静かな声が、背中を押す
シャーペンの先が、紙の上で止まりかけた。
問題文を読み返す。
条件は合っている。
式も立てた。
けれど、最後の符号にだけ、わずかな不安が残った。
――あ。
その瞬間、脳裏に声がよぎる。
『符号、気をつけてね』
図書室で、少しだけ首を傾げながら言った莉奈の声。
責めるでもなく、急かすでもなく、ただ静かに寄り添うような調子。
颯太は深く息を吸い、もう一度だけ確認する。
符号を入れ替え、ペンを走らせた。
……大丈夫だ。
チャイムが鳴り、試験は終わった。
答案用紙を提出しながら、肩から力が抜けていくのを感じる。
――やりきった。
最後までわからなかった数式もあった。
けれど、莉奈が「ここは出るよ」と言った範囲だけは、驚くほどスラスラとペンが走った。
試験中、迷うたびに彼女の落ち着いた声が脳裏で再生され、それが何よりの道標になった。
答案用紙が回収され、教室にざわめきが戻る。
「終わったあぁぁ!」
隼人が椅子の背もたれにのけぞりながら、大きな声を上げた。
「颯太、生きてるか? 俺はもう、脳みそが沸騰して蒸発したわ」
「……なんとか、な」
苦笑いして応えながら、颯太は無意識に鞄の中のスマホに意識を向ける。
試験前、莉奈から届いたあの一言。
たった数文字のメッセージが、颯太をここまで連れてきてくれた。
教室中が「どこで遊んで帰るか」という話題で盛り上がる中、颯太はふと窓の外を眺めた。 廊下を歩けば、図書室へと続く階段がある。
――もう、あそこに行く理由はないんだ。
テストが終わった。それは「教わる」という口実が消えたことを意味していた。
解放感と同じくらい、胸の奥を通り抜ける風が冷たく感じる。
「おい、颯太! やっとテストが終わったんだ。たまには遊びに行こうぜ!」
隼人に肩を叩かれ、颯太は現実に引き戻された。
「ああ、わかったよ。……行こうか」
賑やかな喧騒に身を任せながらも、颯太の指先は、まだ「符号」を間違えないようにとペンを握っていた時の熱を覚えていた。
学校の門をくぐり、駅前の喧騒を抜けると、巨大なショッピングモールの自動ドアが音もなく左右に開いた。
途端に押し寄せる、どこかのショップから流れるアップテンポなBGM。
平日の昼下がりだというのに、モール内は試験休みの中高生や家族連れで溢れ返り、図書室のあの「静寂」が嘘だったかのような熱気に満ちている。
「うおっ、人多すぎだろ……。まあ、みんな考えることは同じか」
隼人が眩しそうに目を細めながら、慣れた足取りでエスカレーターへ向かう。
吹き抜けのホールを見下ろすと、色鮮やかな広告や華やかなディスプレイが目に入る。
つい数時間前まで白黒の数式と戦っていた身には、それらの色彩は少しだけ刺激が強すぎた。
「……なあ、颯太。何から行く? ゲーセンか? それともメシ?」
「ああ……。隼人に任せるよ。俺、まだちょっと頭がテストモードのままだから」
「真面目かよ! ほら、まずはそのガチガチの顔をほぐしに行くぞ」
隼人に背中を叩かれ、颯太は慌てて歩調を合わせた。
ガラス張りのエレベーターから差し込む午後の光が、モールの床を白く反射している。
ここには、ペンを走らせる音も、ページをめくる音もしない。
誰かと繋がっている感覚を、騒がしいノイズの中に必死に探すような、そんな落ち着かない放課後が始まった。
人の波。
雑音。
笑い声。
ゲームセンターで騒ぎ、フードコートで適当に腹を満たす。
楽しい。確かに楽しい。
それなのに——
――先週の今頃は、図書室にいたんだよな。
静かな空間。
紙をめくる音。
隣で、ペンを走らせる彼女。
胸の奥に、わずかな物足りなさが生まれる。
「どうした? ぼーっとして」
「いや、なんでもない」
日常は眩しい。
だからこそ、あの静寂が、特別だったと気づいてしまった。
数日後。
廊下の掲示板の前で、隼人が声を上げた。
休み時間が終わるチャイムと共に、教壇に立った教師の手には、厚みのある答案用紙の束があった。
教室中の空気が、一瞬でピリつく。
「……じゃあ、出席番号順に返すぞ。」
前の席の奴が肩を落として戻ってくるのを見送りながら、颯太は机の下で膝を震わせた。
「……田島隼人」
名を呼ばれた隼人が、死刑台に向かうような足取りで教壇へ向かう。 戻ってきた彼の手には、くしゃりと丸められかけた解答用紙。
「……お、おい。ギリッギリ……! ギリギリ首の皮一枚繋がったわ!」
隼人が座席に滑り込むなり、小声でガッツポーズを作る。 赤点ラインの数点上。まさに崖っぷちの勝利だ。
「次、二宮」
自分の名前を呼ばれ、背筋が伸びた。 教壇へ歩み寄り、教師から裏返しのまま手渡される。
「二宮。お前、今回どうした? 急に伸びたな」
先生の意外そうな言葉に、心臓が跳ねた。
席に戻り、ゆっくりと紙を裏返す。
そこに並んでいたのは、これまで見たこともないような「高い」数字だった。
「……え」
思わず声が漏れた。
苦手な数式も、符号のミスも、驚くほど正解の丸が並んでいる。
「おい、見せろ……って、はああ!? お前、何これ、天才かよ!」
横から覗き込んだ隼人が、椅子をガタつかせて声を上げた。
「試験だからってバイト休んでたのは知ってたけど、裏でどんだけ猛勉強してたんだよ……!」
「い、いや……たまたま、ヤマが当たったっていうか……」
慌てて答案を隠すが、耳まで熱くなるのが分かった。
隼人には言えない。
放課後の静かな図書室で、夕陽に照らされながら、誰よりも丁寧に教えてくれた「先生」がいたなんて。
鞄の中にあるスマホに触れたい衝動を、必死に抑えた。
この数字は、自分一人の力じゃない。 早く、彼女に伝えたかった。
その日の夜。
少し迷ってから、メッセージを打つ。
『テスト、なんとか大丈夫でした。教えてもらったおかげです。ありがとうございました』
送信して、スマホを伏せる。
返事が来るまでの時間が、やけに長く感じた。
しばらくして、通知。
『それはよかったです。』
短い一文。
続けて届いた。
『ちゃんと頑張った結果だよ』
その言葉と一緒に、控えめなスタンプが一つ。
その言葉に甘えたくなって、颯太は一歩踏み込んだ。
『今度、何かお礼をさせてください。莉奈さんの好きなものでも』
すぐに既読がついた。
けれど、返ってきたのは、
『ううん、お礼なら曲だけで十分。楽しみにしてるね』
優しくも、どこか一線を引いた莉奈らしい言葉。
少しだけ寂しさを感じたけれど、同時に、颯太に求められている役割を再確認した気がした。
帰宅後、パソコンの前に座る。
ふと思い立って、ステラの配信アーカイブを開いた。
テスト期間中、家では、莉奈から教わったことを忘れないように、参考書にしがみついていた。
隙間時間に少しだけ鍵盤に触れて気晴らしをすることはあっても、腰を据えて曲を作る時間は作らなかった。
莉奈との約束を果たすまでは……そう自分を律していたせいで、彼女の配信すらリアルタイムで見るのを我慢していた。
長時間。
声が少し掠れても、テンションを落とさず、画面の向こうの誰かを楽しませ続けている。
配信の終盤、ステラが少しだけ喉を潤し、「……ふぅ」と小さく吐息を漏らした。
それは、長時間勉強を教えてくれた後、図書室の窓を閉める時に彼女が漏らした吐息と、驚くほど似ていた。
画面の中の彼女は、完璧なVtuber・ステラだ。
けれど、その掠れた声の奥には、颯太のために時間を削り、一緒に戦ってくれた一人の女の子の熱量が、確かに宿っていた。
――颯太が必死に勉強してた時間。
彼女も、戦ってたんだ。
孤独に。
それでも、笑顔で。
胸の奥に、衝動が湧き上がる。
この人の努力に、応えたい。
この人を、支えたい。
言葉じゃ足りない。
だから——
颯太は、迷わず作曲ソフトを立ち上げた。
鍵盤に指を置く。
「……これは、俺から彼女への、本当のお礼だ」
静かな夜に、最初の音が鳴った。
物語は、また音楽へと戻っていく。
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