待ちわびた夜の始まり
カラオケでの、あの薄氷を踏むような時間から数日が過ぎた。
放課後。
颯太はいつものように、第二音楽室の重い扉を開ける。
「あ、二宮くん。お疲れ様」
椅子に座り、ノートを広げていたいろはが顔を上げた。
あの日、四人で連絡先を交換して以来の対面だ。
颯太はどこか落ち着かない気持ちで「……ああ、お疲れ」と短く返し、いろはの近くに座る。
「作詞の調子はどうだ? 結局、この間はインスピレーションを湧かせるどころか、ただ歌っただけになっちゃったけど」
颯太がそう尋ねると、いろははいたずらっぽく目を細めてノートをこちらに向けた。
そこには、以前よりもずっと密度の高い言葉が並んでいた。
「うん。意外といい感じ。……あの日の帰り、なんか不思議と書きたいことが溢れてきたんだよね」
「……そうか。それなら良かった」
あの日の出来事が、いろはの中では創作の糧になっていたらしい。
皮肉なものだと思いながらも、完成に近づく曲を見て胸を撫で下ろす。
それからの一時間は、驚くほど濃密で、早かった。
いろはがバンドメンバーと練り上げてきた音源をスマホで流しながら、颯太がアドバイザーとして、より伝わる形へと歌詞の言葉を整えていく。
「……ここのフレーズ、もう少し音数を減らせないか? 言葉が詰まりすぎて、せっかく佐藤さんたちが作ったサビの伸びが死んでる気がする」
「えー、でもここはメンバーと相談して、全部伝えたいって決めたんだもん。……じゃあ、こっちの助詞を削ったらどうかな。その分、一音に込める強さを変えて歌ってみる」
いろはは伴奏に合わせて、実際に声を出しながら何度も言葉を研磨していった。
楽器が弾けないいろはにとって、自分の声こそが唯一の楽器であり、確認手段なのだ。
颯太が提示するリズムの修正案を、いろはが喉を鳴らして自分たちの音楽として解釈し、選び取っていく。
指導というよりは、いろはたちの熱量を一番いい形にパッケージングするための最終調整に近い。 窓の外から聞こえる運動部の掛け声さえ遠くに感じるほど、颯太たちは楽譜の世界に没入していた。
ついに最後の空欄にピースがはまるように、決定的な一言が書き込まれる。
しんと静まり返った音楽室に、いろはが「できた……!」と、絞り出すような歓喜の声を漏らして大きく背伸びをした。
シャープペンの芯で汚れた彼女の手元には、修正の跡だらけの、けれどバンドの想いが詰まった歌詞が完成していた。
「これで、俺の役目も終わりだな」
譜面を閉じながら告げると、いろはの動きがぴたりと止まった。
いろはは窓から差し込む西日を見つめ、それから少しだけ、寂しそうな顔をして笑った。
「……そっか。明日からはもう、二宮くんはここに来ないんだ」
「文化祭に向けた練習がメインになるだろ? 俺がいても何もすることないし」
「邪魔なんて、そんなことないのに」
その呟きは、ピアノの低音のように低く、颯太の耳に届いた。
いろははすぐに「なーんてね! 最高の曲にするから、本番楽しみにしててよ」と明るく振る舞ったが、その瞳には、まだ言い足りない何かが残っているように見えた。
それからさらに数日は、凪のような時間が過ぎた。
七月の下旬。
いよいよ本格的な夏を迎えようとしていたある日の夕暮れ時。
学校から帰宅し、自分の部屋で一息ついた頃だった。
時刻は十八時を回ったところ。
開け放した窓から入り込む生温い風に、遠くで鳴く蝉の声が混じっている。
ふいに、机に置いたスマホが短く震えた。
『オリジナル曲、完成したよ。……MVも、最高の出来になったと思う』
莉奈からのメッセージだった。
画面を見つめる颯太の指が、わずかに震える。
ついにか、という期待と高揚感が一気に押し寄せてきた。
誰もいない部屋で、思わず拳を握りしめる。
颯太の作った曲が、あのステラの歌声で世界に放たれる。
その事実が、じわじわと実感を伴って胸を熱くさせた。
『投稿日は、夏休み直前の終業式の日でもいいかな? 配信のスケジュールを調整したら、そこが一番みんなに聴いてもらえるタイミングみたいで』
莉奈がそう提案してくれた。
莉奈はプロの配信者として、視聴者の動向や自分の活動サイクルを冷静に見極めている。
莉奈が決めたのなら、そこが間違いなく「勝負の日」になるはずだ。
莉奈は『見る?』と聞いてくれたが、颯太はあえて断った。
『……いや、投稿されるまで待つよ。一般のリスナーと同じ、最高のタイミングで聴きたいから』
自分でも面倒なこだわりだとは思う。
けれど、莉奈が心血を注いだ作品を、ただの作業報告として受け取りたくはなかった。
そして迎えた、夏休み前の最後の登校日。
終業式を終え、開放感に満ちた生徒たちが校門をくぐっていく。
「なあ颯太、このあと駅前ふらついていかないか? 夏休み突入の景気付けにさ」
隼人の誘いに、颯太は「いいな、それ」と二つ返事で応じた。
ゲームセンターで無駄話をしたり、ハンバーガーショップでポテトをつついたり。
そんな何気ない放課後の風景も、今日だけはどこか遠い世界の出来事のように感じられた。
頭の片隅では、刻一刻と迫る「その時」のことばかり考えている。
家に帰り、母親と適当な夕飯を済ませた。
風呂に入り、身を清めるような気持ちで髪を乾かす。
自室に戻り、デスクの前に座った。
カーテンを閉め、部屋の明かりを落とす。モニターの光だけが、暗闇の中で青白く浮かび上がっている。
時計の針は、間もなく二十時を指そうとしていた。
ステラが言っていた、投稿時間だ。
ステラのチャンネルを開き、更新ボタンに指をかける。
颯太の名義は、あの初めてのオリジナル曲「ステラステップ」と同じ名義のままだ。
心臓の音が、やけに大きく聞こえる。
画面の向こうには、今この瞬間も、何万人というリスナーが待機しているはずだ。
けれど今、この暗い部屋で一人、投稿を待っている颯太は、ただの「二宮颯太」でも「作曲者」でもなかった。
ただ一人の、ステラのファンとして。 颯太は、運命の秒針が重なるのを待った。
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