――――第32話――――
その後どれだけ経っても、事態は改善を見せなかった。
密偵を使い入念に調べさせたものの、武具買い占めの首謀者も、噂の出所も判然としない。
武具相場は多少の落ち着きを見せていたが、噂の方は布告を出してなお、領都の中で拡大を続けていた。
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「……チッ」
執務室で、ゼノルは一人舌打ちした。
噂の拡散度合いが、軽視できない水準にまで達し始めているためだった。しかも盗賊や海賊や異民族ばかりではなく、隣のアガーディア公爵が攻めてくる、王の軍勢が攻めてくるといった、新たな内容まで確認されている。もはやその類の噂を知らない住民の方が少ないほどだろう。
現状、まだ混乱が起こる域には達していない。
ロドガルドは王国内でも随一の軍事力を持つ貴族であるため、その領都に住む民が危機感を覚えることはなかなかない。良くも悪くも平和ボケしているのだ。
だが、いつまでも安穏としてくれているかはわからなかった。ふとしたきっかけで恐慌が伝播し、都市を覆い尽くす混乱が発生しないとも限らない。
軍を動かすのも手だ。
兵を使って噂の拡散を強引に取り締まり、暴動の抑止のために領都を巡回させる。ある程度の効果は見込めるだろう。
だが、それが刺激となってしまう可能性もある。迫る外敵に手をこまねいているゼノルに対し、不満の声も出始めている。
ゼノルは難しい判断をしいられていた。
なによりの問題は……この噂の意図が、まったく読めない点にある。
「ゼ、ゼノル様!」
その時、執務室の扉が勢いよく開き、スウェルスが血相を変えて飛び込んできた。
ゼノルが視線を鋭くする。
「どうした。何があった」
「きょ、教団側に、動きが!」
スウェルスは焦燥混じりに報告する。
「街に、新たな噂が流れています! なんでも今日の正午に、中央広場で聖女様が演説を行うのだと……。それもどうやら、これまでに流れていた噂に関連する内容だという話です!」
「……なんだと?」
ゼノルはしばし険しい表情で黙考した後、おもむろに立ち上がる。
「向かうぞ。貴様も用意をしろ、スウェルス」
「は?」
「あの女の企みを直接確認する。貴様もついてくるがいい」
「ちょ、お待ちくださいゼノル様!」
スウェルスが慌てたように言う。
「危険です! 人が集まることが予想されます。混乱が生まれる可能性だって……」
「護衛の兵を連れて行けば問題あるまい」
「その程度でどうにかなるとは限りませんよ! むしろかえって群衆の目を引きかねません!」
「いいかスウェルス。これは必要なことだ」
ゼノルはそう言って、自らの補佐官を見据える。
「ここからは迅速さが重要になる。奴の策をいち早く把握し、対策を考えねばならん。事態はもはや楽観できる状況にない。貴様も理解しているはずだ」
「う……」
「オレの領民が恐ろしいのならば、貴様はここに引きこもっているか? 許してやらんでもない」
「……わかりました。行きますよ」
「それでいい」
ゼノルが口の端を吊り上げて言う。
「案ずるな。少なくとも、奴がその場で暴動を起こすことはまずない。オレとの交渉の余地がなくなってしまうからな」
「それはそうでしょうが……」
「もっとも」
ゼノルが物憂げに呟く。
「その程度の相手である方が、よほど助かるのだが」
**
中央広場には、ゼノルの予想を上回る人数が集まっていた。
ゼノルにギリギリまで勘づかれないよう、演説の噂は相当慎重に流していたはずだ。それでも広場の三分の一を埋めるほどの人数を集めたとなると、優秀な密偵を何人も動員したと見るしかなかった。
教団の手管としては、やや違和感があるものだ。
だが、それは今はどうでもいい。
護衛の兵に囲まれながら、ゼノルが馬車から降りる。その物々しい雰囲気に、周囲の人間がぎょっとしたような視線を向ける。
しかし、騒ぎにはならなかった。
ゼノル以上に注目を集める存在が、広場にはいたからだろう。
薄紅色の髪を垂らし、華やかながらも神聖さを感じさせる衣装を纏った、美しい少女。
護衛らしき神官たちに周囲を固められながら、広場の中央付近にある演壇に堂々と立つ、ラニスの姿がそこにあった。
どこか不安げで、何かを期待するような民の視線を浴びながら、ラニスはおもむろに口を開く。
「みんなーっ! 今日は来てくれてありがとう!」
澄んだ声が、広場に響き渡った。
どこか儚さすら感じさせるのに、蒼穹にまで届きそうなほどよく通り、思わず耳を傾けずにはいられない不思議な声。
「今日ワタシに会いに来てくれたみんなは……きっと、今いろんな噂を聞いて、不安を感じていると思う。わかるのだわ! ワタシが生まれた村も、傭兵崩れの盗賊団に襲われて、なくなってしまったから」
群衆がざわめく。
それは決して、知らぬ話に驚いたという反応ではなかった。ラニスの生まれの逸話は、多くの人間の知るところである。
ただ、ここからどういう話が始まるのかわからない。
「今でも覚えてる。ハシバミや野いちごがたくさん生る森があったこと。干し草の山で友達とかくれんぼをしたこと。夕暮れ時に母が村に伝わる子守歌を歌ってくれたこと……。すべて失われてしまった。今はもう、ワタシの心の中にしか残ってない」
そこでラニスは、情感の籠もった笑みを浮かべる。
「ワタシだけが生き残ったのは、ただ、それが神の意志だったから。その意味も、今はわかる。ワタシの力でたくさんの人を助けるという、使命のためだったのだわ」
そう言って、微笑を浮かべたままゆっくりと聴衆を見回す。
「ワタシ、この街が好きよ! 食べ物はおいしくて、市はいつも賑わってる。教会の鐘楼から見る街並みはとってもきれいだわ。住人はみんな明るくて親切だし、なにより王国の中でも特に長い歴史を持つこの都市を、自分たちが支えてきたんだという誇りと自信に満ちている。ワタシが嫁ぐ街がこんなに素敵なところだなんて、今でも信じられないくらい」
そこで――――ゼノルは、ラニスと目が合ったように感じた。
聖女が目を細めながら告げる。
「だから……ワタシは、この街を守りたい」
ラニスが背後を振り返った。
控えていた神官たちが退がり、聖女の視線の先にあるものを、聴衆の目に晒す。
それは――――武具の山だった。
「な、まさか……」
ゼノルも思わず動揺の声を上げる。
聖女の背後に積み上がっていたそれらは、初めから視界に入ってはいた。だが、どこかの古鉄屋が集めたがらくたの類だと思っていた。
しかし、大量に積み上がった鋼の輝きを見る限り、あれはがらくたの類ではない。
まず間違いなく――――市場で買いあさられていたものだ。
いつの間にかラニスの手には、細長く薄く、両端が鋭く尖った白い金属が握られていた。
それはまるで……巨大な羅針盤の針のような。
ラニスは『針』を、ゆっくりと武具の山に向ける。
「これこそがワタシの使命で――――神の意志なのだわ」
不意に、ぎちぎちという鈍い金属音が響いた。
武具の山が鳴動する。
群衆のざわめきが大きくなる中、積み上げられた鎧や剣が、不気味にうごめき始めた。
まるで一つ一つが見えない糸で操られているかのように、空中を渦巻いていく。
やがて――――それらは、一つの形を取り始めた。
巨大な翼。
長い首に厳めしい頭。
鋼の爪を持つ太い手足に、鋭い刃が煌めく尾。
「竜だ……」
群衆の中の、誰かが呟いた。
きっとその場にいた誰もが、同じ認識だっただろう。
無数の武具で形作られたそれは――――いくつもの伝説で語られる、巨大な竜そのものだった。
翼開長は、おそらく一般的な家屋三軒分にも相当するだろう。
陽光を反射する剣や鎧で構成されたその姿は、まさしく鋼の竜と呼ぶにふさわしい威容だ。
群衆が呆気にとられる中、ラニスはおもむろに『針』を上に向ける。
鋼の竜が――――浮いた。
翼を打ち下ろすこともなく、巨大な体が地面を離れる。すさまじい重量があるはずだが、それをまるで感じさせることなく、竜は浮遊していた。
竜が刃の翼を広げる。
ギキィィィ――――ッッ、という鈍い金属音が、広場に轟いた。
その顎こそ開いてないものの……それはまさしく、鋼の竜の咆哮だった。
言葉を失っている群衆に背を向けたまま、ラニスはじっと竜を見上げる。
「村から逃げるとき……ワタシは助けられるばかりで、誰も助けることができなかったわ。小さいワタシには、なんの力もなかったから。でも……今は違う!」
ラニスが振り返る。
その顔に、すでに微笑は浮かんでいない。
戦場に赴かんとする、戦乙女の面差しだった。
「神器の力で、ワタシがこの街を守るのだわ! 盗賊も海賊も、どんな貴族の軍勢だって、神器の奇跡で打ち払って見せる! みんなには指一本だって触れさせやしない! だから!」
神器の権能で生み出された鋼の竜をその背に、ラニスは精悍な笑みとともに、聴衆へと手を差し伸べる。
「ワタシを応援してほしい! みんなの力を、ワタシに貸してほしいのだわ!」
聴衆が沈黙する。
それが破られるまでに……さほどの時間はかからなかった。
「聖女様……」「聖女様!」「聖女さまっ」「聖女様ぁー!」「私たちを守って、聖女様!」「おれ、応援するよ!」「聖女様はオレが守る!」「盗賊なんて全員ぶっ殺せ!」「海賊どもを海に叩き帰しちまえ!」「王だってこの街の敵じゃないぞ!」「俺も戦う! 聖女様だけに任せられるか!」「聖女様っ!」「聖女さまーっ!」
声援が伝播していく。
群衆が熱狂する様を、ゼノルはただ、見ていることしかできなかった。
「みんなーっ! ありがとう! ほんとうにありがとーっ!」
声援に応えるように、ラニスが手を大きく振る。
それはまるで、新たな宗教の教祖が、ここに誕生したかのようだった。
不意に、竜が翼を打ち下ろした。
その巨体を一気に上昇させると、広場の上空を悠然と飛行し始める。
群衆が歓声を上げる中――――ラニスは自らの信徒へと、力強く告げた。
「みんなに、神の祝福を!」




