ふたつのココロ
ダウンロード完了の表示が消えた瞬間、部屋の静けさが一段深くなった気がした。
様々な設定を済ませ、作曲ソフトの中に音源が導入された。
颯太は息を整え、鍵盤に指を置く。
たった一音。
鍵盤を押し込んだその瞬間、空気が震えた。
これまで使っていたストリングスとは、明らかに違う。
音が鳴る、というよりも――そこに“奏者”が立ち上がる感覚だった。
弓が弦を捉える摩擦、重なり合う息遣い、微かに揺れる音程。
プラスチックの箱から出ていたはずの音が、いつの間にか巨大なホールを満たす本物のオーケストラにすり替わっているようだった。
颯太は無意識に、もう一度鍵盤を叩いた。
「……いい音だ」
それだけしか言葉が出てこなかった。
すでに書き上げていた歌詞。
何度も練り直したメロディ。
そこに、この旋律がはまる。
パズルの最後の一片が、吸い込まれるように収まった。
世界が、ぴたりと完成する。
コードを重ね、ストリングスを走らせ、ドラムを最小限に抑える。
音が多いのに、うるさくない。
主張しているのに、歌を邪魔しない。
これだ、と颯太は思った。
初めて、自分の音楽が“理想の形”に触れた気がした。
画面の右上に、曲名の入力欄が点滅している。
「……ふたつのココロ」
キーボードを叩く指に、迷いはなかった。
学校で見る莉奈。
配信で見るステラ。
そのどちらも知っている。
そのどちらも、同じ人だと知っている。
それを理解しているのは、自分だけだ――そんな傲慢な自負すら、今は心地よかった。
気づけば空が白み始めていた。
書き出したデータをスマホに移し、椅子にもたれかかる。
全身が重い。
けれど胸の奥だけが、異様なほど軽かった。
目の下にクマをつけたまま学校へと向かった。
颯太は机に突っ伏しそうになる身体を、意地で起こしていた。
「お前、クマやばいぞ」
隼人が半笑いで覗き込んでくる。
「そんなにバイトきつかったか?」
「あー……まあ」
適当に返して、視線を逸らす。
頭は冴えているのに、現実感が薄い。
授業が始まるが、内容なんて、一言も入ってこなかった。
黒板を叩くチョークの乾いた音も、教師の単調な声も、全てが遠い世界のノイズのように聞こえる。
一分一秒が、永遠のように長い。
逃げ出したい衝動を、なんとか抑え、四時間目までを耐え抜いた。
昼休み。
人のいない廊下の端で、颯太はスマホを握りしめていた。
何度も書いては消した文章を、ようやく送信する。
『新曲ができました。
今の自分に出来る、一番いい曲になったと思います。ぜひ聴いてください』
颯太はメッセージとAIのボーカルで歌入りのデモ曲、歌詞を送った。
送信後、心臓の音がやけに大きく感じられた。
やはり、直接話したことが一度しかない相手だ。
画面越しとはいえ、緊張しないわけがなかった。
数分後、スマホが震える。
『ありがとうございます。
聴いたらまた連絡しますね』
短い一文。
事務的で、感情の温度は読み取れない。
それでも今の颯太には、それが希望に見えた。
その日の放課後。
バイト先での作業は、いつも通り淡々と進んだ。
寝不足なこともあって、非常に怠さを感じながらも働いた。
当初の目的だった音源代を稼ぐことは達成している。
もうここで無理をして働く理由はないはずだった。
これから先、また新しい音源や機材が欲しくなる時が来る。
その時、親に頼るのではなく、自分の力で手に入れられる場所を確保しておきたかった。
ここで働き続けることは、颯太にとって、今後役に立つと思ったからだ。
苺を並べ、洗い物をこなし、床を拭く。
身体は動いているのに、意識はずっとポケットの中にあった。
帰宅してからも、スマホを置けない。
通知が来ていないか、何度も画面を点けては消す。
来ない。
来ない。
来ない。
しかし、張りつめていた緊張の糸が、疲労に負けてふっと切れた。
吸い寄せられるようにベッドへ横になると、重力に逆らう力すら残っていなかった。
颯太の体は限界だった。
スマホを握りしめた手の感触だけを残して、深い眠りに落ちる。
朝日が、容赦なく瞼を刺した。
反射的にスマホの画面で時間を確認した。
通知が、ひとつ。
ステラからのメッセージだった。
鼓動が跳ね上がる。
画面を開いた、その瞬間。
ネット上での名前--「そうた」と呼びかけるその一文が目に入った。
世界から音が消えた。
『ごめんなさい。この曲は今の私には歌えません。
本当に、聴いていて震えるくらい素晴らしい曲でした。
私のことを、あんなに深く見つめて、一音一音を大切に紡いでくれたのが伝わってきて……。
自分のこと以上に、私のことを分かってくれている気がして、胸が熱くなりました。
でも、私にとってステラは、現実を忘れるための場所なんです。
そうたさんの曲は、あまりにも「私自身」すぎて……これを歌うと、私がステラとして立っていられなくなってしまいそうで、怖いんです。
本当にごめんなさい。あなたの才能を、こんな形で拒絶してしまって』
文字が、意味を持たない記号のように並んでいる。
なぜ、という言葉すら浮かばなかった。
頭の中が真っ白になる。
理解したつもりになっていた。
莉奈の二面性を、全部わかった気でいた。
それはただの独りよがりだったのだと、今さら思い知らされる。
颯太は、莉奈に何も聞いていなかった。
どんな曲を歌いたいのか。
どんな自分を表現したいのか。
莉奈が何を求めているかなんて、一度も話し合わないまま、自分の解釈を「正解」だと、信じ込んで押し付けただけだ、
颯太は、自分がいいと思うものを、最高だと思う音で鳴らせば、莉奈が喜ぶと疑いもしなかった。
結局、颯太は彼女のことを考えていたんじゃない。
彼女を理解していたつもりの”自分”に、酔っていただけだった。
モニターに映る、昨日まで輝いて見えたストリングスの波形。
最強だと思った音が、急に冷たく、無機質な塊に見えた。
希望だったはずのスマホが、今はただ重い。
颯太は、しばらくその場から動けずにいた。
次に鳴らすべき音が、どこにも見つからなかったからだ。
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