仮面の裏側の聖域
朝、目を開けた瞬間に、颯太の指は無意識にスマホを探していた。
通知は、ない。
分かっていたはずなのに、胸の奥が少しだけ沈む。
昨夜、あれほど時間をかけて送ったメッセージ。
返事がすぐに来ないのは、当然かもしれない。
それでも、期待と不安は切り離せなかった。
顔を洗い、制服に袖を通しながら、何度も画面を点けては消す。
学校へ向かう道の途中でも、駅のホームでも、つい確認してしまう。
――嫌われたかもしれない。
――もう、チャンスはもらえないのかもしれない。
そんな考えが、頭の中を支配していた。
昇降口で隼人と顔を合わせる。
「おはよ。今日暑くね?」
「……ああ、そうだな」
いつも通りの軽い会話。
けれど、颯太の心はどこか遠くにあった。
ホームルームで教師がテストの日程を告げている。
黒板に書かれる文字を目で追ってはいるが、意味はほとんど入ってこない。
スマホの存在が、ずっと気になっていた。
放課後、バイト先の厨房。
苺のヘタを取り、計量し、洗い物をこなす。
身体はもう、作業を覚えている。
単調なリズムの中で、ふいにポケットが震えた。
一瞬、呼吸が止まる。
(……今?)
見たい。
今すぐ、画面を確認したい。
颯太に連絡を送る相手なんて、指で数えるほどしかいない。
母親か、あるいは隼人から。
そのどちらかだろう。
けれど、脳裏にステラの、SNSのアイコンが浮かぶ。
……期待しすぎだ。
そう自分に言い聞かせても、胸の騒ぎは収まらなかった。
手は濡れているし、周囲には他のスタッフもいる。
颯太は何事もなかったように視線を落とし、作業を続けた。
苺の赤が、やけに滲んで見える。
秒針の進みが、異様に遅い。
心臓の音だけが、やけに大きかった。
終業後、更衣室に入るなり、颯太はロッカーに背を預けてスマホを取り出した。
手が、少し震えている。
画面が点く。
ステラからの連絡だった。
急いでメッセージを開き、見えた最初の五文字。
『わかりました』
息が、一気に肺へ流れ込んだ。
そのまま、続きを読み進める。
『一度、お話ししましょう。
今週の土曜、午前中なら時間が取れます。
午後から配信があるので、それまででよければ』
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
拒絶ではなかった。
距離を取られたわけでもない。
彼女は、ちゃんと向き合おうとしてくれている。
土曜日の午前中。
場所は、学校から少し離れた喫茶店。
文面の最後に添えられた「よろしくお願いします」という一言が、やけに丁寧で、彼女らしかった。
土曜日。
店内に流れる静かなジャズと、コーヒーの香り。
指定された喫茶店は、落ち着いた雰囲気で、昼前の時間帯ということもあり、客は少なかった。
先に来ていた颯太が席に座っていると、ドアベルが小さく鳴る。
顔を上げた瞬間、息を呑んだ。
莉奈だった。
制服ではない。
淡い色のブラウスに、落ち着いたスカート。
派手ではないのに、どこか大人びて見える。
視線が合うと、莉奈は一瞬だけ戸惑ったようにしてから、小さく会釈をした。
「……こんにちは」
「こんにちは」
それだけで、胸が少し苦しくなる。
ぎこちない空気のまま、向かい合って座る。
店員が水を置き、注文を聞いて去っていくまで、二人とも言葉を探していた。
沈黙を破ったのは、颯太だった。
このまま黙っていたら、彼女を不安にさせるだけだ。
「……今日は、来てくれてありがとうございます」
絞り出すような声に、莉奈は顔を上げた。
「それから……本当に、すみませんでした。身勝手な曲を押し付けて、桜庭先輩の居場所を壊そうとして。……俺、最低なことしました」
深く頭を下げる。
テーブルの木目を見つめながら、言葉を続けた。
「ステラの活動が、桜庭先輩にとってどれほど大切で、必死に守ってきた場所なのか……。何も考えられてなかった。本当に、ごめんなさい」
言い終えても、莉奈からの返答はない。
嫌われても仕方ない。
そう覚悟して顔を上げた時、莉奈は怒るどころか、どこか切なげに視線を落としていた。
指先が、カップの縁をなぞっている。
「……謝らないでください。私、あの曲を聴いて……嬉しかったんです。でも同時に、ステラじゃいられなくなる気がして怖かったんです」
そこから、少しずつ言葉がこぼれ始めた。
中学時代のこと。
「……昔の私は、今の私とは全然違ったんです。もっとお喋りで、笑うのが好きで……ステラに、近かったのかもしれない」
莉奈の言葉に、颯太は息を呑む。
「でも、それが気に食わないっていう子がいたんです。『調子に乗ってる』とか、『目障りだ』とか。最初は小さな無視から始まって、気づいたら……教室全体が、私の存在を消そうとしていました」
理由なんて、何でもよかったのだ。
ただ楽しそうに笑っている。
自分らしく振る舞っている。
それだけのことが、誰かの悪意に火をつけた。
「理由の分からない悪意に晒されるうちに、自分でも自分が分からなくなっていって……。いつの間にか、声を出す方法も、笑い方も忘れてしまいました。……私という人間は、誰にも必要とされてないんだって。そう思うしか、心が持たなかったんです」
カーテンの閉め切られた、暗い自室。 学校に行けず、ただ天井を見つめていた日々。
「そんな時に、出会ったんです。そうたさんの、『輝く星に』という曲に」
颯太の胸が、強く打たれる。
「あの曲を聴いたとき……星になりたい、じゃなくて、ここにいてもいい場所があるんだ、って思えたんです」
本当の自分を出してもいい場所。
否定されない場所。
だから、彼女は「ステラ」という名前を選んだ。
仮面を被り、配信という聖域を作った。
「現実の私は、否定されてばかりだったから」
「せめて、ステラだけは守りたかったんです」
そう言って微笑む莉奈の表情は、どこか寂しそうだった。
颯太は、ようやく分かった気がした。
彼女が切り離してきたもの。
そして、本当は切り離したくなかったもの。
「……私、ステラでいる時だけは、『本当の私』でいられる気がするんです」
短い沈黙のあと、莉奈は顔を上げた。
「だから……ステラとして、歌える曲がいいです」
聖域を壊さないこと。
でも、ほんの少しだけ、前を向けること。
それが、彼女の条件だった。
店を出る頃には、空気は少し柔らいでいた。
「配信、頑張ってください」
そう声をかけると、莉奈は小さく頷いた。
「うん……ステラなら、大丈夫だから」
自分に言い聞かせるようなその言葉が、胸に残る。
帰宅後、颯太は迷わずパソコンを立ち上げた。
「莉奈=ステラ」という情報だけで、分かった気になっていた過去の自分を、静かに振り返る。
今、必要なのは正解じゃない。
彼女の心に、そっと寄り添う音。
モニターを見つめる颯太の瞳には、かつての傲慢さはなかった。
ただ、静かな情熱だけが、そこにあった。
新しい旋律が、ゆっくりと生まれ始める。
聖域を壊さないための、音。
そして、彼女が少しだけ現実に戻ってこられるための、音。
颯太は、鍵盤に指を置いた。
今度は、ちゃんと、彼女のために。
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