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〈第一話・放課後の光〉

 午後五時の教室は、いつも少しだけ静かすぎる。

 黒板消しの粉がまだ空気の中に漂っていて、傾いた陽の光が差し込むと、細かな埃が舞っているように見えた。

 藤崎 遥は自分の席に静かに座り、ノートを開いたまま、ページの端が風でめくれ上がるのを見つめていた。


 彼女はすぐに戻そうとはせず、そのページをただ見つめていた。

 そこには生徒会の会議記録がぎっしりと並んでいる。几帳面な文字のはずなのに、今の彼女の心を落ち着かせる言葉は一つもなかった。


 窓の外では、まだいくつかの部活が活動していた。

 バスケットボールの弾む音、笛の音、そして笑い声。

 それらがガラス越しに届くと、どれも少しぼやけて聞こえる。

 ごくありふれた学期の一日。

 けれど、遥はなぜか今日の光がいつもより優しい気がした。


 彼女はそっとノートを閉じた。机の上に薄いペンの跡が残る。

 それはさっき、力を入れすぎて書いた跡だった。


 「……また緊張してたな。」

 小さく自嘲するように呟く。誰もいないのに、その声は丁寧で穏やかだった。


 いつの間にか、彼女の世界は整然としすぎていた。

 試験の成績、部活の仕事、人との距離。

 すべてが彼女の文字のように整っていて、端正だった。

 だからこそ、「力を抜く」という感覚を、もうほとんど忘れていた。


 窓の外の空は橙色と桃色に染まっていく。

 放課後の光が斜めに差し込み、彼女の机の上に柔らかな影を落とした。


 遥は手を伸ばし、指先をその光に重ねる。

 少しだけぼんやりとした。

 ――何も考えずに、ただ座っているのがこんなに久しぶりだったのかもしれない。


 隣の席は空いていた。

 クラスメイトが早く帰った後の名残りのように、椅子が少しだけ引かれている。

 まるで、誰かの温もりがまだそこに残っているみたいだった。

 遥はその方向を見つめ、今朝聞こえた笑い声を思い出した。


 一年生の子たちがまた廊下で騒いでいたのだ。

 誰かが名前を呼び、誰かが追いかける。

 その笑い声は透きとおるように明るくて、まるで洗い立ての空みたいだった。

 ――いいなぁ、と彼女は思う。

 あの年頃、あんなふうに声をあげて笑えるなんて。


 彼女は自分の一年生の頃を思い出した。

 少し人見知りで、言いたいことを飲み込んでばかりいた。

 先生に「もっと大きな声で」と言われた記憶がまだ鮮明に残っている。

 あの頃はまだ、「誰かに好かれる」ということが、こんなにも不安なことだとは知らなかった。


 それから彼女は、人の気持ちを先に考えるようになった。

 誰も困らせず、自分も目立たないように。

 そうして今、彼女は「先輩」と呼ばれる存在になった。

 落ち着いていて、信頼できて、空気を読める人。


 ――でも、たまに思う。

 こんな自分って、つまらないんじゃないかって。


 机の上のスマートフォンが小さく震えた。

 画面を見ると、生徒会のグループチャットの通知だった。

 『明日の朝八時、定例会。資料を忘れないように。』


 「わかりました。」

 心の中でそう答えて、彼女は画面をロックした。


 また、風が窓の隙間から吹き込む。

 彼女は立ち上がってカーテンを引いた。

 その瞬間、光がちょうど彼女の顔に落ちた。

 温かさが肌に染み込み、まぶしさに目を細める。まつげの影が頬に揺れた。


 「……まぶしいな。」

 小さく呟く声は、まるで陽の光と一緒に溶けていくようだった。


 窓の隙間から外を覗くと、グラウンドでは一年生たちがゆっくり片づけを始めていた。

 ボールバッグを背負う子、階段に座って水を飲む子。

 その光景を見て、彼女は不思議な感情に包まれた。

 ――それは羨ましさでも懐かしさでもなく、

 世界が前へ進んでいるのに、自分だけが少し取り残されているような寂しさ。


 遥はそっと息を吐いた。

 きっと、ただ疲れているだけ。

 きっと、この光が優しすぎて、心が少しだけ脆くなってしまったのだ。


 彼女はゆっくりと鞄を片づけた。

 ペンケースのチャックを端まで揃え、ファイルをきちんと重ねる。

 そして教室を出ようとしたその時、ふと気づく。


 ――ドアのそばに、靴が一足。


 藤崎 遥は息をのんだ。

 そこには、まだ少し制服が大きめの女の子が立っていた。

 夕陽に染まった髪先が、ほんのり橙に光っている。


 その瞳は、この時間帯の光とは思えないほど明るかった。


 「……あ、邪魔でしたか?」

 澄んだ声が響く。午後の最後の氷砂糖みたいに、やわらかく甘い音だった。


 遥は数秒だけ固まり、それから我に返った。

 「……ううん。あなたは?」


 「橘 咲良です。」

 少し緊張しながらも、真っ直ぐな笑みを浮かべる。

 「生徒会の藤崎先輩ですよね?」


 遥は小さくうなずいた。

 その瞬間、窓の外から差し込む光がふたりの影を長く伸ばした。


 そして、遥は思った。

 ――この光は、もうただの“放課後の光”じゃない。

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