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日常のノイズと、図書室の静界

昼休みの屋上は、いつも通りだった。


風に揺れる金網の音と、どこか遠くから聞こえる笑い声。

隼人は慣れた手つきで弁当箱を広げる。


「今日もひよりのか?」


「おう。あいつ最近ますます腕上げた気がする」


彩りのいいおかずが詰められた弁当を見て、思わず目を細める隼人に、颯太は小さく笑う。

このやり取りも、もう何度目だろう。


「相変わらず女子力高いな」


「まあな。兄貴としては複雑だけどよ」


そう言いながらも、どこか誇らしげだ。

颯太はコンビニで買ったパンをかじり、その温度差に、ほんの少しだけ胸の奥が静かになる。


――自分には、こういう日常はない。


けれど、隼人とこうして並んでいる時間だけは、確かに居場所だった。


吹き抜ける風に目を細めていると、隼人が思い出したように口を開いた。


「そういや、テスト勉強進んでるか?」


不意に投げられた一言に、颯太は間の抜けた声を出す。


「……え、もうそんな時期か?」


「はあ?」

隼人は露骨に呆れた顔をした。


「この間、先生が言ってただろ。お前、最近上の空すぎるぞ」


莉奈とのこと。

ステラの楽曲制作。

バイト。


頭の中を占めていたそれらが、今さらになって一斉に重さを持つ。


――高校生、だったな。


赤点を取れば補習。

補習になれば、音楽に割く時間は消える。


胸の奥に、じわりと焦りが広がる。


黙り込んだ颯太を見て、隼人は飲みかけのペットボトルを地面に置いた。

少しだけ真面目な顔をして、決まり悪そうに前髪をかき混ぜると、隼人はふっと息を吐いて口を開いた。


「……余裕なさそうな時に悪いんだけどよ。これ、テストが終わってからでいい話だから、頭の片隅に置いといてくれ」


隼人が少し声を落とした。


友人の軽音部が、文化祭でオリジナル曲に挑戦したいこと。

でも、コピーしかやってこなかったから作り方が分からないこと。

だから、颯太に基礎を教えてほしいという話。


悪い話じゃない。

むしろ、嬉しいはずだった。


けれど――


颯太には、誰かに教えられるような体系的な知識はない。

すべて独学で、泥臭く積み上げてきたものだ。

感覚でやっている部分を、言葉にして他人に伝える自信がなかった。


それに、見ず知らずの相手と上手くコミュニケーションを取れるだろうか。

音楽を通して、初対面の相手と向き合うことへの重圧が、足元を掬うようにまとわりつく。


――それでも。


隼人には、バイトを紹介してもらったり、何気ない日常の輪に繋ぎ止めてもらったりと、数え切れないほど世話になっている。

周囲と馴染めない颯太の性質を分かった上で、付かず離れずの距離で支えてくれる隼人の存在に、これまでどれだけ救われてきたか。


隼人の頼みなら、無下にはしたくなかった。


「……分かった」


喉の奥で迷いを飲み込み、颯太は顔を上げた。


「ただ、今は無理だ。赤点取ったら、夏まで何もできなくなる。教えるのは、テストが終わった後でもいいか?」


一瞬、断られると思ったのだろうか。

少し驚いたような隼人だったが、すぐに嬉しそうに笑った。


「そっか。じゃあ、まずはテストだな!」


その一言が、やけに現実的に響いた。


放課後。

帰りのHRが終わると同時に、颯太は逃げるように教室を後にした。


まっすぐ家に帰れば、きっと作曲ソフトを立ち上げてしまう。

今の自分にとって、音楽はそれほどまでに抗いがたい引力を持っていた。


画面の中に広がる音の波。ステラのために紡ぐメロディ。

その誘惑に一度でも身を任せれば、テスト勉強なんて明日には忘却の彼方だ。


――今は、その音を遮断しなきゃいけない。


誘惑を物理的に断ち切るために、颯太は喧騒から離れた図書室で勉強することを選んだ。


静まり返った空間。

ページをめくる音と、空調の低い唸りだけが流れている。


苦手な科目の参考書を睨みつけながら、必死にペンを動かす。

けれど、文字は滑り、頭に入ってこない。


――赤点=ステラの曲が遅れる。


その図式だけが、妙にはっきりしていた。


集中が途切れかけた、その時。


誰かが図書室へ入ってきた気配には、気づかなかった。

低く唸る空調の音と、目の前の数式を追いかけることに必死で、周囲の音はすべて意識の外に追いやられていた。


重い瞼を擦り、凝り固まった首を回そうとふと顔を上げた。


視界の端、本棚の隙間に人影が見える。

本の背表紙をなぞるように指を走らせ、目的の一冊を探しているその横顔に、颯太の動きが止まった。


――莉奈だ。


彼女もまた、この図書室に誰かがいるとは思っていなかったのだろう。

颯太の視線に気づいた莉奈が、弾かれたように顔を上げる。


視線が、真正面からぶつかった。


「……え」


「……っ」


お互いに、肩を小さく震わせる。


驚きのあまり、颯太は握っていたペンを危うく落としそうになる。莉奈の方も、

棚から引き抜こうとしていた指を止めたまま、目を見開いて固まっていた。


――彼女は、いつも一人でいる。

誰かと群れることを避け、余計な関わりを持たないことで、自分自身を守っている。

そんな彼女が、学校という公の場で誰かと親しげに接するところを見られたくないはずだ。


颯太は気まずさに視線を落とし、そのまま他人の振りをすべきか迷う。


莉奈も一度は目を逸らし、その場を立ち去ろうとする素振りを見せた。

けれど、彼女の足は動かなかった。


自分の正体を知り、その重すぎる過去にまで踏み込もうとしてくれた。

ただの他人として無視することはできなかった。


莉奈は誰かに見られていないか周囲を一度だけ慎重に確認すると、意を決したように、音を立てずゆっくりと颯太の席へ歩み寄った。


颯太の近くで立ち止まり、少しだけ気まずそうに、けれどそっと声をかけてくる。


「……、……お疲れ様です」


「あ……。お疲れ様、です」


予想外の挨拶に、颯太は喉を詰まらせながら返した。

お互いに視線が泳ぎ、数秒の沈黙が流れる。莉奈がチラリと机の上の惨状に目を向けた。


「……勉強、してたの?」


「……テスト、近いので。なんとか、赤点だけは回避しようと思って」


颯太が気恥ずかしさに頭を掻きながら頷くと、莉奈は無言のまま机の端まで身を乗り出し、開かれたノートを覗き込んだ。


「……あ、ここ。符号、間違ってますよ」


莉奈の指先が、颯太の書いた数式の一箇所を指した。


「え、嘘っ、どこだ……?」


慌てて見直すが、どこが違うのか瞬時には判別できない。

焦れば焦るほど、ペンを持つ指先が空回りする。


そんな颯太の無様な姿を、莉奈は黙って見つめていた。

その瞳は、冷たく突き放すようなものではない。

どこか、迷っているような……あるいは、何かを決意しようとするような、不思議な光が宿っているように見えた。


彼女にとって、颯太は正体を知る唯一の人間であり、同時に音楽を通して自分を救ってくれた相手でもある。


莉奈は、胸元にあるリボンの端を指先をぎゅっと握り込んだ。

そして、何かを必死に探しているような、あるいは大切なものを返そうとしているような、そんな表情で恐る恐る口を開いた。


「……教えましょうか?」


それは、配信をしている時の彼女とは違う、ひどく控えめで、けれど暖かい響きの声だった。


「……お願いします」


莉奈は颯太の向かいの席に座った。

莉奈はノートの端に、丁寧に図を書きながら説明してくれる。


「ここはね、こう考えると分かりやすい」


落ち着いた声。

シャープペンが紙を走る音。


音楽の話は、しない。

過去の話も、しない。


ただの高校生として、同じ問題を解いている。


窓から差し込む夕日が、机の上をオレンジ色に染める。


――音のない場所でも、こんなふうに繋がれるんだ。


颯太は、静かにそう思った。


図書室の時間は、いつもより少しだけ、優しく流れていた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


少しでも心に残るものがあれば、


評価やブックマークで応援していただけると嬉しいです。


次回も、よろしくお願いします。

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