屋上の約束と夜の旋律
屋上の扉が閉まり、風の音が遠のいた。
放課後の校舎は、昼間よりも静かだ。部活に向かう生徒の足音や、どこかの教室から漏れる笑い声が、壁を隔てて薄く響いている。
颯太は、先ほど自分が口にした言葉を、何度も思い返していた。
「また、曲を歌ってほしい」
衝動だったわけではない。
けれど、強い確信があったわけでもなかった。
颯太は数年前から、自分の動画サイトに曲を投稿している。
誰に頼まれたわけでもなく、評価されるあてもなく。
再生数は伸びず、コメントもほとんどつかない。
画面の向こうに誰かがいるのかどうかさえ、わからないままだった。
だから、自分の曲に自信があるかと聞かれたら、答えに詰まる。
良いと思って作ったはずの曲も、時間が経つと不安ばかりが残った。
それでも――。
隣を歩く莉奈は、わずかに歩調を落としている。
胸元のリボンは、この学校で三年生だけが身につける色だった。
本人は気にしていないのか、指先で無意識にその端を弄びながら、少し俯いて歩いている。
「……今日は、少し暑かったですね」
沈黙が長くなりかけて、颯太はとっさに口を開いた。
「そうですね。屋上、風は気持ちよかったけど」
それだけの会話。
内容はどうでもよかった。ただ、声を交わしていないと落ち着かなかった。
莉奈――桜庭莉奈というのが、彼女の本名だ。
画面の向こうでは〈ステラ〉として歌い、多くの人に見られている存在。
けれど今、彼の隣を歩いているのは、制服姿の一人の女子高生だ。
廊下の掲示板に貼られた進路案内のポスターに、莉奈は一瞬だけ視線を向ける。
すぐに目を逸らし、何事もなかったように歩き続けた。
――また歌ってほしい、という言葉に。
売名の意図はなかった。
再生数が伸びるとか、名前が広まるとか、そういう期待もなかった。
そもそも、提供するときは別名義で、あの曲はステラのことを考えて作ったものだ。
そして、次に書く曲も、ステラの為に作る。
だから颯太は思っていた。
新しく曲を書くなら。
もし誰かに歌ってもらえるなら。
あの歌声がいい、と。
校門を抜けると、空は茜色に染まっていた。
低い太陽が、アスファルトに長い影を落とす。
駅へ向かう道は、途中で分かれている。
そこまで来て、二人は自然と足を止めた。
「……あの」
莉奈が、声を落とす。
「私のこと……その、ステラのこと」
言葉が途中で切れ、視線が地面に落ちる。
理由はわからない。
ただ、颯太には、それ以上踏み込んではいけない気がした。
「誰にも言わない」
短く、そう答える。
約束というほど大げさなものじゃない。
けれど、それ以外の選択肢は思いつかなかった。
莉奈は一瞬、驚いたように目を見開き、それから小さく息を吐いた。
「……ありがとう」
その声は、「ステラ」として配信で聞く声より、ずっと小さかった。
人混みの駅前で、二人は足を止めた。
「……歌うから」
「え?」
「次の曲。ちゃんと、歌う」
莉奈は胸元のリボンに触れ、視線を少し落とす。
視界の隙間から、最後に一度だけ目が合った。
そしてそれぞれ、人の流れに消えていった。
―――――――――――――――――――――――
その夜、颯太は自室でパソコンを立ち上げた。
自分のアカウント。
並んだ動画の再生数は、どれも似たようなものだ。
颯太は作曲ソフトを開き、新しいプロジェクトを作る。
タイトルは、まだ空白のまま。
自信はない。
また「ステラステップ」のように届いてくれるか、わからない。
それでも、書こうと思えた。
同じ空の下で、ステラというVtuberの桜庭莉奈が歌うかもしれない。
そう考えると、指が自然とキーボードに伸びていた。
しかし、「ステラステップ」の時のようにすぐにはフレーズが出てこない。
作曲ソフトを立ち上げたまま、鍵盤を叩くが、どれもしっくりこない。
コードを鳴らしては止め、消してはまた打ち込む。
良い悪いの判断すらつかないまま、時間だけが過ぎていった。
「……ちょっと、休憩するか」
独り言のように呟いて、颯太はブラウザを開く。
無意識のうちに、いつもの動画サイトへとカーソルが動いていた。
――〈ステラ〉、配信中。
小さく表示されたサムネイルには、見覚えのあるファンタジー調の画面。
少し前に発売されたRPGだ。派手さはないが、根強い人気のある作品だった。
配信を開くと、軽やかな声がイヤホン越しに流れ込んでくる。
『はい、じゃあ今日はここから再開していきます。
前回は……えっと、あ、ここで全滅しかけたんだっけ』
学校の屋上で言葉を交わした莉奈と、画面の向こうでゲーム実況するステラ。
本当に同一人物なのかと、颯太は疑ってしまうほど、別人のように見えた。
ステラは攻略をなぞるというより、寄り道しながら世界を歩いていた。
『この町、BGMいいよね。なんか落ち着くから、ちょっとゆっくり見ていこう』
歌っているときとは違う声色。
張りすぎず、作りすぎず、自然体のまま続いていく実況。
颯太は、キーボードから手を離したまま、画面を眺めていた。
コメント欄が流れていく。
〈その武器、後で強化できますよ〉
〈このイベント見逃すとちょっと損かも〉
『あ、ほんと? じゃあ先に寄り道しようかな。
教えてくれてありがとう』
たくさん流れるコメントに、丁寧に反応している。
歌の配信よりも人数は少ないが、その分、距離が近い。
――桜庭莉奈。
昼間、隣を歩いていた制服姿が、ふと脳裏をよぎる。
けれど画面の中のステラは、そんなものを感じさせない。
すべて画面の外に置いたまま、ただゲームを楽しんでいる。
『あ、ちょっと待って。このボス……たぶん、さっきの装備だとキツいかも』
キャラクターが攻撃を受け、体力ゲージが一気に削れる。
『うわ、やっぱり!ごめん、一回戻るね』
苦笑混じりの声に、チャット欄が少しだけ盛り上がる。
その空気が、不思議と心地よかった。
颯太は、作曲ソフトの画面を一度閉じた。
今の自分には、まだ音が足りない。
代わりに引き出しから取り出したのは、使い古した一冊のノートと一本のボールペンだった。
配信音声を流したまま、颯太はペンを走らせる。
――桜庭莉奈。
俯きがちな視線。リボンを弄ぶ指先。
「歌うから」と言ったときの、少しだけ震えていた声。
――ステラ。
天真爛漫な笑い声。リスナーへの丁寧な気遣い。
画面の中でだけ、自由に羽ばたいているような輝き。
二つの名前をノートの真ん中に書き、その周りを断片的な言葉で埋めていく。
画面の中で『教えてくれてありがとう』と笑うステラを見つめながら、颯太は思う。
どちらも彼女だ。
孤独を抱えながら、画面の向こうにだけ居場所を作った一人の少女の姿。
ふと、ペンが止まった。
「孤独」と「輝き」。その矛盾こそが、彼女の魅力なのだと気づく。
颯太はノートの隅に、新しいフレーズの着想を書き殴った。
マイナーコードから始まり、サビで一気に視界が開けるような、夜明けの旋律。
配信の声は、もはや単なる音声ではなかった。
それが、颯太の中に眠っていた音の欠片を一つずつ繋いでいく。
一通りノートを埋め尽くすと、颯太はようやく配信の音量を絞った。
静寂が戻った部屋で、今度は自分の頭の中に鳴り始めた音を形にするべく、再びキーボードに指を置く。
さっきまでとは、明らかに指の重さが違っていた。
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