表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

28/58

一番近くの、遠い場所

夏祭りの夜から、数日が経った。


あの後、どうやって莉奈と別れて、どうやって家まで帰ったのか、記憶がひどく曖昧だ。

覚えているのは、繋いだ手のひらの熱さと、花火の光に照らされた莉奈の笑顔だけ。

メッセージの一言を送るのにも指が震えてしまい、結局、最低限の挨拶を交わしただけで夏休みは幕を閉じた。


そして迎えた、新学期初日。

登校風景はいつもと変わらないはずなのに、颯太の目にはすべてが違って見えた。


ふとした瞬間に、あの夜の莉奈の姿が脳裏をよぎる。

提灯の明かりに照らされた白い浴衣、アップにした髪から覗くうなじ、そして、花火の光の中で向けられたあの笑顔。

一度思い出すと、周囲の喧騒も遠のき、繋いだ手のひらの熱が蘇ってくるようだった。


莉奈のことを「好きだ」とはっきり自覚してしまったせいで、彼女に会ったらどんな顔をすればいいのか分からない。

もし向こうから声をかけられたら、まともに返事すらできない自信があった。


けれど、視線は無意識に莉奈の姿を探してしまう。

校舎の角を曲がるたび、階段を上るたび、淡い期待と恐怖が胸の中でせめぎ合う。


会いたい。


でも、今の顔を見られたくない。

矛盾した感情に振り回されながら、颯太は少しだけ俯き加減で、足早に廊下を通り抜けた。


そんな浮ついた足取りで教室に入り、颯太はいつもの席へ向かった。

自分の席に向かうと、大体いつも先にいるはずの隼人の席は、空だった。


始業式が終わっても、隼人は現れなかった。


(珍しいな。寝坊か? それとも風邪でも引いたのか……)


夏休み中。

一緒に海に行った時から、隼人とは連絡を取っていない。

おまけに今日の欠席。

微かな違和感が胸を掠めたが、颯太はその日を普通にやり過ごした。


放課後。

颯太はバイト先のケーキ屋『パティスリー・アストル』へと向かった。

夏休みの間、颯太はいつも通りシフトに入り、この店で働いていた。


しかし、店長である秋元恵子とは、一度も顔を合わせていなかった。

颯太のシフトと恵子さんの休みがたまらま重なっていた。


扉を開けると、そこには久しぶりに厨房に立つ恵子の姿があった。


恵子さんはいつも通りの落ち着いた様子で、焼き上がったばかりのスポンジの香りを確かめていた。


「あ、颯太くん。お疲れ様。夏休み中、なかなかお店に顔を出せなくてごめんなさいね。あなたがしっかり入ってくれて助かったわ」


恵子さんが笑う。


「いえ……お疲れ様です、恵子さん。ずっといらっしゃらなかったから、どこか旅行にでも行ってるのかと思ってました」


何気ない質問だった。

しかし、恵子の瞳が微かに揺れる。


恵子さんは、颯太が何も知らないことに気づき、痛ましいものを見るような表情を浮かべた。


「……颯太くん、隼人から何も聞いてないの?」


「え……? 何を、ですか?」


恵子はカウンターの下で手を握りしめ、絞り出すように言った。


「隼人の……私の妹でもある、あの子のお母さん。亡くなったのよ」


一瞬、耳に届いた言葉の意味が理解できなかった。

お母さんが、亡くなった? 誰が?


「……あの子、昔から身体が弱かったから。入退院を繰り返すこともあったけど、この夏は調子が良さそうだったの。だから、私たちもどこかで安心しちゃっていたのね。それが八月の初め……みんなで海に行ったすぐ後に、ふっと糸が切れるように亡くなったのよ」


心臓の音が、耳元で激しく打ち鳴らされる。


海。


あの眩しい太陽の下で、隼人はあんなに笑っていた。

その直後に、彼は日常を奪われていたのか。

自分がこの店で普通に働いていた時、隼人も、その叔母である恵子さんも、絶望の渦中にいたのだ。


バイトが終わり、颯太は店の裏口で隼人に電話をかけた。

数回のコールの後、繋がった声は、驚くほど「普通」だった。


『……よぉ、颯太。どうした? バイト終わったのか?』


「隼人……お前……」


声が震える。

何を言えばいいのかわからない。


情けないほど声が震え、言葉が続かない。

そんな颯太の動揺を、受話器越しの沈黙だけで隼人は全て察したようだった。

わずかな間の後、隼人が少しだけ苦笑混じりの声で、静かに切り出した。


隼人は淡々と語った。

自分が長男だから、しっかりしなきゃいけなかったこと。


「……ショックじゃないわけ、ないだろ。お前……」


『……まあな。でも、俺よりひよりがヤバくてさ。まだ全然、受け入れられてないんだ。今日もあいつが部屋から出てこなくて、ほっとけないから、俺も休んだんだよ』


「……そう、だったのか」


かけるべき言葉が見つからない。

だが、隼人はそんな颯太の沈黙を責めることもなく、どこか自分に言い聞かせるような口調で続けた。


『明日はちゃんと学校行くからさ。心配すんなって。じゃあな』


「……わかった。明日、待ってる」


短くそう答えるのが、今の自分にできる精一杯だった。


『じゃあな』という言葉と共に、通話が切れる。


スマホを耳から離しても、耳の奥には隼人の「無理をした普通」の声が残り続けていた。


颯太は中学の時、自分も父親を亡くしている。

あの時の、世界から色が無くなるような感覚を覚えている。


隼人は、自分よりもずっと強い。


だからこそ、その裏側にあるはずの痛みが、颯太には他人事とは思えなかった。


莉奈への恋心を自覚し、世界が輝き出したはずの颯太の足元で、冷たく暗い影が音もなく広がっていた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


少しでも心に残るものがあれば、


評価やブックマークで応援していただけると嬉しいです。


次回も、よろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ