本当の優しさ、逃げない決意
修学旅行が明け、週明けの月曜日。
登校する颯太の足取りは、かつてないほど重かった。
校門をくぐるだけで、胸の奥が締め付けられるような気まずさに襲われる。
(……返事、するべきだよな)
あの夜、京都の公園で受け取ったいろはの真っ直ぐな言葉。
颯太の心には、莉奈という存在が揺るぎなく存在している。
だからこそ、いろはの想いに応えることはできない。
断れば、彼女を傷つける。
それが怖かった。
いろはは「返事はいらない」と言った。
けれど、それが彼女なりの精一杯の優しさであることを、颯太は痛いほど理解していた。
その優しさに甘えて沈黙し続けることは、誠実さから最も遠い場所にある気がしてならなかった。
「よお、颯太! まだ旅の疲れが抜けてないのか?」
教室に入ると、隼人がいつもの調子で肩を叩いてきた。
「……まあ、そんなところだ」
「だらしねえな! 俺なんて昨日の夜にはもう完全復活して、土産の八つ橋全部食っちまったぜ」
隼人は修学旅行の失敗談を愉快そうに話し始めたが、颯太の耳にはその半分も入ってこなかった。
視線は無意識に、隣のクラスへと続く廊下の方を向いていた。
その昼休みだった。
「みんな、お疲れ様ー!」
ガラリと教室のドアが開き、いろはがやってきた。
颯太は心臓が跳ねるのを感じ、思わず身構えたが、いろはの様子を見て目を見開いた。
「これ、みんなで撮った写真! 欲しい人いたら送るよ!」
いろはは、修学旅行前と何一つ変わらない、明るく弾けるようなテンションだった。
他のクラスメイトたちと笑い合い、スマホを片手に写真を交換している。
「あ、颯太くん! これ、伏見稲荷で颯太くんが変な顔して映っちゃったやつ。消してほしい?」
屈託のない笑顔でスマホを差し出してくるいろは。
至近距離で見つめるその表情は、以前と何一つ変わらないように見えた。
「……いや、別にいいけど」
「あはは、じゃあ残しとこ! あ、隼人くん、これ夜の自撮り……」
いろははすぐに笑い声を上げ、また別の誰かのもとへ駆けていく。
その去り際、一瞬だけ見えた彼女の横顔から、無理に作った笑顔が剥がれ落ちた気がした。
明るく振る舞えば振る舞うほど、彼女の瞳の奥にあるはずの「期待」や「不安」が隠されていく。
その健気さが、今の颯太には眩しすぎて、直視できなかった。
彼女は、気まずい空気を作らないように必死で演じている。それに対して自分は、ただ黙って救われているだけだ。
その配慮に甘えている自分が、ひどく情けなかった。
放課後。
颯太は隼人と共に、バイト先へと向かって歩いていた。
夕暮れの冷たい風が吹き抜ける中、隼人はどこか落ち着かない様子で、何度もスマホの画面を確認しては溜息をついていた。
「……なあ、颯太。ちょっと聞いてくれよ」
隼人が、少し気恥ずかしそうに切り出す。
「実は修学旅行の自由行動のときさ。いろはと同じ班だった子と、連絡先交換したんだよ。……いや、なんていうか、その。久々に『あ、いいな』って本気で思える子でさ」
珍しく照れくさそうに頭を掻く隼人の横顔は、いつもの冗談めかした雰囲気とは違い、どこか真剣だった。
「で、昨日からちょっとやり取りしてるんだけどさ」
隼人は歩きながらスマホを見下ろし、すぐにポケットへしまった。
「返事は来てるんだ。でも、たまに間が空くとさ……なんか、変に長く感じるんだよな」
「忙しいだけじゃないのか」
「まあな。分かってはいるんだけど」
隼人は苦笑して、肩をすくめた。
「既読つかねえだけでさ、あー今なんかしてんのかな、とか考えちゃって」
駅前の信号が赤に変わり、二人は足を止めた。
「俺、こういうの向いてねえなって思ったわ。待つのって地味に落ち着かねえな」
「……そうか」
「おう。まあ、そのうち返ってくるだろうけどさ」
信号が青に変わり、隼人は何事もなかったように歩き出す。
「ほら、急ごうぜ。遅れると面倒だし」
颯太は一拍遅れて、その後を追った。
隼人にとって、それはただの「返信待ちのソワソワ感」でしかない。
けれど、今の颯太には、その言葉が重く、鋭い棘となって刺さっていた。
隼人は、相手を想っているからこそ「待ち時間」に一喜一憂している。
対して自分は、いろはが懸命に絞り出した想いに対して、「返事はいらない」という言葉に甘え、自分が傷つきたくない(悪者になりたくない)という理由で沈黙を「キープ」しているだけではないか。
ポケットの中のスマホに、無意識に指が触れる。
取り出すことはせず、そのまま歩き続けた。
――返事はいらない。
あの夜、泣きそうに笑っていった彼女の言葉。
それは拒絶ではなく、彼女なりの「逃げ道」を作ってくれた優しさだった。
その優しさを、自分を守るための盾にしていた。
相手の覚悟を宙ぶらりんにしたまま、自分だけが安全な場所にいようとする自分の卑怯さが、ひどく惨めに思えた。
答えはもう、心の中で決まっている。
彼女が傷つくと分かっていても、一人の人間として真っ直ぐに向き合うこと。
それが、今の自分にできる唯一の誠実さなのだから。
夕闇に沈む街並みを、颯太は少しだけ強い歩調で踏みしめた。
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