一番星に捧ぐケーキ
深夜、自室のデスクで白紙の五線譜を見つめていた。
莉奈から「新しい曲」を頼まれてから数日。
ペンは驚くほどに進まなかった。
今回作るのは、完璧な偶像としての「ステラ」の曲ではない。
一人の女の子・桜庭莉奈が、暗闇の中にいた過去の自分へ贈る、魂の救済のような曲。
その重みに、颯太の指先はすくんでいた。
翌日の昼休み。
中庭のベンチで、颯太は隼人と並んで購買のパンを齧っていた。
「なあ颯太、その焼きそばパン一口くれよ。代わりに俺のコロッケパンやるから」
隼人はいつも通り、底抜けに明るい。
夏休み明けに隼人の母親が亡くなってから、もう二ヶ月が経つ。
家族の大きな支柱を失った彼がどれほどの喪失を抱えているかは想像に難くないが、隼人は周りに気を使わせまいと、以前と変わらぬ「お調子者の親友」を演じ続けていた。
莉奈も、隼人も、そしていろはも。
誰もがそれぞれの傷を抱えながら、必死に前を向いて歩き出そうとしている。
(……俺だけだ。立ち止まってるのは)
周囲が鮮やかに動き出していく中で、自分だけが進めていないような、得体の知れない焦燥感が颯太を支配していた。
放課後、颯太はいつものようにパティスリー・アストルでバイトに入っていた。
時刻は十七時になろうとしている。
夕闇が迫る店内に、一人の小学生くらいの女の子が静かに入ってきた。
子供一人での来店を不思議に思いつつ、颯太はレジ越しに声をかける。
女の子はまっすぐショーケースへ向かうと、店の看板商品であるホールケーキ『エトワール・ド・ルヴ』を指差した。
「……これ、ください」
親に頼まれたのだろうか。
だが、女の子が小さな財布から出した小銭は、五百円ほど足りなかった。
「あの、これ、バラ売りはしてないですか?」
不安そうに揺れる瞳。
このケーキはホール限定の商品だ。
「どうしても、このケーキがいいのかな?」
颯太が問いかけると、女の子は必死に頷いた。
「今日、お母さんの誕生日なの。お母さんが一番好きだったこのケーキを、みんなで食べたいの……」
その言葉に、颯太はなんとかできないか店長の恵子さんに相談をしに行った。
奥で作業をしていた恵子さんに事情を説明すると、彼女は表に出てきてくれた。
そして女の子の顔を見るなり、驚いたように目を見開いた。
「……ひよりちゃん?」
「恵子おばちゃん……」
その子は、隼人の妹だった。
恵子さんはすべてを悟ったように、裏でケーキをきれいに家族分にカットして箱に詰めると、優しく差し出した。
「ひよりちゃん、これ。お金はいらないから、持って行きなさい。お母さんへのプレゼント、私にも手伝わせて」
ひよりが大切そうに箱を抱えるのを見届け、恵子さんは颯太の方を振り返った。
「颯太くん悪いんだけど、時間も時間だし、危ないからこの子を家まで送ってあげてもらえないかな?」
店にはまだ片付けや明日の仕込みが残っており、恵子さんが店を空けるわけにはいかない。
彼女は申し訳なさそうに、けれど真剣な目で続けた。
「今日はもうそのまま上がっていいから。お願いね」
颯太は二つ返事で了承し、エプロンを外すと、ひよりの歩調に合わせて店を出た。
店を出て、しばらく歩いて気づく。
向かっているのは隼人の家がある方角ではなかった。
「ひよりちゃん、こっちじゃないよね?」
「……こっちなの。お母さんが、ここにいるから」
たどり着いたのは、夕暮れに沈む墓地だった。
ひよりは一基の墓の前で足を止めると、冷たい石の台座を小さな手でそっと撫でた。
そして、宝物を扱うような手つきでケーキの箱を開け、中身を供える。
「お母さん、お誕生日おめでとう……」
消え入りそうな声が、静まり返った墓地に溶けていく。
ひよりはそのまま、供えられたケーキを見つめて動かなくなった。
こらえようと肩を震わせていたが、やがて大きな涙の粒が一つ、また一つと零れ落ち、ケーキの箱を濡らしていく。
「……本当はね、みんなで食べたかったの。お母さんも一緒に、みんなで……」
幼い少女が、今日という日までどれほどの寂しさを小さな胸に押し込めてきたのか。
その一雫の涙にすべてが凝縮されているようで、颯太は喉の奥が熱くなるのを感じ、ただ見守ることしかできなかった。
そこへ、静寂を切り裂くような激しい足音が近づいてくる。
「……ひより!」
肩で息を切らし、今にも倒れそうな様子で現れたのは隼人だった。
隼人は、墓前に供えられたケーキと、泣きじゃくる妹の姿を交互に見た。
その瞳には、家にも学校にもいない妹を必死に探し回った焦燥と、そして「やはりここだったのか」という、隠しきれない痛みが混ざり合っている。
隼人は膝をつくようにして、ひよりの小さな体を折れそうなほど力一杯抱きしめた。
「……バカ。……心配したんだぞ、本当に」
その声は、ひよりを責めるためではなく、自分自身に言い聞かせるように震えていた。
隼人は、ひよりがお母さんに会いたがっていることも、この場所に来たがっていたことも、本当は分かっていたはずだ。
けれど、それに向き合えば自分も崩れてしまうから、気づかないふりをして明るく振る舞い続けてきた。
抱きしめられたひよりは、隼人の胸の中で堰を切ったように大泣きした。
「……お、お母さん、に……っ、会いたかったの……っ!」
その泣き声は、夕闇の墓地に痛いほど響き渡った。
その光景を、颯太は胸が引き裂かれるような思いで見つめていた。
母親を失ってから二ヶ月。
ずっと隣で笑っていた隼人の顔がフラッシュバックする。
無理に自分を笑わせようとしていた言葉、強引にパンを分け合おうとしていた手の震え。
隼人がどれだけの夜を、この妹の前で「強い兄」として、そして学校で「明るい友達」として演じ続けてきたのか。
一歩、颯太は二人のそばへ歩み寄り、震える声を絞り出した。
「……隼人、もういい。もういいんだよ」
低く、けれど確かな声に、隼人の体がびくりと強張った。
「お前が無理してるの、ずっと分かってた。周りに気を使わせたくなくて、わざと明るく振る舞ってることも……。お前のそういう優しいところ、ずっと見てきたから。……でもさ、たまには弱いとこ見せたって、いいだろ」
颯太の指先に、隼人の震えがダイレクトに伝わってくる。
「隼人……お前も、本当は寂しいんだろ。……もう、十分頑張ったよ」
張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
隼人は、ひよりを抱きしめたまま顔を伏せると、獣のような掠れた声を漏らした。
それが次第に大きな嗚咽へと変わり、彼は地面に膝をついたまま、堰を切ったように泣き出した。
周りに気を使わせないための明るい仮面が、冷たい風に溶けていく。
颯太は二人が泣き止むまで、静かにそばで見守り続けた。
しばらくして、少しだけスッキリした顔の隼人とひよりが立ち上がった。
「ありがとな、颯太。……帰るわ」
隼人はひよりと手を繋ぎ、ケーキの箱を大切そうに抱えた。
「ケーキ、帰って家族四人で一緒に食べるよ」
母親の魂も一緒だと言うように、隼人は少しだけ笑った。
遠ざかっていく二人の後ろ姿を、颯太は動かずに見つめていた。
不意に、自分の胸の奥に閉じ込めていた記憶が蘇る。
父親が亡くなった時の、あの冬の匂い。
無理に笑っていた自分。
誰かのために、過去の自分に「大丈夫」と伝える歌。
(……そうか)
颯太の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
莉奈が求めていたもの。
そして自分が書くべきメロディが、夕闇の中で微かに響き始めた気がした。
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