えている。
「私、もう少し自分と向き合ってみようと思う。まだ上手く言えないんだけど……」
二人の間に流れる空気は、修学旅行に行く前よりも、ずっと密度の濃いものへと変わっていた。
その夜。
自室に戻った颯太は、パソコンの電源を入れ、作曲ソフトを立ち上げた。
モニターに映し出されたのは、修学旅行前から作りかけのまま放置されていたプロジェクトファイルだ。
この曲は、莉奈から頼まれて作り始めたものだった。
『過去の暗闇の中で震えていた自分に、「大丈夫だよ、未来はそんなに怖くないよ」って伝えてあげられるような……そんな曲を作ってほしいな』
それが、莉奈から言われた言葉だった。
当時はまだ、彼女の心の奥に触れるのが怖くて、表面だけをなぞったような旋律が並んでいた。
けれど、屋上で彼女が見せてくれた変化や、誰かを救った先生の話を聞いた今なら、莉奈がその曲に託した本当の願いがわかる気がした。
(これは、桜庭先輩が過去と決別して、前に進むための曲なんだ)
いじめられ、居場所を失い、VTuberという仮面に隠れるしかなかった過去の彼女。
そんな彼女を、今の莉奈が優しく抱きしめてあげるような一曲。
「……ここ、もっと柔らかい音に。包み込むみたいに」
颯太はキーボードを叩き、古いトラックを次々と書き換えていく。
莉奈の願いを一つずつ丁寧に音に変換し、祈るような一音一音をピアノロールへ流し込んでいく。
止まっていた旋律が、温かな体温を持って動き出す感覚があった。
「クリスマスまでに、完成させたいな」
莉奈の想いに、最高の形で応えるために。
過去の莉奈を救い、今の彼女を肯定するために、颯太は没頭した。
静かな部屋に、マウスのクリック音と、時折唸るパソコンのファン音だけが響く。
ふと、左の耳元でかすかな羽虫が飛ぶような音がして、颯太は作業の手を止め、無意識に耳の横で手を振った。
だが、そこには何もいない。
「……気のせいか。ファンの音かな」
少し根を詰めすぎたのかもしれない。
颯太は軽くまぶたを押し、再びモニターに視線を戻した。
一度集中してしまえば、もうそんな些細なことは意識の隅にも残らなかった。
画面上の波形を見つめる颯太の背中を、深夜の静寂だけが包み込んでいた。
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