雪解けの予感と、新たな旋律
文化祭の狂騒が嘘のように、学校には穏やかな日常が戻っていた。
週が明け、校内を騒がせていた「ステラ疑惑」の噂も、徐々に熱を失い始めている。
生徒全員がVtuberに興味があるわけではない。
喉元を過ぎれば、多くの者にとってそれは「歌のうまい女子生徒がいた」という、ありふれたトピックのひとつに収束していくのだ。
月曜日の二時間目。
窓際の席で、颯太は退屈な授業の声を遠くに聞きながら、隣で気持ちよさそうに船を漕いでいる隼人を横目に外を眺めた。
校庭では体育の授業が行われている。その中に、ジャージ姿の莉奈の姿を見つけた。
(……あ)
莉奈が、クラスの女子数人に声をかけられていた。
以前の彼女なら、準備体操もランニングも、常に誰とも交わらず一人でこなしていたはずだ。
しかし今、彼女は戸惑いながらも、隣に並んだ生徒とぎこちなく言葉を交わしながら準備運動を始めている。
文化祭でのあのステージが、彼女と世界の間にあった分厚い壁に、小さな風穴を開けたのだろう。
人が苦手だった莉奈が、少しずつ外の世界を受け入れようとしている。
それは喜ばしいことなのに、颯太の胸の奥には、自分だけが知っていた莉奈が少しずつ遠くへ行ってしまうような、名付けようのない寂しさが微かに滲んだ。
ふと、週末のいろはとのデートを思い出す。
いろはは確実に気づいている。
颯太の動揺ぶりからして、彼女の中ではもう「確信」に変わっているはずだ。
そのことを莉奈に伝えておくべきだと思い、颯太は休み時間に「昼休み、屋上で会えませんか」とメッセージを送った。
昼休みの屋上。
吹き抜ける風は先週よりも少しだけ冷たさを増していた。
「……そう。いろはちゃん、気づいちゃったんだね」
颯太の話を聞き終えた莉奈は、意外にも落ち着いた様子で空を見上げた。
「すみません。俺がもっと上手く誤魔化せていれば……」
「いいの。謝らないで、颯太くん。むしろ、私の秘密を無理やり背負わせてしまってごめんね」
莉奈は優しく微笑んで、続けた。
「覚悟はしてたの。でも、やっぱり……少し怖いかな。今日もクラスの子に『お昼一緒に食べよう』って誘われたんだけど、適当に嘘をついて逃げてきちゃった。過去のことがあって、どうしても、人を手放しで信じるのが難しくて」
かつてのいじめの記憶。
彼女にとって、他人の好意はいつ牙を剥くかわからない「未知のもの」なのだ。
けれど、彼女の言葉はそこで終わらなかった。
「でもね、いつまでもこのままじゃダメなのかなって、最近思い始めてるの。この先、大人になって、社会に出て……ずっと逃げ続けるわけにはいかないから」
莉奈はふう、と白い息を吐いた。
「進路、まだ決めてないけど……そろそろちゃんと向き合わなきゃ。私、もう三年生だしね」
「進路」という現実的なワードに、颯太はハッとさせられた。
莉奈は颯太より一つ年上で、春になればこの学校を卒業してしまう。
当たり前のように屋上で会える日々には、明確な終わりが近づいているのだ。
沈黙した颯太を気遣うように、莉奈は遠くの空を見つめた。
「私ね、文化祭で歌って……自分でも驚くくらい、何かが変わった気がするの。あの日までは、外の世界は怖くて、悪意に満ちた場所だってずっと思い込んでた。でも……」
莉奈は一度言葉を切り、柵を握る手に少しだけ力を込めた。
「ステージから見えたのは、ただ純粋に歌を楽しんでくれる人たちの顔だった。知らない誰かの笑顔が、あんなに温かいものだって、初めて知ったの。……今まで私は、誰かに傷つけられないように、自分で自分を暗い箱の中に閉じ込めてたんだと思う」
「桜庭先輩……」
「前にも言ったけど、私はずっと前から、颯太くんの曲に救われてたんだよ」
莉奈はふっと視線を落とし、慈しむように微笑んだ。
「昔の私が、颯太くんがネットに投稿した曲を聴いて、もう一度だけ声を出す勇気をもらったあの時から。あの曲があったから、私は一人で歌い続けることができた。そしてあの日、勇気を出して『現実』で歌ったことで、ようやく自分自身を許せたような気がするの」
冷たい風が二人の間を吹き抜ける。
莉奈は少しだけ震える肩を抱くようにして、真っ直ぐに颯太を見た。
「私、もう逃げたくない。変わりたいんだと思う。……だからね、颯太くんに、お願いがあるの」
「お願い……?」
「また、曲を書いてほしい。今度は、ステラとしてじゃなくて、『桜庭莉奈』としての今の気持ちを込めた歌を」
彼女は自分の胸にそっと手を当てた。
「過去の暗闇の中で震えていた自分に、『大丈夫だよ、未来はそんなに怖くないよ』って伝えてあげられるような……そんな曲を、書いてほしいの」
それは、彼女の過去への決別であり、未来への宣誓だった。
颯太は胸を突き動かされるような衝動を感じ、力強く頷いた。
「……わかりました。最高の曲を、書きます」
二人の間に、新しい約束が交わされた。
卒業というリミットが迫る中で、彼らの音楽は、より深く、より切実な形へと変わろうとしていた。
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