夏の火花、高鳴りの正体
神社の鳥居前。
提灯の淡いオレンジ色が、立ち込める熱気と混ざり合って、視界を非日常の色に染め上げている。
「……颯太くん」
背後からかけられた、鈴の鳴るような声。
ゆっくりと振り返った颯太は、そのまま石像のように硬直した。
そこにいたのは、白地に淡い青の花が散らされた浴衣姿の莉奈だった。
いつもは大人っぽく見える彼女の髪が少しだけアップにまとめられ、うなじが白く、眩しく浮かび上がっている。
「……あの、変、かな? 慣れないことしちゃったから、自分でもよく分からなくて」
莉奈が、居心地悪そうに浴衣の裾を指先でいじった。
画面の中で何万ものリスナーを魅了する『ステラ』の、あの堂々とした立ち振る舞いからは想像もできない。
目の前にいるのは、慣れない浴衣に戸惑い、不安そうに自分を見上げる一人の女の子だ。
そのあまりに人間らしい初々しさに、颯太の心臓が爆発しそうなほど高鳴った。
「……いえ。その、すごく……似合ってます。綺麗です」
絞り出した言葉は、お囃子の音にかき消されそうなほど小さかった。
けれど、莉奈の頬が提灯の光より赤く染まるのを見て、颯太は自分の心臓が爆発しそうなほど高鳴っているのを自覚した。
鳥居をくぐり、境内へと足を踏み入れる。
並ぶ夜店の数々と、そこから漂う熱気に混じった匂い。
ソースの焦げる香ばしい香りに、甘いチョコバナナやリンゴ飴の匂い。
さらには、どこか懐かしい水飴やあんず飴の甘酸っぱい空気が混ざり合い、お祭り特有の濃密な気配を作っていた。
引きこもりのような生活を送ってきた二人にとって、この人混みはまるで異世界の戦場のようだった。
颯太は緊張のあまり、無意識に歩幅が速くなっていた。
莉奈が不慣れな下駄で懸命に追いつこうとしていることに気づき、慌てて足を止める。
「すみません、置いていっちゃって。大丈夫ですか?」
「ううん、大丈夫。……ごめんね、歩くの遅くて」
莉奈は困ったように小さく笑い、自分の足元をちらりと見た。
鼻緒が気になるのか、その歩き方はどこかぎこちない。
颯太に気を使わせていることに、少しだけ恐縮しているような、そんな控えめな表情だった。
「……何か、食べたいものとかありますか?」
沈黙を埋めるように問いかけると、莉奈は「えっと……」と視線を彷徨わせた。
緊張のせいで思考がうまく回っていないのか、なかなか言葉が出てこない。
すると、すぐ近くの屋台から、カチカチと金属のピックが鉄板を叩くリズミカルな音と、焼き立ての香ばしい匂いが漂ってきた。
「……たこ焼き、食べたいな」
半分は咄嗟に出た言葉だったのだと思う。
けれど、それをきっかけにようやく会話の糸口が見つかったことに、莉奈の表情がふっと和らいだ。
無事にたこ焼きを買い求めたものの、祭りのメイン通りは立ち止まることすらままならない。
「あっち、少し空いてるみたいです」
颯太は、人混みの隙間から見える神社の裏手、境内の外れを指差した。
提灯の明かりが届かない、薄暗い木立の方へと歩いていく。
喧騒が少しずつ遠のき、代わりに足元の砂利を踏む音や、遠くの太鼓が地面を伝って響く振動が、より鮮明に感じられるようになった。
ようやく見つけた古びたベンチには、誰の姿もない。
「……ここなら、ゆっくりできそうだね」
莉奈が小さく息を吐き、隣に腰を下ろした。
少し離れた、木陰にある古びたベンチ。
喧騒が遠のくその場所で、二人は一つのたこ焼きの舟を広げた。
莉奈が、舟の中から一つ、大切そうにつまようじで持ち上げた。
湯気がふわりと彼女の鼻先を掠める。
莉奈は少しだけ目を細めると、小さな口元をすぼめて、丁寧に「ふー、ふーっ」と息を吹きかけた。
「……いただきます」
そっと口に運び、ハフハフと頬を膨らませて熱さに耐える。
やがて、とろけるような食感に莉奈の表情が明るくなる。
「……はい、颯太くんも」
莉奈がそっと、たこ焼きを差し出してきた。
その瞬間、二人は同時に気づく。
――つまようじは、一つしかない。
「あ、えっと……俺、そのまま食べますから」
「え、手汚れちゃうよ……私は……気にしないから」
莉奈の瞳が、まっすぐに颯太を射抜く。
逃げ場を失った颯太は、動揺しつつもお礼を言ってそれを口にした。
熱さと、莉奈と同じつまようじを使っているという事実が、脳を痺れさせる。
味なんてわからなかった。
最後の一つを口に運び終えると、二人の間にふわりと静かな沈黙が降りてきた。
空になった舟を袋に片付け、颯太は隣に座る莉奈を盗み見る。
提灯の明かりに照らされた彼女の横顔を見ていると、ふと、数ヶ月前の自分を思い出した。
暗い部屋で、誰に届くかもわからない曲を独りで作っていた自分。
画面越しの存在だった「ステラ」
そんな二人が今、こうして神社にあるベンチで、二人並んで座っている。
その奇跡のような巡り合わせを噛み締めていたら、胸の奥から自然と、飾らない言葉が溢れてきた。
「……なんか、不思議ですね。数ヶ月前までは、こうして先輩と隣に座ってるなんて想像もしてませんでした」
颯太の言葉に、莉奈が「……そうだね」と優しく目を細める。
「……桜庭先輩。改めて、ありがとうございます」
たこ焼きを飲み込み、颯太は静かに口を開いた。
「俺の曲、誰にも相手にされなかったのに。ステラが……先輩が見つけて、光をくれた。あのきっかけがなかったら、俺は今、ここにいません」
莉奈は自分の膝を見つめ、少しだけ目を細めた。
「私の方こそ。……あの曲を聴いた時、胸の奥が震えたの。私の居場所を颯太くんが導いてくれた。救われたのは、私の方だよ、颯太くん」
二人の間に、音楽を通じて結ばれた確かな絆が流れる。
配信者とファン、先輩と後輩。
そんな肩書きを超えた「自分たちだけ」の時間が、そこにはあった。
「……あ、もうすぐ花火が始まる」
莉奈が立ち上がる。
祭りは最高潮を迎えようとしていた。
花火をよく見るために移動を始めたが、人波は先ほどとは比べ物にならないほど激しさを増していた。
押し寄せる人の壁。
怒号のような歓声。
また置いていってしまう。
そう思って焦り、颯太が振り返ろうとしたその時。
――グイッ、と、シャツの裾を掴まれた。
振り返ると、莉奈が今にも人混みに飲まれそうな顔で、必死に颯太の背中に縋り付いていた。
「……ちゃんと、近くにいるから」
震える声で莉奈が呟く。
その細い指先が、颯太の服を離すまいと白くなっている。
その時、颯太の中の何かが弾けた。
考えるより先に、手が動いていた。
自分の服を掴んでいる彼女の小さな手を、上から包み込むように握った。
「っ……!」
莉奈が目を見開く。
けれど、拒絶はされなかった。
むしろ、莉奈の細い指が、颯太の手を受け入れた。
「……はぐれないように。このまま、行きます」
理屈じゃない。
莉奈を失いたくない。
この熱を離したくない。
その一心で、颯太は莉奈の手を引いて歩き出した。
今度は置いてかないように莉奈に歩幅を合わせる。
繋いだ手のひらから、ドクドクと互いの脈拍が伝わってくるようだった。
前を歩く颯太は、莉奈に顔を見られないよう、ただ必死に前だけを見つめる。
自分の耳が火を吹くほど熱いのが分かった。
後ろを歩く莉奈も、一言も喋らない。
けれど、繋いだ手に込められた力は少しも緩まず、それどころか、時折はぐれないようにと指先がぎゅっと握り直される。
人混みの中、二人だけの境界線がそこにある。
周囲の喧騒は相変わらず激しいのに、繋いだ手の周辺だけが、まるで魔法にかけられたように静かで、ひどく熱を持っていた。
辿り着いた高台。
夜空を切り裂くような轟音と共に、大輪の花火が打ち上がった。
極彩色の光が莉奈の横顔を鮮やかに、そして儚く照らし出す。
花火なんて、動画で見れば十分だと思っていた。
けれど、莉奈はまるで生まれて初めて魔法を見た子供のように、瞳を輝かせて感動していた。
「……綺麗」
そして、莉奈がふとこちらを向いた。
花火の閃光に照らされたその表情は、配信者ステラでも、仮面をかぶった桜庭莉奈でもない、一人の女の子としての、飾らない100%の笑顔だった。
「今日は連れてきてくれて、本当にありがとう。……来てよかった。ありがとう、颯太くん」
その笑顔を見た瞬間。
心臓が痛いほどの衝撃に襲われた。
――ああ。
だから、必死に手を握った。
だから、あんなに服選びに悩んだ。
だから、彼女が他の誰かといることを想像するだけで、死にたくなるような焦燥を覚えたんだ。
(……好きだ)
お囃子の音も、花火の轟音も、もう何も聞こえない。
目の前で笑う彼女の存在だけが、颯太の心に、消えない火花のように深く焼き付いていた。
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