一番近くの、遠い場所
夏祭りの夜から、数日が経った。
あの後、どうやって莉奈と別れて、どうやって家まで帰ったのか、記憶がひどく曖昧だ。
覚えているのは、繋いだ手のひらの熱さと、花火の光に照らされた莉奈の笑顔だけ。
メッセージの一言を送るのにも指が震えてしまい、結局、最低限の挨拶を交わしただけで夏休みは幕を閉じた。
そして迎えた、新学期初日。
登校風景はいつもと変わらないはずなのに、颯太の目にはすべてが違って見えた。
ふとした瞬間に、あの夜の莉奈の姿が脳裏をよぎる。
提灯の明かりに照らされた白い浴衣、アップにした髪から覗くうなじ、そして、花火の光の中で向けられたあの笑顔。
一度思い出すと、周囲の喧騒も遠のき、繋いだ手のひらの熱が蘇ってくるようだった。
莉奈のことを「好きだ」とはっきり自覚してしまったせいで、彼女に会ったらどんな顔をすればいいのか分からない。
もし向こうから声をかけられたら、まともに返事すらできない自信があった。
けれど、視線は無意識に莉奈の姿を探してしまう。
校舎の角を曲がるたび、階段を上るたび、淡い期待と恐怖が胸の中でせめぎ合う。
会いたい。
でも、今の顔を見られたくない。
矛盾した感情に振り回されながら、颯太は少しだけ俯き加減で、足早に廊下を通り抜けた。
そんな浮ついた足取りで教室に入り、颯太はいつもの席へ向かった。
自分の席に向かうと、大体いつも先にいるはずの隼人の席は、空だった。
始業式が終わっても、隼人は現れなかった。
(珍しいな。寝坊か? それとも風邪でも引いたのか……)
夏休み中。
一緒に海に行った時から、隼人とは連絡を取っていない。
おまけに今日の欠席。
微かな違和感が胸を掠めたが、颯太はその日を普通にやり過ごした。
放課後。
颯太はバイト先のケーキ屋『パティスリー・アストル』へと向かった。
夏休みの間、颯太はいつも通りシフトに入り、この店で働いていた。
しかし、店長である秋元恵子とは、一度も顔を合わせていなかった。
颯太のシフトと恵子さんの休みがたまらま重なっていた。
扉を開けると、そこには久しぶりに厨房に立つ恵子の姿があった。
恵子さんはいつも通りの落ち着いた様子で、焼き上がったばかりのスポンジの香りを確かめていた。
「あ、颯太くん。お疲れ様。夏休み中、なかなかお店に顔を出せなくてごめんなさいね。あなたがしっかり入ってくれて助かったわ」
恵子さんが笑う。
「いえ……お疲れ様です、恵子さん。ずっといらっしゃらなかったから、どこか旅行にでも行ってるのかと思ってました」
何気ない質問だった。
しかし、恵子の瞳が微かに揺れる。
恵子さんは、颯太が何も知らないことに気づき、痛ましいものを見るような表情を浮かべた。
「……颯太くん、隼人から何も聞いてないの?」
「え……? 何を、ですか?」
恵子はカウンターの下で手を握りしめ、絞り出すように言った。
「隼人の……私の妹でもある、あの子のお母さん。亡くなったのよ」
一瞬、耳に届いた言葉の意味が理解できなかった。
お母さんが、亡くなった? 誰が?
「……あの子、昔から身体が弱かったから。入退院を繰り返すこともあったけど、この夏は調子が良さそうだったの。だから、私たちもどこかで安心しちゃっていたのね。それが八月の初め……みんなで海に行ったすぐ後に、ふっと糸が切れるように亡くなったのよ」
心臓の音が、耳元で激しく打ち鳴らされる。
海。
あの眩しい太陽の下で、隼人はあんなに笑っていた。
その直後に、彼は日常を奪われていたのか。
自分がこの店で普通に働いていた時、隼人も、その叔母である恵子さんも、絶望の渦中にいたのだ。
バイトが終わり、颯太は店の裏口で隼人に電話をかけた。
数回のコールの後、繋がった声は、驚くほど「普通」だった。
『……よぉ、颯太。どうした? バイト終わったのか?』
「隼人……お前……」
声が震える。
何を言えばいいのかわからない。
情けないほど声が震え、言葉が続かない。
そんな颯太の動揺を、受話器越しの沈黙だけで隼人は全て察したようだった。
わずかな間の後、隼人が少しだけ苦笑混じりの声で、静かに切り出した。
隼人は淡々と語った。
自分が長男だから、しっかりしなきゃいけなかったこと。
「……ショックじゃないわけ、ないだろ。お前……」
『……まあな。でも、俺よりひよりがヤバくてさ。まだ全然、受け入れられてないんだ。今日もあいつが部屋から出てこなくて、ほっとけないから、俺も休んだんだよ』
「……そう、だったのか」
かけるべき言葉が見つからない。
だが、隼人はそんな颯太の沈黙を責めることもなく、どこか自分に言い聞かせるような口調で続けた。
『明日はちゃんと学校行くからさ。心配すんなって。じゃあな』
「……わかった。明日、待ってる」
短くそう答えるのが、今の自分にできる精一杯だった。
『じゃあな』という言葉と共に、通話が切れる。
スマホを耳から離しても、耳の奥には隼人の「無理をした普通」の声が残り続けていた。
颯太は中学の時、自分も父親を亡くしている。
あの時の、世界から色が無くなるような感覚を覚えている。
隼人は、自分よりもずっと強い。
だからこそ、その裏側にあるはずの痛みが、颯太には他人事とは思えなかった。
莉奈への恋心を自覚し、世界が輝き出したはずの颯太の足元で、冷たく暗い影が音もなく広がっていた。
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